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世界初のブタ試料バイオバンク

最初に取り出されるのは腎臓だ。その濃い赤色は、血液が洗い流されるにつれて薄れていきベージュ色に変わっていく。次は膵臓。入り組んだ内臓の中からこの組織を見つけ出すのは難しい。摘出できたら即座にドライアイスの上に置く。組織は動物が死ぬとすぐに分解が始まるため、手早く処理する必要がある。この死後解剖では組織1つ1つの詳細が非常に重要なのだ。

こうして、Boar 1339と名付けられた雄ブタから貴重な器官が採取された。Boar 1339はドイツのある大学の農場で普通のブタと同じように3年半飼育された。他のブタと違っていたのは、このブタが生まれつき糖尿病を患っていたことだ。2015年3月初旬、Boar 1339の身体は科学に捧げられることになった。研究で使われる全ての動物を、可能な限り最大限に科学研究に利用しようという動きが盛んになってきたためだ。

体重226kgのBoar 1339から採取された数千に及ぶ小さな組織や体液の試料は、現在、新たに設立されたMIDY-PIGバイオバンク(ドイツ・ミュンヘン)に保管されている。このバイオバンクは、ヒト以外の遺伝子組換え大型動物から採取した組織を体系的に保管する世界初の貯蔵所で、Boar 1339以外にもさまざまな年齢のブタの全身の組織が集められている。

このバイオバンクは、糖尿病研究に役立てるために設立された施設で、ルードヴィッヒ・マクシミリアン大学(ドイツ・ミュンヘン)に属する。毛細血管や神経の変性、心臓病や腎臓病、そして失明など、糖尿病の長期的合併症に関係する分子とそのメカニズムを突き止めることを目的としている。これらの合併症は生涯にわたって進行し、解明はほとんど進んでいない。

「あまり認めたくないことですが、私たち人間は、ブタに非常によく似ています。ですから、この研究資源は非常に貴重なものとなるでしょう」とオックスフォード大学(英国)で糖尿病の研究を行っているPatrik Rorsmanは言う。これらの試料は世界各国の研究者が自由に使うことができる。支払うのは輸送費だけだ。

研究で使われる動物の数を減らせという圧力が強まるにつれ、バイオバンクが注目されるようになってきた。バイオバンクを介すことで、複数の研究チームが、同じ動物を用いて、異なる器官を調べたり、疾患を別の側面から研究したりすることができるためだ。「バイオバンクによって、動物のあらゆる組織を無駄なく有効に使うことができます」と語るのは、このブタ・バイオバンクを発足させたLMUの遺伝学者で獣外科医のEckhard Wolfだ。

1990年代後半から、ヒト試料を体系的に集めたバイオバンクが世界中で次々と設立された。だが、(ヒト以外の)動物バイオバンクはこれまでのところごく少数しかなく、しかもそのほとんどがマウスのものだ。ブタは飼育や繁殖に多額のコストが掛かるが、マウスより大型で、生理学的特徴や代謝が人間によく似ているため、非常に有用な試料となる可能性がある。

ブタ試料バイオバンクを作るに当たって、科学者たちは遺伝子工学とクローン技術を用い、変異を有するインスリン遺伝子MIDY(Mutant INS-gene-induced Diabetes of Youth)を持つブタを作出した。MIDYからできたプロインスリンはミスフォールドしているためにインスリンにならず、糖尿病を発症する。このため、このブタには毎日インスリンを注射しなくてはならない。次に、これらのブタを健康なブタと交配させる。すると、第二世代の同腹仔のほぼ半分が糖尿病に罹患し、残りの半分は健康なブタとなる。従って、対照群用の健康なブタも同時に得られる。

こうして作出されたBoar 1339は、MIDY-PIGバイオバンクに登録された12番目のブタとなった。Boar 1339は、緑の多いミュンヘン郊外にある開校101年の獣医学校の洞窟のような死体解剖室に、麻酔がかかった状態で到着した。Boar 1339を待っていたのは、マスクとガウンを身に着け、平行に並んだいくつもの解剖台の前で緊張した面持ちで構えている25人の獣医師と技術者のチームだった。

クレーンで後肢を釣り上げられたブタに、病理学者が致死量の麻酔薬を注射した。するとチームのメンバーはそれぞれメスや大きな肉切り包丁やペンチなどを手に、素早く正確な動きで作業を始めた。器官や筋肉、神経などが次々に切除され、組織は解剖台へと移される。待ち構えていた解剖担当者たちは、80ページに及ぶプロトコルに厳密に従って、複雑な試料作製プロセスを開始する。「我々は並外れて高度な試料採取を望んではいませんが、プロトコルのおかげで肝臓の重量を計るのを忘れていることに気付いたりすることもあるのです」と、LMUの主任病理学者の1人、Andreas Blutkeは言う。たたき切ったり、穴を開けたりする音は騒々しいが、作業している人々は集中しているので、そうしたバックグラウンドの騒音もささやき程度にしか感じない。処理全体はたった2時間15分で終わる。

どの器官の細胞も大きさや形や方向が異なっていて、分布状態も一様でない。全ての器官を適切に表現するために、チームはさまざまな方法を使って多数の試料を作る。このシステムは非常に洗練されているため、目的とする細胞タイプを三次元的かつ解剖学的に再建できる。

バイオバンクの試料によって構造解析および分子解析が可能になる。 Credit: ROEL FLEUREN/SCIENCE TRANSMITTER

この作業で極めて重要なのは、研究者たちがおのおのの試料を部分に分けて、それらを別々の方法で保存していることである。それぞれを構造解析または分子的解析に最適化するためだ。こうすることで、同じ試料を両タイプの解析法で調べることができるようになる。「同じ試料で分子プロファイリングと細胞解剖学的分析が可能なのは、このバイオバンクだけだと思います」とWolfは言う。

Rorsmanはこのバイオバンクのことを耳にしてすぐに、その利点に気付いた。彼は糖尿病の長期的合併症は、いくつかの異なる組織の細胞で起こる特定の分子の変化によってもたらされるのではないかと考えている。ヒトのバイオバンクから試料を入手するには倫理的な制約のために長い時間がかかるが、そうする前に、このバイオバンクの試料で自分の理論が正しい筋にあるかどうかを確認できそうだ、と彼は言う。ザルツブルグ大学(オーストリア)の糖尿病研究者Herbert Tempferは、すでにバイオバンクから得た腱の試料の分析を開始している。糖尿病を患っている人々の腱が非常に脆弱になることはよく知られている。

他の研究者たちは、ブタの糖尿病がヒトの糖尿病にどれぐらい類似しているかを調べようとしている。ハイデルベルク大学(ドイツ)の免疫学者Åsa Hidmarkは、3時間かけてBoar 1339の解体に参加し、ブタの足から皮膚の試料を採取した。Hidmarkは、糖尿病患者では皮膚の外層部で神経終末部が消失していることから、このブタの皮膚でも同じことが観察されるのではないかと期待している。

MIDY-PIGバイオバンクが最終的にどのような価値を持つかは、このバンクがどれぐらい使われるかによるだろう。だが、使われるという保証はない。英国のケンブリッジに近いウェルカムトラスト・サンガー研究所のマウス試料バンクでは、940のマウス系統から集めた42種類の組織を収集しているにもかかわらず、これまでのところ試料の請求はたった50件程度しかない。「その価値が認識されていないのです」と、サンガー・マウスオートプシー・プロジェクトのリーダーJacqui Whiteは述べる。

Wolfは、他の疾患の遺伝的ブタモデルが開発されたならば、このバイオバンクをさらに拡張したいと計画している。おそらく次は、遺伝子工学的に作製されたデュシェーヌ筋ジストロフィーのブタモデルになるだろう。遺伝子改変されたクローン胎児を移植された雌ブタが今、妊娠中である。

翻訳:古川奈々子

Nature ダイジェスト Vol. 12 No. 6

DOI: 10.1038/ndigest.2015.150610

原文

Inside the first pig biobank
  • Nature (2015-03-26) | DOI: 10.1038/519397a
  • Alison Abbott