基礎生物学研究に賛辞と支援を
深海底の熱水噴出孔は極限環境として知られる。 Credit: Ralph White/Corbis Documentary/Getty
我々ヒトを含む真核生物は、どのように進化してきたのか? 約10年前、当時ウプサラ大学(スウェーデン)に所属していたタイッシュ・エトマ(Thijs Ettema)らの研究チームは、この疑問で頭がいっぱいだった。そして、その答えを、大西洋の深海で採取した数々の未知の微生物のゲノムに見つけたのだった1(2015年8月号「真核生物誕生のカギを握る原核生物を発見」参照)。これらのゲノムの塩基配列には、アーキア(古細菌)と真核生物という2種類の生物に由来する細胞の特徴が潜んでいた。アーキアは、単細胞生物の一種で、その細胞には核がない。これに対して真核生物は、核膜で囲まれた核を持つ細胞やその他の細胞小器官を有している。エトマたちは、この2種類の細胞の特徴を併せ持つ微生物という驚きの発見をしたのだった(その後、エトマは、オランダのワーへニンゲン大学研究センターの教授に就任した)。
深海底の熱水噴出孔の周辺で熱水中に生息する微生物は、実験室でも利用されている。これらの微生物を使って、数々の耐熱性酵素が生み出されているのだ。これらの酵素は、高温条件下でも安定し、分解されにくく、世界中の分子生物学研究所やバイオテクノロジー企業で定番の酵素として利用されている。極限環境で繁殖する未知の微生物を発見することはすなわち、新たな酵素を発見する機会となる。しかし、それはエトマが目指していることではなかった。
基礎研究上の発見を報告する論文の多くには、その研究成果の応用可能性に関する記述が一文以上含まれている。こうした記述は、特定の種類の研究助成金の交付条件であることが多い。しかし、たとえ条件になっていなくても、研究資金配分機関(そして学術論文誌)は、基礎科学研究が臨床であれ、産業界であれ、社会であれ、実用的な応用につながることを期待している。
基礎科学研究に時間と忍耐が必要なことは、いくら強調してもしきれない
例えば、分裂酵母の細胞分裂に関する基礎研究上の発見2が、最終的に新しいがん治療法に寄与するかもしれないとか、原始的な微生物の免疫系3がゲノム編集ツールの基盤になるかもしれないなどと述べることは、間違いではない(実際、これら2つの見通しはその後、現実のものとなった)。ただし、基礎科学研究から応用に至る線が引かれているとすれば、それが直線である可能性は低く、むしろ迷路のような形になる可能性が非常に高い。堂々巡りに発想や方針の180度転換、手詰まりを何度も経験することになるのだ。エトマは、自分たちが発見した微生物(その後「アスガルド類アーキア」と命名)の用途を予測することは研究の妨げになるとしか思えず、予測する気になれなかったと話している。「アスガルド類アーキアは、『我々はどこから来たのか』という、私たちが常に自問している非常に重要な疑問について何かを教えてくれる、魅力的な生物にすぎないと思っています」とエトマは話す。
基礎科学研究にはこれ以上に広範な影響力があり、現実問題として、この点に疑いを差し挟む余地はない。2018年の研究論文4によれば、国立衛生研究所(NIH、米国メリーランド州ベセスダ)の研究助成金が1つの研究分野当たり1000万ドル(約13億円)増額された結果として、NIHの助成を受けた研究の論文を引用した企業などの民間部門の特許が増えた。こう話すのは、この論文の共著者で、マサチューセッツ工科大学(米国ケンブリッジ)の教授で技術革新を研究するピエール・アズレイ(Pierre Azoulay)だ。
それぞれの研究分野に、いくつかの画期的な基礎研究がある。例えば、4億年以上前のシルル紀の地層から掘り出した化石魚類を記述した4編の研究論文(2022年9月出版)5-8がある。この種の研究では、化石の断片のみが発見される例が多いが、この化石魚類はより完全な形で発見されたため、有顎(ゆうがく)脊椎動物の初期の姿が浮かび上がり、その進化の全体像に近づくことができた。
短期間に利益が得られるように圧力をかけたいという誘惑に負けないでほしい
基礎研究上の発見が予期せぬ転機をもたらすこともある。20以上の転写因子(DNAに結合して遺伝子のスイッチをオンにすることができるタンパク質)の詳細な研究が2020年に行われた。特定の転写因子の通常のDNA結合部位にゆがみがあると、転写因子とDNAの結合に悪影響が及ぶという予想が成り立ち得る。ところがこの研究では、こうしたゆがみによって転写因子とDNAの結合が増加する場合があることが分かった9。また、転写因子がDNAに結合する過程で得られたデータから、タンパク質–DNA相互作用のエネルギー論に関する新たな知見が得られた。基礎科学研究に時間と忍耐が必要なことは、いくら強調してもしきれない。エトマたちが海水中のDNAの配列解析によってアスガルド類アーキアを発見したことを報告してから5年後の2020年には、海洋研究開発機構(JAMSTEC、神奈川県横須賀市)の井町寛之(いまち・ひろゆき)らの研究グループが、日本近海の海底で採取した試料を用いて、アスガルド類アーキアを初めて培養したことを発表した10(2019年11月号「真核生物の起源を暗示するアーキアの培養に成功!」、2020年6月号「真核生物につながるアーキアの培養とゲノム解析に成功!」参照)。
ただし、この研究チームは、研究に十分な量のアスガルド類アーキアを培養で得るまでに2006年から丸10年を費やした。ということは、エトマたちがアスガルド類アーキアの発見を報告する前に、既に培養研究が始まっていたことになる。未知の微生物を探索する戦略として、培養されたことのない深海微生物を単離する方法を探していた井町らは、海底で採取した培養物を長年にわたって丹念に培養し、何かが目に見えるようになるまで待っていたのである。多くの深海微生物は、過酷な環境と希少な栄養素に順応しており、成長速度が極めて遅い。
Natureは、150年以上にわたって好奇心に突き動かされた研究(curiosity-driven research)を出版してきた。読者はそうした研究論文の価値を理解してくださっていることだろう。しかし、広大な科学の生態系に生きる政策立案者や研究資金配分機関の人々は、そうでもないらしい。研究投資から直接利益を得ることを期待しているようなのだ。私たちは、これらの人々に強くお願いしたい。短期間に利益が得られるように圧力をかけたいという誘惑に負けないでほしい。各国が経済不況や生活費の危機に直面する中で、この圧力が一本調子で強まることを私たちは理解している。しかし、これに対しては、できる限りの抵抗を試みる必要がある。基礎研究が盛んに行われるように手を尽くさなければならないのだ。
翻訳:菊川要
Nature ダイジェスト Vol. 20 No. 3
DOI: 10.1038/ndigest.2023.230305
原文
In praise of research in fundamental biology- Nature (2022-11-30) | DOI: 10.1038/d41586-022-04172-8
参考文献
- Spang, A. et al. Nature 521, 173–179 (2015).
- Basu, S., Greenwood, J., Jones, A. W. & Nurse, P. Nature 607, 381–386 (2022).
- Wiedenheft, B. et al. Nature 477, 486–489 (2011).
- Azoulay, P., Graff Zivin, J. S., Li, D. & Sampat, B. N. Rev. Econ. Stud. 86, 117–152 (2019).
- Zhu, Y.-a. et al. Nature 609, 954–958 (2022).
- Gai, Z. et al. Nature 609, 959–963 (2022).
- Andreev, P. S. et al. Nature 609, 969–974 (2022).
- Andreev, P. S. et al. Nature 609, 964–968 (2022).
- Afek, A. et al. Nature 587, 291–296 (2020).
- Imachi, H. et al. Nature 577, 519–525 (2020).
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