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DNAの構造を解明したジェームズ・ワトソンが死去 ― 彼の功績と科学界の苦悩

ジェームズ・ワトソンは、DNAの構造解明への貢献により1962年のノーベル生理学・医学賞を共同受賞した。 Credit: AP photo/Alamy

2025年11月6日、ジェームズ・デューイ・ワトソン(James Dewey Watson)が97歳で死去した。彼は、DNAの分子構造解明への貢献でノーベル賞を受賞し、ヒトゲノム計画の立ち上げと推進に尽力した一方で、後年には人種差別的・性差別的な発言をしたことで物議を醸した人物だ。

DNAの二重らせん構造の発見は、遺伝子が継承される仕組みや、細胞がタンパク質を合成する機構を解明する道を開いた。この発見がなければ、遺伝子治療、ヒトゲノム解読、がん治療におけるモノクローナル抗体の使用など、多くの科学的進展は実現しなかっただろう。

「二重らせん構造の解明は、メンデルやダーウィンの業績と並ぶ、生物学における三大発見の1つとして歴史に刻まれるでしょう」と、ワトソンが所長や理事長などを務めていたコールド・スプリング・ハーバー研究所(CSHL、米国ニューヨーク州)の現所長Bruce Stillmanは話す。

画期的な論文

ワトソンと分子生物学者のフランシス・クリック(Francis Crick)は、ケンブリッジ大学(英国)で共に研究し、初めて会ってから数年でDNAの構造を解明した。1953年、2人は画期的な論文『A structure for deoxyribose nucleic acid(デオキシリボ核酸の構造)』(J. D. Watson & F. H. C. Crick Nature 171, 737–738; 1953)を発表した。ワトソンは25歳になったばかりだった。

「彼にとって不可能なことは何1つありませんでした」と、CSHLの遺伝学者Robert Martienssenは言う。「手の届かないものなどなかったのです」。

だが、その後、DNAの二重らせん構造の発見には論争が付きまとうこととなった。ワトソンとクリックは、当時ロンドン大学キングスカレッジ(英国)で働いていた化学者のロザリンド・フランクリン(Rosalind Franklin)と生物物理学者のモーリス・ウィルキンス(Maurice Wilkins)のデータとアイデアを用いていたのだ。データの一部はフランクリンの許可なく共有されていた。ウィルキンスは1962年のノーベル生理学・医学賞をワトソンとクリックと共同受賞したが、フランクリンはその4年前に37歳で卵巣がんで死去しており、受賞する資格はなかった(2020年10月号「ロザリンド・フランクリンの遺産」参照)。

マンチェスター大学(英国)の動物学者Matthew Cobbと、ジョンズホプキンス大学(米国メリーランド州ボルティモア)の医学史研究者Nathaniel Comfortは、フランクリンを取り上げた2023年のエッセイで、「ワトソンとクリックはデータの使用許可を求めることができたはずだし、そうすべきだった。そして自分たちが実際に何をしたのかを、まずフランクリンとウィルキンスに、次に世界に向けて明確に説明すべきだった」と書いている(M. Cobb & N. Comfort Nature 616, 657–660; 2023)。

DNA構造の発見直後の時期には、ワトソンはフランクリンに対して特に冷淡に振る舞い、科学における女性の役割を概して軽視していた。ワトソンがDNA構造の発見の内幕について記したベストセラー『The Double Helix: A Personal Account of the Discovery of the Structure of DNA(邦題:二重らせん:DNAの構造を発見した科学者の記録)』の中でも、彼はフランクリンの容姿をけなしていて、「フェミニストにとっての最適な居場所は、よその研究室だ、という考えから逃れられなかった」と書いている。

私には分かりません

ワトソンと親しかった同僚らは、彼に対する功績と問題点が混在する彼の遺産と長い間向き合わざるを得なかった。マサチューセッツ工科大学(MIT、米国ケンブリッジ)の分子生物学者Nancy Hopkinsは、科学分野でのキャリアを追い求める女性がほとんどいなかった時代に、ワトソンは自分に博士号取得を強く勧めてくれたと振り返る。彼女が自分の研究室を立ち上げることになった時、テニュア(終身在職権)を取得できないのではないかと不安になったが、ワトソンは研究を続けるよう説得してくれたという。ワトソンは、「一心に研究に注力しなさい。審査の時期が来たら、推薦状の内容さえ良ければテニュアはもらえるはずだ。もらえないのならば、私が大学を訴えるよ」と言ってくれたとHopkinsは話す。

Hopkinsは後に、科学分野における女性の権利を強く主張するようになったが、自分はワトソンが指導し支援した多くの女性のうちの1人に過ぎないと話す。一方で、ワトソンの人種に関する発言には困惑していると言う。

2000年にカリフォルニア大学バークレー校(米国)で行った講演で、ワトソンは肌の色と性欲を結び付け、さらに痩身(そうしん)と野心を関連付ける発言をして聴衆の多くをあぜんとさせた。

「その講演が決別のきっかけでした」とHopkinsは話す。「その後のことは、私には分かりません」。

2007年にはワトソンが、黒人は白人よりも知能が劣ると主張した後、予定していた新刊著書の宣伝ツアーが中止されることとなった。当時ワトソンは、かつて自身が所長を務め、卓越した研究機関へと発展させることに貢献したCSHLで働いていたが、人種差別的な発言を受けて、CSHLの指導的立場を解任された。ワトソンは2020年にも同様の発言を行い、CSHLはワトソンとの関係を完全に断ち切った。ワトソンはまた、2007年に「反ユダヤ主義の一部は正当化される」と発言するなど、反ユダヤ主義的なコメントをしたこともあった。

卓越した教師として、ワトソンは若い世代の実情を正確に把握していました

影響力のある教科書

ワトソンは影響力のある書籍を数多く著した。最も有名なのはベストセラー『二重らせん』だが、この書籍は、特にフランクリンの扱いについて批判されてきた。

それ以前に執筆した教科書『The Molecular Biology of the Gene(邦題:ワトソン 遺伝子の分子生物学)』について、Cobbは電子メールで「非常に影響力が大きく、何世代にもわたる科学者の考え方を形作りました」と述べている。「卓越した教師として、ワトソンは若い世代の実情を正確に把握していました。これは、クリックにはできなかったことです」。

CSHLで遺伝子発現を研究しているAlexander Gannは、この教科書は当時としてはとても分かりやすいスタイルで書かれていて、分子生物学の分野を定義付けたと話す。「それ以前に書かれたどの教科書とも異なるものでした。それ以後の教科書の書き方を変えたのです」。

CSHLのワトソンの下で数年間研究した後に、同研究所の所長・理事長を引き継いだStillmanは、ワトソンは思いやりのある人物だったと話す。

「本当に人を大切にしていました」とStillmanは言う。「1950年代から1960年代にかけてのハーバード大学(米国マサチューセッツ州ケンブリッジ)で、若い女性研究者のキャリアを育てた教員が彼だけだったという事実が、その証拠です」。

Stillmanは、ワトソンが人種差別主義者だったとは思わないと言う。その理由として、ワトソンが、ヒトゲノム解読の倫理的・法的・社会的影響(ELSI)に関する研究への資金確保を主張していた点を挙げる。ヒトゲノム計画はワトソンが1980年代後半から1990年代初頭にかけて主導したプロジェクトだが、当時は大多数の人々はそのような偉業が実現可能だとは思っていなかった。

Stillmanは付け加えて言う。「その後のいくつかの不適切な発言に私は同意できませんでしたし、その件で何度も議論したものです」。Stillmanや他の同僚らの間には、そうした発言がワトソンの輝かしい功績を押しのけて記憶されてしまうのではないかという懸念もある。

それでもStillmanは、「100年後、人々の記憶に残っているのは二重らせんだけでしょう」と話す。

翻訳:藤山与一

Nature ダイジェスト Vol. 23 No. 2

DOI: 10.1038/ndigest.2026.260207

原文

DNA pioneer James Watson has died ― colleagues wrestle with his legacy
  • Nature (2025-11-08) | DOI: 10.1038/d41586-025-03380-2
  • Heidi Ledford, Mariana Lenharo, Brendan Maher & Traci Watson