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リアルワールドエビデンスの今:第1回 RWEの現状と日本の課題

Credit: Warchi/iStock/Getty Images Plus

2013年10月中旬、世界の最新研究動向を探っていた森和彦(もり・かずひこ)氏は、New England Journal of Medicineに発表された、ある論文に目がとまった。それは、心疾患の患者に施された治療の効果について、患者レジストリ(特定の疾患についての医療情報を記録・収集するデータベース)を用いて調べた臨床試験「TASTE」に関する報告であった。臨床試験は通常、莫大なコスト(註1)がかかるが、TASTE試験は1症例50ドル(約7000円)で実施できたというのだ1,2

過去70年間、治療効果を検証する際のゴールドスタンダードと言われてきたのは、対象者を2つ以上のグループに無作為に分ける「ランダム化比較試験(RCT)」である。一方、TASTE試験では、スウェーデンにおいて長年収集されてきた患者レジストリを活用し、登録された約7200症例を分析することで、ある一般的な処置について、行っても行わなくても患者の予後に差が無いことが示された。それまで厚生労働省や医薬品医療機器総合機構(PMDA)でも長年にわたり医薬品の審査や安全対策に携わってきた森氏は、「私はこの論文を、いろいろな人に紹介しました。当時、日本でもこのようなことができるようになるべきだと思っていたからです」と言う。TASTE試験は、重要な事象情報の収集が不十分であるなど課題も多く抱えていたが、その後のフォーアップ研究で、通常のRCTで行われたものとほぼ同じ結果を得ている

現在は日本製薬工業協会で専務理事を務める森氏は、「従来のRCTでは、条件に厳格に合致する患者さんが選ばれ、腕利きのスタッフが集められます。しかし、このようにコントロールされた環境での結果が実際の治療にうまく当てはまるかというと、必ずしもそうではありません。TASTE試験のように、現実の医療現場で日常的に行われた診療情報をデータとして活用するという考え方は、試験結果の一般化の可能性を高め、より実践的な治療を実現できる魅力的な一面があります」と話す。

実世界のデータ

それから10年、実世界のデータ、いわゆる「リアルワールドデータ(RWD)」と呼ばれる医療データは、デジタル技術の飛躍的な進化とともにビッグデータとして日々、加速度的に生み出されている。

医薬品や医療機器の審査・承認を行うPMDAによると、日本は欧米と同様にRWDを実際の医療環境で得られたデータと見なしている。RWDの具体的な例としては、カルテなどの医療記録、レセプト(医療機関が保険者に提出する医療費の請求明細書)、患者レジストリの他、登録された医薬品、医療機器、再生医療製品から得られるデータが挙げられる4。さらにRWDには、家電製品やモバイル製品などのヘルスケア関連のデータソースも含まれる。身長・体重から血圧、処方された薬の詳細、病気の治療記録まで、私たち一人ひとりの健康に関するあらゆるデータが世界中で収集され、蓄積されている。

「これらのデータの多くは研究目的ではなく、日常の診療の過程で自然に蓄積されていくものです。集められた膨大なデータ(RWD)を使って、医療に関わる意思決定のために抽出される知識のことをリアルワールドエビデンス(RWE)と呼びます」と、東京大学大学院医学系研究科の助教で、RWEの人材育成講座を担当する関倫久(せき・ともひさ)氏は説明する。

医療データをRWEとして活用しようという試みは、近年盛んに行われている。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックの際にイスラエルが、何百万人もの自国民の医療データを基にCOVID-19ワクチンの有効性を示す論文を世界に先駆けて次々に発表したことは記憶に新しい。

「RWEが身近な言葉として使われるようになったのが2020年の春ごろです。感染者の動向やCOVID-19ワクチンの接種者、有効性、副反応などのニュースが世界同時にオンタイムで発信されたことは、非常に革新的でした。ワクチン開発も、通常の臨床試験と比べるとデータの質が劣った可能性はありますが、緊急時の場合はリスクを上回るベネフィットがあったことが伝わったと思います」と東京大学医科学研究所 国際ワクチンデザインセンター長の石井健(いしい・けん)氏は話す。

厳しさ増す医薬品開発

製薬業界は医薬品開発の効率を上げるために、RWDの利活⽤を積極的に進めたいと考えている。。通常、医薬品開発には10年以上の期間と数百億〜数千億円規模の費用が必要であるが、成功率は年々低下しており、2000年ごろは1万3000分の1だったが、現在では2万3000万分の1になっている。少子高齢化が進む日本では、健康寿命の延伸や個別化医療のためにも医薬品の効率的な開発が待たれている。

RWDに関しては、日本では医薬品の製造販売後調査で有効性・安全性の再確認のために利用する事例が多いが、欧米を中心に、医薬品の承認申請資料として利用する事例も増えている。また、いまだ有効な治療がない希少疾病や難病に対する医薬品の有効性・安全性の評価にRWDを活用することや、患者数が多い疾患でも大規模あるいは長期間のRWDを利用してRCTを補完することが、世界的な潮流になっている。

ただし、RWDの利活用は簡単ではない。「承認申請資料の作成を目的としてGCP(医薬品の臨床試験の実施の基準に関する省令)に基づき実施される治験とはさまざまなプロセスが異なりますので、データの信頼性を確保するための手法について世界中で議論が続いています」と森氏。PMDA執行役員(研究部門担当)の宇山佳明(うやま・よしあき)氏も、「私たちはRWDを解析すればRWEになるとは思っておらず、解析手法や研究デザインといった計画の適切性、そして、RWDそのものの信頼性の確保が重要です」と話す。「けれどもRWDを活用することで、医薬品の開発が難しい疾患で開発が効率的になる可能性があります。患者さんにより良い医療を提供するために、規制当局としても、積極的に検討・支援をしたいと考えています」と宇山氏。

出遅れた日本

欧米では2000年ごろからRWDの活用が活発化してきた。日本では、2010年ごろからRWDを活用した薬剤の安全性や有効性を評価する手法が議論され始め、観察研究だけでなく製薬業界でも医薬品開発でRWDが使われるケースが増えてきた。2010年代半ばからは政府主導の大規模プロジェクトが立ち上がり、患者レジストリを医薬品開発に利活用するための「クリニカル・イノベーション・ネットワーク」や、データの品質管理に重点を置いた医療情報データベース「MID-NET」などが構築された。

現在までに多種多様なデータベースが構築されているものの、治療や医薬品開発に結び付いているかというと、消極的な意見も多い。医療情報はそもそも、個人情報保護法によりさまざまな制限が課されており利活用しづらい。その上、データベースに検査結果がない場合や、電子カルテの情報が病院ごとに異なる、データがデジタル化されていないなど、利活用以前の問題も多く抱えている。例えば、日本ではCOVID-19ワクチン接種者の罹患率、重症化率、死亡率への影響などの情報が連結されておらず、ほとんど追跡できていない。ある製薬企業の臨床開発の専門家は、RWEを用いて他社の薬剤との有用性を比較したくても、「見たいデータがないために、できることがものすごく限られている」と言う。

RWEの利活用には、その基盤となるデータベースが整備されていることが前提だが、OECDが2017年に発表した統計5によると、電子カルテなどの医療データインフラの整備状況とその利活用の制度と法の整備において、日本の評価は加盟国で最下位であった。

米国のヘルスケアテクノロジー会社であるエイティオン(Aetion)社は、2019年1月〜2021年6月に米国食品医薬品局(FDA)に申請・承認された医薬品・生物製剤について、RWEの使用に関する調査を行った。それによると、同社の調査目的に合致した136件中116件(85%)に何らかの形でRWEが組み込まれていた6。RWE試験を利用した承認事例の割合は年々増加しており、2019年には51件中38件(75%)であったが、2021年上半期には26件中25件(96%)となった。日本では、2022年3月末時点で4件確認されている。

国立国際医療研究センターの医療情報基盤センター長を務め、電子カルテ改革を掲げる美代賢吾(みよ・けんご)氏は、日本はさまざまな医療研究プロジェクトを進めてきたものの、医療ビッグデータの収集方法やデータベースの構築方法についての議論が欠如していたと指摘する。例えば米国や英国は、標準的なデータを出せる電子カルテを導入した医療機関に補助金を出し、データをつなげることに注力してきたが、「日本ではそのようなインセンティブはなく、データの規格の遵守を求めなかったので、個々の病院の便利さを追求する形で電子カルテが進化しています。地域医療連携などには補助金が出ましたが、標準化の要件がなかったため、それぞれが独自のシステムとなりました。これでは相互にはつながりません。日本はまず果実を採りたいというのが先にあって、標準化や共通化といった土壌を耕す必要性に対する理解が進んでいなかったのです。共有できないシステムであっても保険診療に支障は来さないので医療機関は困りませんが、医学研究や医薬品開発の側は困るのです」。

難度の高い挑戦

このような状況を変えるために製薬業界や医療業界はここ数年、RWD活用に関する提言を相次いで出しており、政府も産官学での活発な議論を通じてデータを使いやすくするための法改正やガイドライン整備を進めている。

政府はさらに、医療全体の効率化を上げるためのデジタルトランスフォーメーション(DX)も積極的に後押ししており、2022年には岸田文雄(きしだ・ふみお)首相を本部長とする省庁横断型の医療DX推進本部を内閣官房に設置した。医療情報を全国的に共有するプラットフォームの創設や医療保険の診療報酬作業の効率化の他、医療情報の専門家が長年進めている統一の基準に基づく電子カルテの普及とデータの標準化についても国がようやく指針を出した。創薬や治験への医療データの二次利用も重要施策のひとつと位置付けている。

RWDの利活用を促進する気運は高まっているが、日本の社会的構造が諸外国と大きく異なるため、一つひとつ課題を解決しながら着実に進めていくことが重要だと、関氏は話す。

「1億2000万人の全国民に標準的な医療を提供できる日本の国民皆保険制度は、素晴らしいシステムです。これを維持しつつ、高齢化と増大する医療費に向き合いながら医療データの利活用環境を整えることは手間も費用もかかります。日本は世界でも類を見ないほど難度が高いことに挑戦しているのです」。

本特集の第二回では、RWDの利活用において日本より先行している欧米の事例を中心に「リアルワールドエビデンスの今」を掘り下げる。

詳細は、コレクション「リアルワールドエビデンス」を参照されたい。

註1:1症例当たり2万5000ドル(約350万円)以上かかるといわれている。go.nature.com/46qynXa 参照。

執筆:冬野いち子
米国在住のフリーランスジャーナリスト。


  • このコレクションの作成に当たって、モデルナ・ジャパン株式会社の財政支援に感謝いたします。全ての編集コンテンツについての責任は、Nature ダイジェストが単独で負っています。

Nature ダイジェスト Vol. 20 No. 9

DOI: 10.1038/ndigest.202309.pr

参考文献

  1. Fröbert, O. et al N Engl J Med https://doi.org/10.1056/NEJMoa1308789 (2013).
  2. Lauer. M. S. et al N Engl J Med https://doi.org/10.1056/NEJMp1310102(2013).
  3. Lagerqvist, B. et al N Engl J Med https://doi.org/10.1056/NEJMoa1405707(2014).
  4. Nishioka, K. et al Clin Pharmacol Ther. https://doi.org/10.1002/cpt.2410(2022).
  5. Health Working Paper No. 99 https://doi.org/10.1787/9e296bf3-en(OECD, 2017).
  6. Purpura, C. A. et al Clin Pharmacol Ther. https://doi.org/10.1002%2Fcpt.2474 (2022).