接触者追跡アプリで感染リスクを予測
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、スマートフォンが広く普及した現代1で初めてのパンデミックを引き起こし、従来の感染拡大抑制策を補完・代替できるようなアプリのアイデアが数多く生まれた。例えば、検査結果を届けたり、ワクチン接種済みの証明をしたり2、感染者と最近接触した人を追跡したりするアプリが開発された。Nature 2024年2月1日号の145ページでは、スマートフォンの接触者追跡アプリのデータが疫学的に貴重な情報となることを、オックスフォード大学(英国)のLuca FerrettiとChris Wymantら3が報告している。
公衆衛生当局は以前から、人から人へ直接伝播(でんぱ)する感染症が流行した際に接触者を追跡し、感染者と接触した人々を見つけ出し、外出自粛要請や隔離などの介入を行って感染の拡大を防ごうとしてきた。だが、手作業による接触者追跡は非常に手数がかかるため大規模に実施するのは難しく4、パンデミック時にはすぐに限界に達してしまう。一方、デジタル接触者追跡では個人のモバイル機器が収集したデータを利用するが、健康状態や交友関係に関わる個人情報を集めることになるため、プライバシーの侵害につながる恐れも心配される5。
COVID-19のパンデミックが発生すると、デジタル接触者追跡のさまざまなアプローチが議論された。最終的に多くの国の公衆衛生当局が選択したのは、グーグル社(米国カリフォルニア州マウンテンビュー)とアップル社(米国カリフォルニア州クパチーノ)が提供するスマートフォンのOSに統合されている、Exposure Notification Framework6という機能をベースにした接触者追跡アプリだ。この機能は、スマートフォン同士が物理的に接近したときに交換されるブルートゥース信号を利用している。送信される信号は、毎日新しく生成されるランダムな固有のコードで、相手方のスマートフォンに一定期間だけ保存される。
重症急性呼吸器症候群コロナウイルス2(SARS-CoV-2)陽性と判定されたユーザーは、義務ではないが、スマートフォンに保存された一連のコードをサーバーにアップロードすることを求められる。他のユーザーのスマートフォンは、受信して保存されているコードをサーバー上のコードと比較する。コードが一致した場合、アプリは感染していた可能性がある人と接触したことを通知する。通知するかどうかは、推定される接触距離と接触時間、および感染者の感染力のレベルからアプリが算出したリスクスコアによって決まる。感染力のレベルは、接触から検査陽性までの日数に基づいて推定される。
接触者追跡アプリのような非医薬品的介入が、感染拡大の抑制に実際にどれだけ効果があったのかについては、今でも議論が続いている7。介入の目的は、医療システムに過重な負担がかかるのを防ぎ、ワクチンの開発・製造・配送までの時間を稼ぐことだった。この論争に答えを出せるような情報はほとんど集まっていない。プライバシー侵害の懸念と、デジタル接触者追跡システムに分散型アーキテクチャを採用したため、アプリが収集した接触データが中央データベースに保存されなかったからだ。さらに、多くの国の公衆衛生当局は、アプリ利用数の代理指数にダウンロード件数を使用したが、利用指標としては不正確なため、アプリがどのくらい広く採用されていたのか不明だった(go.nature.com/42q6axc参照)。同じ理由から、COVID-19の感染拡大についての重要な疫学的指標の監視という点でも、システムは持てる能力をほとんど発揮できなかった。
注目すべき例外は、イングランドとウェールズの国民保健サービス(NHS)が提供したNHS COVID-19アプリだ。これはアプリ開発企業と学術機関の緊密な協力の下に開発された。パンデミックが始まった頃、開発チームはワクチンや治療薬以外の接触者追跡アプリのような介入の効果をモデル化するツールを作成し8、アプリが感染者数やCOVID関連の入院・死亡の抑制に役立つことを実証するデータを報告した9。続いて今回の研究3では、アプリが記録したデータを分析して、ウイルスが人から人へと伝播する確率と接触距離や接触時間との間の関係(図1)について検証した。
研究チームは、アプリの各アクティブインスタンスが中央サーバーへ自動的に匿名で送信するデータのパケットを分析した。パケットは1日1回送信される他、アプリがユーザーに感染者と接触があったことを通知したときと、ユーザーが検査陽性をアプリで報告したときに送信される。これらのパケットに共通しているコードから、接触と実際の感染を照合できた。
全ての感染が、アプリによって記録された感染者との接触によるものとは限らない。背景にあるノイズをモデル化して除去することで、通知された接触が報告された感染に起因している確率を推定できた。また、リスクスコアをさらに構成要素に分解し、瞬間的なリスクレベル(接触時間に関係ないリスク)の寄与と接触時間の寄与を別々に分析できるようにした。主な発見は、リスクスコアと報告された感染確率の間には明確な用量–反応関係が存在すること、そして接触距離よりも接触時間が重要だということである。また、スマートフォンを利用した測定と接触追跡アプリによる計算が、限界はあるにせよ、感染確率の有効な予測因子となることも確認された。
接触者追跡アプリは、将来のパンデミックに対する非医薬品的介入のツールキットとなり、パンデミックに備えた計画の一部となるべきである。ブルートゥースの信号よりも正確に機器間の距離を測定できる、超広帯域無線のような技術がスマートフォンに採用されるようになれば、距離の推定は改善されるだろう。将来的には、屋内か屋外かなど、感染の確率に影響する他の要因も考慮できるようになるかもしれない。
さらに、プライバシーを保護しながら、疫学的に重要なデータを収集できるような戦略を開発しなければならない。緊急の政策決定が必要となる次のパンデミックが来る前に、このような戦略が広く受け入れられるよう一般市民と議論を深めるべきである。将来のパンデミックでは、今回のような解析が、データの生成と同時に継続的に行われることが理想的だ。それにより保健当局は、時々刻々と変化するパンデミックの状況を的確な空間的分析で監視し、感染拡大を抑制するための非医薬品的介入をきめ細かく調整できるだろう。
翻訳:藤山与一
Nature ダイジェスト Vol. 21 No. 5
DOI: 10.1038/ndigest.2024.240540
原文
Contact-tracing app predicts risk of SARS-CoV-2 transmission- Nature (2024-02-01) | DOI: 10.1038/d41586-023-04063-6
- Justus Benzler
- ロベルト・コッホ研究所(ドイツ・ベルリン)に所属。
参考文献
- https://www.statista.com/statistics/539395
- Cascini, F. et al. Front. Public Health 9, 744356 (2021).
- Ferretti, L. et al. Nature 626, 145–150 (2024).
- European Centre for Disease Prevention and Control. Contact Tracing for COVID-19: Current Evidence, Options for Scale-up and an Assessment of Resources Needed (ECDC, 2020).
- Bradford, L., Aboy, M. & Liddell, K. J. Law Biosci. 7, lsaa034 (2020).
- https://www.macrumors.com/guide/exposure-notification
- https://algorithmwatch.org/en/analysis-digital-contact-tracing-apps-2021
- Hinch, R. et al. PLoS Comput. Biol. 17, e1009146 (2021).
- Wymant, C. et al. Nature 594, 408–412 (2021).