トップモデルになった細胞
ある珍しい心疾患を患う28歳の女性が、意識不明で病院に担ぎ込まれた。外科医が除細動器を埋め込み、女性は命を救われた。これは、現在行われている治療法だ。だが、そのうち、この女性から採取した細胞―培養用ディッシュの中で生きて拍動している―が、別の患者の命を救うことになるかもしれない。
遺伝性のQT延長症候群(LQTS)を患うその若い女性は、テクニオン・イスラエル工科大学(イスラエル・ハイファ)の幹細胞生物学者Lior Gepsteinの研究チームに、皮膚細胞を提供した。彼らは、それから人工多能性幹(iPS)細胞を作製し、心筋細胞へと再分化させた。「この患者由来の心筋細胞は、入院したときの患者と全く同じ挙動を示します」と、Gepsteinは話す。つまり、この細胞をLQTSの研究に利用できるのだ。Gepsteinらの研究成果は、2011年1月16日付Natureオンライン版に発表された1。
これこそ、疾患の患者特異的モデルの希望だ。こうした疾患の培養細胞モデルは、患者の細胞を未分化の幹細胞状態に初期化した後、疾患の影響を受ける組織の細胞に転換することによって作製することができる。糖尿病から希少な神経変性疾患まで、さまざまな疾患に関して、これまでにいくつかのモデルが作製されているが(右表参照)、近い将来、もっとたくさんのモデルの作製が期待される。製薬会社は、こうした細胞を利用して、効果的な薬物療法を発見したり、ごく一部の患者にしか見られない副作用を予測したりするようになってきている。
LQTSは、その名のとおり、心電図上のQT時間が延長している病態で、心筋細胞の再分極が遅れることによって生じる。原因は、一般に、細胞のイオンを出し入れする分子チャネルの遺伝的な変異による。LQTS患者は、不規則な心拍である「不整脈」によって、20代から30代で突然死するケースが多い。Gepsteinによれば、この疾患にはラットのような優れた動物モデルが存在しないという。齧歯類の心臓はヒトの何倍も早く鼓動を打つうえに、用いられているイオンチャネルも異なるからだ。
今回の実験では、「健康な」iPS細胞から作製した心筋細胞も使われ、LQTS患者由来の心筋細胞ともども、細胞のシートを培養用ディッシュ上に形成し、初歩的な「心拍」を繰り返した。両者を比べると、患者由来のiPS細胞から作製された心筋細胞は、さまざまな面で患者の疾患状態を再現していた。例えば、「健康な」心筋細胞と比べて再分極の速さが遅かった(ビデオ1参照)。また、拍動は不規則だった。Gepsteinは、「正常な心筋細胞がトクン、トクン、トクンと動くのに対して、LQTS患者由来の心筋細胞は、トックン、トックン、トクトクとなるのです」と言う(ビデオ2参照)。
実験では、異なる種類のイオンチャネルを標的として心筋細胞の再分極を助ける3つの薬すべてが、LQTS患者由来の心筋細胞の不整脈を予防した。このことから、薬物スクリーニング面で有用な疾患モデルになりうることが確認できた。さらに、シサプリドという胃腸薬でLQTS患者由来の細胞を処理すると、拍動の不規則性が増した。この薬は、一部の患者で致命的な不整脈を引き起こしたため、2000年に販売が中止されている。
副作用を予測することは、LQTS患者から採った細胞の最初の利用法かもしれない、とGepsteinは語る。ただしGepsteinは、患者特異的な疾患モデルの最終目標は、個別化医療だと考えている。シダーズ・サイナイ再生医療研究所(米国カリフォルニア州ロサンゼルス)で所長を務めるClive Svendsenも、この考えに同調している。「あれこれと薬を試したり、副作用のリスクを冒したりせずに、患者にぴったりの薬が処方できるようになるのです」とSvendsen。
一方、ライデン大学(オランダ)の幹細胞生物学者Christine Mummeryは、これに異を唱える。個々の患者を治療するために個別に疾患細胞を作製するのは、時間とコストがかかりすぎるというのだ。しかし、数多くの患者から得た疾患細胞を対象に薬を試し、細胞の遺伝的性質をその反応と照らし合わせることで、マーカーが発見され、汎用性の高い治療法が開発される可能性はあるとも話す。
その前にはまず、「培養用ディッシュ上の疾患」の欠点を克服する必要がある。患者由来のiPS細胞株には、該当する細胞種への転換後に疾患と関連する明確な異常を全く示さないものが多いのだ。GepsteinらがLQTSを選んだのは、病態が遺伝子の変異に起因していて、心臓の細胞に明確な変化が生じるからだ。脊髄性筋萎縮症やファンコニ貧血など、患者の細胞から優れた培養細胞モデルが作製されたほかの疾患も、明確な遺伝的原因と明らかな生理学的現象が伴っている。「どれも手が届きやすい果実なのです」とMummeryは言う。
米国のバイオテクノロジー企業アイピエリアン社(カリフォルニア州サンフランシスコ)の社長Mike Venutiによれば、健常人にはない、患者特異的な細胞が、病態と明確に関連しているならば、複雑な疾患にもモデルが作られる可能性があるという。例えば、患者特異的な膵臓β細胞のインスリン分泌欠損は、糖尿病のモデルになる可能性がある。同社では、アルツハイマー病、パーキンソン病、および2型糖尿病患者由来のiPS細胞を作製し、そこから薬物スクリーニング用にさまざまな種類の細胞を作り出している。Venutiは、今後数年間で、この方法により発見された薬物候補が臨床試験に入ることを期待している。
iPS細胞から作製される疾患モデルは、現在、一大ブームとなっているが、薬物スクリーニングには胚性幹(ES)細胞も忘れてはならない、とGEヘルスケア社(英国カーディフ)のStephen Mingerは話す。同社は、不整脈用をはじめ、ES細胞を利用した薬剤安全性検査法を開発している。Mingerはまた、iPS細胞を作製するための遺伝子操作が細胞を傷つけ、疾患形質の探索を歪ませる、とも言う。「この分野はiPS細胞熱にちょっと浮かれすぎていると思います。確かに大きな可能性はありますが、ES細胞だって同じですよ」とMingerは語っている。
翻訳:小林盛方 再構成:編集部
Nature ダイジェスト Vol. 8 No. 4
DOI: 10.1038/ndigest.2011.110420
参考文献
- Itzhaki, I. et al. Nature 471, 225–229 (2011).
- Moretti, A. et al. N. Engl. J. Med. 363, 1397–1409 (2010).
- Dimos, J. T. et al. Science 321, 1218–1221 (2008).
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