世界的な問題の解決には社会科学が必要
2017年にエボラ出血熱の大流行が起こったシエラレオネでは、より安全な葬儀の方法を人類学者が提案し、感染拡大が抑えられた。 Credit: Stringer/Anadolu Agency/Getty Images
2020年初め、英国首相の上級顧問であるドミニク・カミングス(Dominic Cummings)が自身のブログに珍しい広告を投稿した。データ科学者、数学者、そして物理学者に、自分と一緒に政府の中枢で仕事をしないかと呼び掛けたのだ。王立統計学会(英国ロンドン)の事務局長を経て、2020年2月に英国学士院の最高経営責任者となった私にとって、その呼び掛けの背景にある気持ちは支持できるものだ。データは政府の政策にとって非常に強力な情報源となるのだ。
しかし、私は、この呼び掛けが人文科学や社会科学よりも、科学や技術を優先させたという事実に懸念を抱く。政府は、人文科学や社会科学の専門知識も確実に利用しなければならない。さもなければ、この10年間の難題への取り組みは失敗に終わるだろう。
以下に例を挙げていこう。例えば、狭い医学的見解だけに頼るなら、世界の保健を改善することはできない。疫病のエピデミック(大流行)は生物学的な現象であるだけでなく、社会的な現象でもある。開発学研究所(英国ブライトン)のメリッサ・リーチ(Melissa Leach)などの人類学者は、西アフリカのエボラ出血熱の流行を抑える際に重要な役割を果たした。危険な埋葬儀式を全て廃絶するのではなく、もっと安全なやり方で置き換えることを提案したのだ。
メンタルヘルスに関連する治療の進歩も十分とは言えない。治療の進歩には、社会的状況が治療の成否にどのような影響を及ぼすかを理解する必要があるだろう。同様の議論は抗菌剤耐性と抗生物質過剰投与の問題にも適用できる。
環境問題は、新しい発明がなされれば解決できる「単なる技術的挑戦」ではない。気候変動に取り組むためには、心理学と社会学からの洞察が必要になるだろう。科学と技術における革新は必要だが、その効力の発揮には、人々が行動をどのように適合させ、変えられるかについての知識が不可欠だ。そうした知識の範囲には恐らく、修辞学や文学、哲学、さらには神学さえも含まれるだろう。
貧困と不平等の解決には、科学や数学を超えた専門知識を要することは、一層明白だ。英国経済社会研究会議(ESRC)は、国の生産性の低さが重要な問題であることを認めており、原因と可能性のある解決策を探求する取り組みとして、2020年秋に新設予定の生産性研究機関に最大3240万ポンド(約44億円)を投じている。
また、国家と地理的な独自性に触れる政策にも学究的なインプットが必要だ。「英国らしさ」への関心の高まりにはどういう意味があるのか? 私たちはさまざまな民族と宗教からなるコミュニティでどのように共存しているのか? 人々は移民に対し、どのように理解し、どのような経験をしているのか? 英国の欧州連合離脱(ブレグジット)投票や、英国に連合王国としての未来があるかという現在進行中の議論で示されるように、こうした実体のないものから現実社会への影響が生まれている。これらの疑問を解明するには、歴史家、社会心理学者、そして政治学者の研究の助けが要るだろう。さらには、誤情報との闘いや、人工知能のための倫理的な枠組みの考案などにも同じことが言える。これらは、科学の進歩だけでは解決できない問題である。
生活の質を高める技術どころか命を救う技術ですらうまく活用されていない現状を考えてみよう。「ワクチン忌避」は、技術的現象というよりも社会現象であり、麻疹の再燃の主要原因である。解決策のよりどころとなるのは、医学の飛躍的進歩ではない。ロンドン大学衛生熱帯医学大学院(英国)のHeidi Larsonをはじめとする人類学者による洞察だ。彼らは、人々が自身の予防接種やわが子に予防接種を受けさせるかをどのように決定したのか理解するために研究を重ねてきた。
さまざまなケースにおいて、文化的規範、教育的理解、親類や社会のネットワーク、権力の力学、あるいは単に建物内の間取りといった社会的要因を把握しなければ、政策は成功しない。どんなデータが欠けているのか、あるいはアルゴリズムがどのように既存のバイアスを悪化させる可能性があるかを理解せずにデータ科学を盲信すれば、政策の失敗につながり得る。
適切な専門知識の組み入れに関する好例は、英国政府の行動インサイトチーム(ナッジ・ユニット)である。ナッジ・ユニットは世界中で、特に政府介入の無作為化対照試験を中心として、750以上のプロジェクトを行ってきた。モルドバでの結核治療のプロジェクトでは、毎日の服薬遵守率を44%から84%にまで上げた。
英国の現政府には多くのデータ科学者が雇用されているが、人文科学や社会科学からもたらされる恩恵を見過してはならない。人文科学や社会科学の専門知識は既存のスタッフが持ち合わせていたり、組織構造内に存在していたりするので、それを見落とすべきでない。ナッジ・ユニットの創設から社会科学専門家パネルの使用まで多くの成功例がある。英国学士院や英国政府研究所などの機関が編纂している詳細な政策史は、驚くべき貴重な洞察を提供する可能性がある。
政策共同体を外部の人文科学や社会科学の専門知識につなげるために、もっと多くのことができるはずだ。チリの公共サービスイノベーションを目的とした政府研究所、米国ワシントンD.C.のブリッジング・ザ・ギャップ・プログラム、およびケンブリッジ大学科学政策センター(CSaP;英国)は全て、ワークショップや資金計画、政策フェローシップなど、さまざまな機構を利用して、専門家の意見を政策決定過程に取り入れてきた。
民主主義では、専門家の助言は世論や財政的なコスト、政治上の要求などを考慮し、バランスを取らなければならない。だが、ハードサイエンスとテクノロジーだけでは複雑な社会的難題を解決することは難しいだろう。人文科学や社会科学も必要なのだ。思慮深い政府ならば、そうした洞察を組み込む方法を見つけられることだろう。
翻訳:古川奈々子
Nature ダイジェスト Vol. 17 No. 4
DOI: 10.1038/ndigest.2020.200414
原文
Global problems need social science- Nature (2020-01-15) | DOI: 10.1038/d41586-020-00064-x
- Hetan Shah
- Hetan Shahは、英国学士院(ロンドン)の最高経営責任者。
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