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変動する研究対象

これまでに数千人の研究者が新型コロナウイルス研究に急遽参入しており、その多くが今後もコロナ研究を続けたいと考えている。

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Nature ダイジェスト Vol. 17 No. 8 | doi : 10.1038/ndigest.2020.200826

原文:Nature (2020-06-11) | doi: 10.1038/d41586-020-01525-z | The pandemic mixed up what scientists study – and some won’t go back

Elizabeth Gibney

ゲーテ大学フランクフルト(ドイツ)の理論物理学者Roser Valentíは、普段は量子物理学を用いて物質のエキゾチックな状態を解明する研究をしている。けれども2020年5月、彼女はモデリングのスキルを駆使して、これまでとは異なる類いの問題に取り組んだ。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)によるパンデミックの時間発展のシミュレーションだ。「今回のパンデミックで、私たちがこれまで日常的に行っていた研究は重要性を失いました」と彼女は言う。「今起きていることを理解するために、自分たちにも何か貢献できないだろうかと考えたのです」。

いつの日かパンデミックが終息したとしても、Valentíは研究者として2つの顔を持ち続け、古い関心分野と新しい関心分野の両方を追究したいと考えている。興味の対象が永遠に変わってしまったと感じているのは彼女だけではない。世界中で数千人の科学者が、急遽、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の研究を始めたり、研究室にある装置を使って診断検査を実施したりするようになった。もし十分な数の研究者がこの変化を受け入れれば、科学のランドスケープに大きな変化をもたらす可能性がある。

ラウエ・ランジュバン研究所(ILL;フランス・グルノーブル)の生命科学グループを率いる生物物理学者のTrevor Forsythは、「人々はこの先何年も、基礎科学レベルでSARS-CoV-2に興味を持つことになるでしょう」と言う。彼のチームは、普段は同施設の中性子線を使って、間違ったフォールディングが生じたタンパク質やその他の複雑な分子の構造を研究している。しかしこの年は、ウイルスに焦点を合わせた初めての研究を開始した。彼の学生たちはコロナウイルス関連のプロジェクトをやりたがっているし(もちろん中には、どんな研究でもいいので、とにかく研究室に戻りたいという学生もいる)、コロナ関連の研究課題の数は多いとForsythは言う。「危機が過ぎればこれらが消えて無くなるとは全く思いません」。

専門家は、今回のパンデミックにより感染症の研究が注目されるようになる可能性が高いが、それは、各国政府が研究資金の配分パターンを長期的に変えるかどうかによって決まると言う。ジョージア州立大学(米国アトランタ)で科学の経済学を研究しているPaula Stephanは、「実際に科学への資金提供の方向が大きく変わったことが過去にあるので、今回も同じようなことが起こる可能性があるのは確かです」と言う。「ただ、状況が明確になるのは随分先のことだと思います」。

コロナ禍が科学にもたらした変化

世界規模の出来事は、しばしば研究に劇的な影響を及ぼす。マサチューセッツ工科大学(米国ケンブリッジ)の物理学者で科学史家のDavid Kaiserは、第二次世界大戦中には各国が物理学と工学に多額の投資を行っていたと説明する。これらの分野は平時も勢いを保ち、戦後の高エネルギー物理学の隆盛は多くの新粒子の発見につながった。また、ハーバード大学(米国マサチューセッツ州ケンブリッジ)の医学史家David Jonesは、1918年のインフルエンザ(いわゆる「スペイン風邪」)のパンデミックはウイルス学が誕生するきっかけとなった可能性が高いと言う。

新型コロナウイルスは、既に研究対象に影響を与えている。bioRxiv、medRxiv、arXivなどのプレプリントサーバーのデータは、特定の分野が普段より活発になっていることを示しており、その原因は一部の科学者がSARS-CoV-2の研究に参入したことにあるようだ。bioRxivの微生物学カテゴリーにはウイルス生物学が含まれていて、このカテゴリーの論文が全体に占める割合が2019年に比べて高くなっているのに対して、神経科学の割合は低くなっている。また、物理科学系のプレプリントサーバーarXivの共同設立者であるコーネル大学(米国ニューヨーク州イサカ)の物理学者Paul Ginspargによると、arXivの「集団と進化」分野(モデリングと疫学を含む)の投稿数は通常はあまり多くないのだが、2020年3〜5月の投稿数は、2019年の同じ時期の投稿数の5倍近くに増えていたという。投稿数が増えたのは、単に、感染症研究者がいつもより多くの論文を投稿しているからではない。普段は高エネルギー物理学や物性物理学の論文を発表している著者の100人以上が、コロナウイルス関連の論文を投稿しているのだ(「研究テーマの移り変わり」参照)。

研究テーマの移り変わり
プレプリントサーバーarXivには新型コロナウイルス関連の論文が1000編以上投稿されている。そのうちの3分の1はこれまでに一度もarXivに投稿したことのない著者による論文で、もう3分の1は、普段は物理科学分野の論文を投稿している研究者が別の分野の論文を投稿したものである。2つのグループの論文は、色が研究分野に合わせて変化する帯で表す。
出典:2020年5月25日までにarXivに投稿された論文。「新型コロナウイルス関連の論文」とは、アブストラクトかタイトルに「COVID」または「SARS-CoV-2」の文字がある論文のこととする。 | 拡大する

SOURCE: ARXIV PAPERS SUBMITTED UNTIL 25 MAY 2020. ‘COVID-RELATED’ REFERS TO PAPERS WITH ‘COVID’ OR ‘SARS-COV-2’ IN ABSTRACT OR TITLE

この危機は、学生、特に研究を始めたばかりの学生に強い影響を与える可能性がある。Natureが連絡を取った主要な研究大学からは、感染症モデリングなどの分野の大学院プログラムへの関心が異例の高さになっているという話が聞かれた。けれどもこうした機関は、学生が受講を思い立ってから申し込みをするまでの時間差を考えると、今回のパンデミックが学生の選択に影響を与えたかどうかを判断するのは時期尚早だとも述べている。

ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン(ドイツ)の化学者Thomas Carellは、コロナ危機により、化学の分野でも感染症研究はエネルギー研究や電池研究よりも有利になるだろうと考えている。彼のグループの研究者たちは、普段はDNAとRNAの基礎的な化学生物学の研究をしているが、ここ数週間は、ウイルスゲノムの一部を細胞内で発現させ、共同研究者と共に細胞中のウイルス物質を無効化する方法を検証している。Carellの研究室の学生たちは、博士課程の2年目や3年目の学生までもが、コロナウイルス関連の研究に乗り換えたり、既存のプロジェクトをコロナ向けに修正したりしているという。

とはいえ多くの科学者にとって、COVID-19への関心は一時的なものになるかもしれない。Ginspargは、今回のコロナ研究ブームの一部は、激動の時代の社会に貢献したいと願う研究者が引き起こしたものだと言う。しかしJonesは、その他の研究者は、研究室を再開するためにはウイルスの研究をするしかないから参入したにすぎないと見ている。

長期的な展望

今後の研究の行方を決める主な要因は研究資金だ。コロナウイルス研究にはすでに数十億ドル(数千億円)の資金が投入されているが、これでもまだ科学の流れを変えるには不十分だとStephanは言う。大きな変化を起こすには持続的な資金が必要だが、1年後にワクチンが完成したり、研究予算が急激に減少したりすることがあれば、資金は続かず、大きな変化は起こらない。「変化の行方は、ものごとがどれだけ早く常態に戻るかにかかっています」とStephan。

逆に、コロナ禍が終息せず、コロナウイルス研究が政府の資金を吸い上げ続ける場合は、他の疾患の研究者や、生命科学以外の分野の研究者まで引きずり込む「ブラックホール」が形成される恐れがあるとJonesは言う。Stephanが特に心配しているのは、創造的だが実際的ではない研究だ。こうした研究は、数十年にわたって科学予算を必要とすることがあるため、コロナ禍で特に大きな打撃を受ける恐れがあると危惧している。彼女によると、研究資金配分機関はパンデミックの前からリスクの高い抽象的な研究を避ける傾向があったという。「コロナ禍で、この傾向がさらに強まることになるかもしれません」。

ロンドン大学ユニバーシティカレッジ(英国)の数理モデル研究者であるJoseph Buckleyは、基礎研究に戻りたいと願っている。もともと理論研究をしていた彼は、今は一時的に、ウイルスがどのようにしてヒト細胞内に侵入するかについて実用的なシミュレーションを行っているが、「私は、実用的な結果を出すことよりも理論的なことの方が好きなのです」と言う。

Valentíのように、たとえ通常の研究を再開したとしても、パンデミック関連の研究をやめることは考えられないと言う研究者もいる。「研究を始めてみると、非常に面白く、やりがいがあるのです」と彼女は言う。「人間について記述するのは、素粒子について記述するのとは全然違った感じがします」。

(翻訳:三枝小夜子)

Elizabeth Gibneyは、ロンドン在住のNature のシニアレポーター。

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Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

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