Editorial

研究による危害を許さない

Nature ダイジェスト Vol. 19 No. 9 | doi : 10.1038/ndigest.2022.220905

原文:Nature (2022-06-14) | doi: 10.1038/d41586-022-01607-0 | Research must do no harm: new guidance addresses all studies relating to people

シュプリンガー・ネイチャーの編集者は被験者を要する研究に限らず、ヒト集団に関連する全ての研究において、研究により危害が及ぶ潜在的な可能性を検討するよう、論文著者に要請します。

新しい編集ガイドラインは、1948年に国連で採択された世界人権宣言の第1条、すなわち全ての人間は「尊厳と権利とについて平等」であることに基づいています。 | 拡大する

Universal History Archive/Contributor/Universal Images Group/Getty

私たちが置かれた状況は、私たちの行動にどのような影響を与えるのか。1971年、心理学者のフィリップ・ジンバルドー(Philip Zimbardo)は、この点を明らかにするための研究に着手しました。米国カリフォルニア州のスタンフォード大学構内に設置された模擬刑務所には、「囚人」と「看守」という役割を与えられたボランティア(被験者)が配置され、被験者に、それぞれの役割にふさわしい行動を取ることを求めました。この実験は、極めてリアルで、「囚人」は地元の警察に「逮捕」されるのです。この実験は2週間行われる予定でしたが、6日目に打ち切られました。「看守」は、「囚人」に対して日を追うごとに口汚く、非人間的で残忍な行動を取るようになり、異常なほどの苦痛を与えていました(P. G. Zimbardo Cognition 2, 243-256; 1973)。

このスタンフォード大学での監獄実験の後、心理学研究における倫理に関する議論が巻き起こり、規制が強化されました。今では、この実験を行おうとしてもできません。参加者に心理的危害を与えるリスクが大きい研究には、それが知識を得る上でどれほど役立つ可能性があったとしても、倫理委員会や倫理審査委員会が承認を与えないと考えられるからです。

現在では、倫理的枠組みがいくつか確立されていて、被験者を必要とする研究の管理・運営に取り入れられています。そうした枠組みには、1964年のヘルシンキ宣言(2013年最新版;世界医師会 JAMA 310, 2191-2194; 2013)や、1979年のベルモント報告書(go.nature.com/3mj33xy参照)などがあります。しかし、こうした文書は、研究に直接参加していないヒト集団に影響が及び得る結論を示した学術研究の利益と危害に関して、言及していないのが一般的です。この学術研究の例としては、人々が汚名を着せられ、差別されるだけでなく、人種や性別、同性愛者であることなどを理由に差別を被るような状況を招き得る研究が挙げられます。特定の集団の社会的特性だけを理由として、その集団の人権を損なう行為を正当化するために、これらの研究が利用されるかもしれないのです。

このほどシュプリンガー・ネイチャーの編集者は、これらの倫理的枠組みの不足部分を補うことを目的として、編集ガイダンスを改訂しました(go.nature.com/3mcuozj参照)。その要点は、著者、査読者と編集者に対して、ヒト集団の尊厳と権利の尊重を奨励することにあり、具体的には、少なくとも次の3点を意味します。第一に、研究コミュニティーは、研究が複数の集団に適用された場合に生じ得る有害な影響を検討すべきであること。第二に、研究コミュニティーは、研究が誤用される可能性とこれらの集団に危害が及ぶリスクを最小限に抑えるよう努力すべきであること。そして、第三に、著者は、他人に敬意を表し、汚名を着せない文言を使って論文原稿を執筆すべきであること。

この編集ガイダンスは、既に研究倫理の基盤になっている「善行の原則」(他者の利益のために行動する道徳的義務)と「無危害原則」(危害を回避する義務)を適用しています(go.nature.com/3anccnr参照)。この編集ガイダンスの基礎となっているのが、世界人権宣言の第1条で述べられている、全ての人間は「尊厳と権利とについて平等である」という文言です。世界人権宣言は、国際社会が二度と繰り返さないと誓った第二次世界大戦の残虐行為を受けて、1948年に国連で採択されました。

編集者と著者、査読者は、ヒト集団群を対象とした研究の論文原稿から生じ得る利益と危害について共に検討し、議論すべきであり、人々に危害が及ぶ恐れがあるために原稿の修正が必要となった場合にも共に議論すべきです。ヘイトスピーチを助長するかもしれない研究、中傷に当たる可能性のある画像、特定のヒト集団の尊厳や権利を損なうことを目的として使用されるかもしれないコンテンツ、その他の方法で人々に危害を及ぼす可能性のあるコンテンツについては、倫理上の懸念を表明する必要があります。そうした事例は、常に明白なものとは限りませんが、論文の出版によって人々に危害が及ぶリスクがある場合には、著者と編集者は、そのようなリスクと論文の出版によって生じ得る利益とを比較検討する必要があります。

この編集ガイダンスが阻止しようとしている種類のコンテンツに関して、この数年間に、訂正や撤回だけでなく、削除された例がいくつか見受けられます。撤回されたコンテンツを削除してしまえば、歴史記録を歪めることになり、説明責任を果たす機会が奪われ、現在と将来の世代の人々がそのコンテンツと私たちの行動の両方を批判的に検討できなくなります。ネイチャー・ポートフォリオの学術誌に出版されたコンテンツの場合には、法律上の要請や公衆衛生上の要請がない限り、ヒト集団に危害が及ぶと判断されて撤回されたものには、撤回されたことが明示されますが、記録からは削除されません(go.nature.com/3qihqbd参照)。

この編集ガイダンスは、著者と査読者と編集者に対して、ヒト集団の尊厳と権利の尊重を奨励します

この編集ガイダンスの究極的な趣旨は、人々を危害から守ることであり、倫理的に行われた個人差やヒト集団間の差異に関する研究を抑制したり、社会的あるいは学術的な論争を巻き起こす研究を阻止したりすることではありません。科学は、あまりにも長い間、社会の構造的な不平等や差別を支え、不公正を永続させるために利用されてきました。シュプリンガー・ネイチャーの編集ガイダンスは、これに対抗するために踏み出した一歩です。学問の自由は、学問にとっての基本的な前提であり、決して譲れない前提です。しかし、制限がないわけではありません。全ての学術研究は、その倫理性を検討して、人々に及ぶ危害を減らし、あるいはなくしつつ、最大限の利益が得られるようにしなければならないのです。

(翻訳:菊川要)

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Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

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