科学と政治の関係を直視せよ
英国王立協会会長Paul Nurseは、科学者は「象牙の塔」を抜け出して果たすべき義務と戦いがあると明言しており、科学を濫用・歪曲する政治家のたわごとを白日の下にさらすのもその1つだと語っている。2012年2月28日に行われた権威ある講演会では、国民健康保険制度を支持するとともに、英国の優先課題として、海外の科学者が魅力を感じる移民政策と、生徒に感動を与える初等科学教育を挙げた。
Nurseは、私たちが第一に必要なのは科学であり、政治はその次で、科学と政治の分離を断固主張している。しかし、彼の真の意図を誤解してはならない。彼が警告したのは、旧ソ連でルイセンコ生物学(メンデル遺伝学を否定した生物学)を支持したような、科学に対するイデオロギーの介入である。
その意味では警告は正しいのだが、この「方程式」が極度に単純化されやすい点には、特に注意が必要だ。例えばNurseは、ヒトラーが、アインシュタインの相対論的物理学を「ユダヤ物理学」として拒否した例を挙げた。しかし、実際に起こったことは、やや違っていた。「ユダヤ物理学」は、反ユダヤ主義でナチス寄りだった物理学者ヨハネス・シュタルクとフィリップ・レーナルトによる嫉妬の産物で、最終的には、ナチスのリーダーからも愛想を尽かされたのだ。
よく「科学は自由社会でのみ繁栄する」という言葉を耳にする。今回の講演でNurseも強調していたが、この主張には疑わしいところがある。歴史学者が指摘するように、これは単に望みさえすれば手に入るような単純な話ではないのだ。ナチス・ドイツを見るまでもなく、独裁主義政権がいとも簡単に実用主義をイデオロギーに優先させることは、歴史が証明している。
例えば現代中国においては、科学研究の過程自体は、国家管理による妨害を受けておらず、イノベーションと大胆さが欠けているという流言など全くのナンセンスであることも明々白々だ。冷戦下の旧ソ連の科学研究にも、活気に満ち大胆なものが多くあった。科学への弾圧として悪名高いガリレオ裁判も、関係者の性格や状況の衝突という面が強いのであって、信仰と理性の対立は単純化し過ぎだ(もちろんガリレオに対する迫害は言語道断だ)。
ナチス・ドイツには、もう1つ説得力ある教訓がある。政治や宗教のイデオロギーは科学の問題解決に何の役割も果たさないが、科学の実践は、本来的に政治性を帯びるということだ。その意味では、科学が政治に優先することは絶対にない。世界中の科学者は、社会と契約を結んでおり、特に現在のような危機に瀕したとき、科学者は、社会が直面する課題に知的かつ専門的に対応しなければならない。それが義務であり、研究資金を確保すれば事足りると考えてはならない。
科学が政治から超然とした存在でいられると考えた結末が、1933年のドイツで明確に現れた。当時、政治は見苦しいマネービジネス(ハイゼンベルクの言葉)とされ、大部分の科学者は、ユダヤ人科学者の追放が道徳的な事柄ではなく、政治的な事柄だとして、それに協調して抵抗する理由はないと考えた。今考えれば、こうした「政治に無関心な」姿勢は、ナチス体制下での従順につながり、ドイツ人科学者を容易に操縦するための便利な神話となった。このような状況が生まれるのは全体主義だけ、と思うようでは認識が甘すぎる。
政治的に無関心ではなかった数少ない科学者の中で、傑出していたのがアインシュタインだった。彼の歯に衣着せぬ発言は、「高潔な」友人であったドイツ人物理学者マックス・プランクやマックス・フォン・ラウエをも狼狽させた。アインシュタインは、こうした友人に語った。「科学者が政治的事項に沈黙を守るべきだというあなたの考えには賛成できません。そうした自己抑制は責任のなさの表れではないでしょうか」。
今回のNurseの講演でも、科学者としての責任が意識されている。しかし、それ以上に私たちは注意を払う必要がある。科学的推論が政治から解き放たれていて自由であることと、私たちが科学研究を行う義務とを、注意深く分けて考えなければいけない。
翻訳:菊川 要
Nature ダイジェスト Vol. 9 No. 6
DOI: 10.1038/ndigest.2012.120629