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ブレグジットから1年:政治に翻弄される英国の科学者たち

Nature ダイジェスト Vol. 19 No. 5 | doi : 10.1038/ndigest.2022.220511

原文:Nature (2022-02-03) | doi: 10.1038/d41586-022-00318-w | Brexit one year on: patience ‘wearing thin’ among UK scientists

Holly Else

EUの研究開発支援プログラム「ホライズン・ヨーロッパ」への英国の参加を巡る交渉が難航する中、英国の研究者たちは政府によるセーフティーネット資金が途切れることを心配している。

北アイルランド議定書の見直しを巡る英国とEUとの交渉が長期化すると、英国の研究者の一部はEUの助成金を受けられなくなるおそれがある。 | 拡大する

BELINDA JLAO/SOPA IMAGES/LIGHTROCKET VIA GETTY

英国政府と欧州委員会(EC)との交渉の末、欧州連合(EU)離脱(ブレグジット)後の英国とEUとの関係を規定する通商・協力協定(EU-UK Trade and Cooperation Agreement;TCA)が合意されたのは2020年末のことだった。数年前から曖昧な状況に置かれていた英国の科学者たちは、データ規制、核・宇宙研究、臨床試験など、科学に広範な影響を及ぼすこの協定が合意に至ったことを歓迎し、安堵した(2016年9月号「英国のEU離脱に戸惑う科学者ら」、2020年4月号「英国のEU離脱で科学研究への影響は?」参照)。

TCAは、英国とECのパートナーシップ締結への道筋を付けることも約束していて、提携が正式に決まれば、英国の研究者も「ホライズン・ヨーロッパ」から資金を獲得できるようになる。ホライズン・ヨーロッパはECの最も重要な研究支援プログラムで、その予算規模は950億ユーロ(約13兆円)にもなり、既に2022年1月から資金配分が始まっている。

しかし、北アイルランド議定書を巡ってECと英国政府が対立している関係で、ホライズン・ヨーロッパへの英国の参加交渉は、まだ最終的な合意に至っていない。この交渉の遅れにより、英国の研究者は、ホライズン・ヨーロッパへの資金申請が採択されていても、支払いを受けられずにいる。そのため英国政府は2021年11月末に声明を発表し、そうした研究者に対し、セーフティーネットとしてプログラムの初期段階の資金を保証することにした。

英国を代表する研究大学のコンソーシアムである「ラッセル・グループ(Russell Group;ケンブリッジ)」の政策責任者のJo Burtonは、「私たちはこの状況への懸念を深めています」と言う。研究政策の研究者たちは、ECは科学を「人質」にして、北アイルランド議定書を巡る対立の解決という、より幅広い政治的目的を達成しようとしていると指摘し、英国政府がこらえ切れなくなってホライズン・ヨーロッパとの提携計画を破棄してしまう前に交渉を進展させるよう求めている。

参加交渉の遅れ

2016年に英国でEU離脱の是非を問う国民投票が実施されたとき、英国の研究界は大混乱に陥った。先行きが不透明になったことで、英国を拠点とする多くの科学者が、今後も英国とEU間で、スタッフや研究資金の自由な流れが維持されるのかどうか確信が持てなくなったからである。その後、出入国を巡る混乱の多くは解決された。英国で働くEU出身の研究者は、英国から去るか、滞在許可を申請するかを選択した。英国政府は科学者のための新しいビザも導入した。

2021年1月にはTCAが暫定発効し、EU非加盟国としてホライズン・ヨーロッパと「提携」する道が開かれた。これにより、英国の科学者が(原則としては)EUの巨額の研究開発支援プログラムの資金を申請できることが明確になり、彼らは胸をなで下ろした。しかし、提携に向けたプロセスは政治的交渉のために滞っている。2021年末、ECの研究担当であるMariya Gabrielが、EUと英国との争議が解決されない限り、ホライズン・ヨーロッパと英国が提携することはないだろうと述べたのである。

北アイルランドの国境の町ロンドンデリー(写真)は、ブレグジットに揺れている。アイルランド国境で検閲や通関が復活すれば、ようやく得られた融和が失われる危険があるのだ。これを回避する北アイルランド議定書の英国・EU間交渉は進まず、物流や政治的な問題だけでなく、研究分野でも助成金やプロジェクトなどの提携に影を落としている。 | 拡大する

Walter Bibikow/DigitalVision/Getty

この交渉の緊張の中心となっているのが北アイルランド議定書だ。英国領北アイルランドとEU加盟国であるアイルランドはアイルランド島で国境を接しているが、英国のEU離脱により、島内の人と物の自由な往来は撤廃され、EU域外通関が適用される。だが、長い紛争を経てようやく実現した北アイルランドの平和を維持するためには島内に厳格な通関審査を伴う域外国境を復活させてはならないという共通認識の下、英国とEUは2020年12月に北アイルランド議定書を締結し、北アイルランドをEUの単一市場に残留させ、英国本土と北アイルランドの間で通関を行うことにした。しかし、英国はその後、この方式では英国内の物流に重大な障害が生じるとして議定書の見直しを求め、それに難色を示すEUと対立している。

Gabrielの発言は、北アイルランド議定書を巡る対立が解消されなければ英国はホライズン・ヨーロッパと提携できず、英国に拠点を置く科学者はホライズン・ヨーロッパから締め出されることを意味する。しかし歴史的に、英国の科学者はECから多額の資金を獲得しており、常にトップクラスの恩恵を受けてきた。ロンドンの生物医学研究助成財団ウェルカム・トラストの政策研究室長であるMartin Smithは、「提携は、北アイルランド議定書という大きな政治的難局の人質になっています。私たちの我慢も限界にきています」と言う。

交渉の遅れを受け、英国政府は、万が一交渉が行き詰まった場合でも研究者が資金を獲得できるように、いくつかの緊急時対策を講じている。政府は2019年から、合意なきブレグジットとなった場合に備えて、EUの助成スキームの英国版を作る計画を立て始めていた。また2021年の研究予算では、ホライズン・ヨーロッパと提携するための費用、あるいは英国版の助成スキームを作るための費用として、年間20億ポンド(約3200億円)が計上されていた。英国の研究機関を代表する英国大学協会国際部(Universities UK International、ロンドン)のVivienne Stern部長は、「私たちの不安は募り、臨界点に達しようとしています」と言う。Vivienneら研究者たちが危惧しているのは、最善の努力を続けている英国の政治家たちが、やがてEUの態度にしびれを切らしてホライズン・ヨーロッパとの提携を断念し、英国内での研究資金調達プログラムを優先するのではないかということだ。

提携交渉が行き詰まっている限り予断を許さないのは、ホライズン・ヨーロッパからの研究助成金獲得に限らない。英国が欧州原子力委員会や地球観測計画「コペルニクス」などの共同科学プログラムに参加できるかどうかも、EUとの提携にかかっているのだ。現時点では、英国がこれらのプログラムのほとんどに参加し続けられるように、回避策が取られている。しかし、一部のプロジェクトについては、研究者には何ら決定権もない。

2021年6月、EUは英国のデータ保護規制は適正であるという判断を示した。これにより、臨床試験などのデータは、ブレグジット前と同様に、共同研究者間でやりとりできることになった。しかしEUは定期的に規制を見直す予定であり、今後、英国のデータ政策が変更される可能性もある。「つまり、これからも同じようなことが起こり得るというわけです」とSmithは言う。

(翻訳:三枝小夜子)

脚注: 英国政府は3月15日に、ホライズン・ヨーロッパに採択されたものの提携交渉の遅れにより支払いを受けられていない英国の研究者に対する支援を今年12月まで延長すると発表した。

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Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

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