ナポレオン軍の壊滅:これまで考えられていなかった感染症の関与
1812年、ナポレオン率いる約50万人の軍隊はモスクワから撤退する際、寒さ、飢え、感染症によって約60%が命を落とした。 Credit: R. Barbieri et al./Curr. Biol.
病気に苦しんだフランス兵の一部に、約2世紀遅れで新たな診断が下された。1812年、フランス皇帝ナポレオン1世はモスクワからの撤退中に兵士の大半を失い、その原因は飢餓や病気、ロシアの冬の極寒のためだと考えられていた。このほど、戦死兵の一部から得られたDNAの解析から、これまで疑われてこなかった2種類の細菌感染症が、ナポレオン軍をむしばんでいたことが明らかになった(R. Barbieri et al. Curr. Biol. https://doi.org/g97x4h; 2025)。
今回の結果は、2025年10月24日にCurrent Biologyに報告され、著者らは、ナポレオン軍が崩壊に至った原因が、かつて考えられていたよりも複雑だった可能性を示していると述べている。アリゾナ州立大学(米国テンピー)で人類学遺伝学を研究するAnne Stoneは、「この論文は歴史ファンの興味を非常にかき立てます。実に見事な研究です」と言う。
死の行軍
ナポレオン軍の崩壊を招いた要因については、歴史家の間で長年議論の的となってきた。2006年になってようやく、ナポレオン軍の兵士の遺骸の一部から得たDNAを調べた研究により、2種類の病原菌が特定された。発疹チフスを引き起こす発疹チフスリケッチア(Rickettsia prowazekii)と、塹壕(ざんごう)熱を引き起こすバルトネラ属細菌Bartonella quintanaである(D. Raoult et al. J. Infect. Dis. 193, 112–120; 2006)。この2つの病原菌は、歴史的記録に記されている症状、そして、発疹チフスを媒介するヒトジラミが兵士の遺骸から発見されていることから、既に有力な原因と考えられていた。
しかし、これらの病原菌の特定は、短い1本のDNA断片を数百万コピーまで増幅するポリメラーゼ連鎖反応(PCR)法に依存していた。この手法は、目的とする病原体に特徴的なDNA塩基配列を検出できるため、歴史家が既に、兵士の遺骸中に存在すると想定していた微生物の存在を確認するには優れたものであった。しかし、想定外の病気を見つけ出す目的には、あまり向いていない。
古代の歯の試料を解析
今回の研究を率いたパスツール研究所(フランス・パリ)の古ゲノム学者Nicolás Rascovanは、20年がたち、この謎に立ち戻るちょうど良い頃合いだと感じていたと言う。研究チームは、古DNAから既知のあらゆる病原体をスクリーニングできる新たな技術を携えて、ナポレオン軍を苦しめた可能性のある他の微生物の特定に乗り出した。Rascovanらは、2002年にリトアニアで発掘された戦死兵13人の遺骸の歯からDNAを抽出し、次に、次世代塩基配列解読技術を用いて、各試料に含まれる数百万のDNA断片の塩基配列解読を行った。こうしてRascovanらは、多種多様な病原体を一度に探索することができた。
その結果、13人の兵士のうち4人が、パラチフス熱を引き起こすサルモネラ属細菌Salmonella entericaに感染していたことを示す証拠が得られた。パラチフス熱は、食欲不振やバラ疹などの症状を引き起こす。また2人の兵士が、回帰熱と呼ばれる感染症の病原菌であるボレリア属細菌Borrelia recurrentisのDNAを保持していた。回帰熱は、シラミによって媒介され、発熱期と無熱期を繰り返す。
ナポレオン軍兵士の頭蓋骨。喉元に見えるのは軍服のボタンである。 Credit: Michel Signoli, Aix-Marseille Université
ミクロな敵
今回の研究では、2006年に特定された感染症については、痕跡を見つけられなかった。その理由としては、今回調べた13人という少数の兵士にはこれらの感染症が広がらなかった可能性がある。また、新たな塩基配列解読技術は、PCR法よりも感度が低い場合もあり、以前に報告された病原菌が検出されずに見逃されたということも考えられる。いずれにしても、今回の結果が示しているのは、ナポレオン軍の崩壊は「単一のエピデミック」によって引き起こされたわけではないということだとRascovanは言う。「兵士らは、複数の要因が重なって命を落としたのです。おそらく、私たちが今回発見したよりもはるかに多くの要因が関与しているのでしょう」。
Rascovanは、残された他の要因を決定するなら、再び調査の手をいったん止めるのが賢明だと考えている。研究者らは、リトアニアの発掘現場から得られた歯の試料のほとんどについて、既に解析を終えている。残っている試料を今のうちに使い切ってしまうのではなく、「現在では想像すらできないことができる、もっと強力な技術が手に入るまで待ちましょう」とRascovanは言う。
翻訳:三谷祐貴子
Nature ダイジェスト Vol. 23 No. 2
DOI: 10.1038/ndigest.2026.260217
原文
How Napoleon’s army met its doom: DNA reveals surprise illnesses had a role- Nature (2025-10-24) | DOI: 10.1038/d41586-025-03487-6
- Jenna Ahart
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