産業界の科学は信用できるか?
Credit: ILLUSTRATION BY SEÑOR SALME
Nature 創刊号が出版されてから4年後、米国科学アカデミー(NAS)は実存的危機に直面していた。1873年10月、NASの設立時からの会員の1人であるカリフォルニア州地質官のジョサイア・ホイットニー(Josiah Whitney)が、ある会員についてその詐欺的行為を理由に除名を要求したのだ。ホイットニーは、エール大学(コネチカット州ニューヘイブン)の教授で応用化学者のベンジャミン・シリマン・ジュニア(Benjamin Silliman Jr.)がカリフォルニアの石油会社から多額の現金を受け取り、その見返りとして、企業にとって都合の良い、おそらく不正な研究を行ったとして非難した。一方シリマンは、企業は客観的な「専門家の意見」を必要としているのであり、企業が科学に資金を提供するのは不正行為が目的なのではなく、信頼できる企業であるという証拠を示すためであると強硬に反論した。科学との関わりがなければ、企業による詐欺的行為はもっと多くなるだろうというのが彼の主張だった。
NAS会長で、スミソニアン協会の会長でもあったジョゼフ・ヘンリー(Joseph Henry)は、かつて、電信の発明者であるサミュエル・モールス(Samuel F. B. Morse)のコンサルタントも務めていた。民間企業でのコンサルタント経験を持つ全てのメンバーを除名すれば、NASは存続できない。そうしたことからヘンリーは、シリマンの主張を認めないわけにはいかなかった。シリマンの除名を求める動議を却下したヘンリーは、この件をきっかけに、より重大な決断を下した。NASの会員資格を広げることにしたのだ。新しい会員はその研究に基づいて選出されることとし、どこから収入を得ているかには左右されなくなった1。1870年代には、産業が科学に依存していることはすでに明確になっていた。
シリマンとホイットニーの論争は、科学と産業界との関係の転機となった。米国の科学者だけでなく、英国と欧州大陸の多くの科学者にとって、民間企業は研究資金と研究課題の両方を提供してくれる貴重なパトロンであり、短期の仕事を依頼して小遣いを稼がせてくれる雇い主でもあった。企業の側も、科学者とその知見を、それぞれの産業の発展にとって有益なものと見るようになっていた。
その後の150年間、科学と産業界の関係は重大な4段階を経て進化し続けた。科学者は、立ち位置がパートタイムのコンサルタントからフルタイムの企業研究者へと変化し、さらには大学発ベンチャー起業家も登場するようになった。産業界は、地方に散在する事業として営まれていたものが大企業に集約されるようになり、世界に広がる多国籍企業も出現した。こうした変化は共生的で必然的とさえ思えるかもしれないが、米国の科学者と産業界が、雇用や出資、論文出版、特許取得、革新におけるリーダーにして模範的な実践者として台頭したという事実は、そうした発展が本質的に偶然の産物であることを思い出させてくれる。
コンサルタントとして (1820〜80年)
NASの危機の核心にあったのは、科学と産業界との間にある本質的な緊張関係だ。知識の追求が利益の追求によって堕落することはあるのだろうか? ホイットニーらにしてみれば、答えは明らかに「イエス」だった。彼らの「純粋」科学は、政府機関や資金に恵まれた大学など、利益を目標とする必要がない場所で行われる必要があった。一方、シリマンや「応用」科学の支持者たちは、科学者と産業界との相互作用はどちらにとっても利益になると信じていた。実際、応用科学と呼ばれる新しいタイプの学問分野の出現は、産業界の関心事に取り組む研究が増え、民間企業が(理想的には)そうした研究を安定的に支援する新しい時代を特徴付けるものだった2。
科学コンサルタントの起源は、個人や資本家集団が、折に触れて農業や鉱業、輸送(運河と鉄道)、製造業の見通しについて科学者に調査を委託した19世紀初頭までさかのぼることができる。短期の顧問契約のような形で、専門家の知識を買うのである。1870年代までに、(英国や欧州大陸の法律と同様に)米国の商法が改正され、株主が有限責任だけを負う株式会社の設立が可能になった。巨額の貯蓄金と、投資への保証を求める無数の株主を持つ株式会社は、定期的に科学者の意見を聞くようになった。既存の製品や、プロセスの継続的な検査や分析など、科学者たちの関与がより日常的・研究的になると、彼らは高額の報酬で企業のお抱え科学者としての仕事を請け負うようになった1。
米国では、「金ぴか時代(南北戦争後の急激な経済成長を遂げた時代)」を含む1870年代から1890年代にかけて、コンサルタントとして目立っていたのは地質学者であった。彼らは、ミシシッピ川の西側の貴金属鉱業地域などで活躍した。英国とドイツでは、コンサルタントに化学者が多かった。彼らは酸や石鹼や塗料、そして何よりモーブやアリザリンなどの合成染料をはじめとする新しい製品について、欠かすことのできない専門知識を持っていたからだ。化学コンサルタントは、センセーショナルな特許訴訟にも鑑定人として登場し、よく目立つ公的役割を果たしていた。証人台の化学者同士の言い争いは格好の新聞種になり、化学産業の発展の奥深さを強調した。また、新しい化学製品やプロセスは科学的発見と見なされていたが(科学的発見は定義上、特許を取得することができない)、米国や英国やドイツでは特許法が改正され、発明者はこれらの知的財産権を主張できるようになった。
産業界による囲い込み (1880〜1940年)
20世紀に入ると、独立のコンサルタント科学者は、企業の新しい研究所で働くサラリーマン研究者に取って代わられた。これらの研究所は、応用科学の企業への取り込みを意味していた。つまり、組織の中に、研究開発のために隔離された場所が作られたのだ。「研究開発(R&D)」という用語も、この時代に生まれた。
ドイツでは、バイエル(Bayer)やヘキスト(Hoechst)、BASFなどの大規模な染料会社が、化学研究のための研究所を最初に設立した。研究所は、大学で訓練を受けた化学者がいる製造部門だけでなく、専門の法務部ともつながっていて、ここで新しい製品やプロセスの特許の出願を行っていた。ドイツの大学の化学と企業の研究所との密接な結び付きもあり、こうした産業化された発明は、第一次世界大戦前にはしっかりと確立していた3。
米国では、企業の研究所のプロトタイプは電気産業の分野で登場した。発明家のトーマス・エジソン(Thomas Edison)が1876年にニュージャージー州メンロパークに設立した「発明工場」である。エジソンは、創造的な天才による予測不可能な行為を、系統立った、確実なシステムに置き換えようとした。彼は、機械製作工、機械修理工、化学者、物理学者、数学者を採用して、電信や電灯に関する技術的問題に取り組ませた。スタッフは共同で仕事に当たっていたが、蓄音機(1878年)や電球(1880年)を含む1000件以上の米国特許は「メンロパークの魔術師」(非凡なる発明家)ただ1人の発明とされている4。
最初の電球の特許が切れる時期が迫り、他の照明会社という脅威が生まれると、エジソンのエレクトリック・ライト・カンパニー(Electric Light Company)と彼の全ての特許を引き継いだゼネラル・エレクトリック(General Electric:GE)は、1900年にニューヨーク州スケネクタディにリサーチ・ラボラトリー(Research Laboratory)というそのままの名前の研究所を設立した。10年もしないうちに、研究所を持つのは企業にとって有益であることが判明した。商売については、新型の電球の発明により市場で優勢な立場を回復することができたし、研究については、250人以上の技術者と科学者を採用することができた。
米国では少数の大企業がこれに続いた。1903年にデュポン(DuPont)が、1904年にウェスティングハウス・エレクトリック(Westinghouse Electric)が、1909年にAT&Tが、1912年にはイーストマン・コダック(Eastman Kodak)が研究所を設立し、企業が所有する正式な研究開発ラボの先駆けとなった。
1920年代の新語である「産業研究(industrial research)」の黄金時代の触媒となったのは、第一次世界大戦と、全てのドイツ製品、特に化学薬品の輸入が禁止されたことだった。1919年から1936年まで、米国のほとんど全ての産業分野(石油、医薬品、自動車、鉄鋼)の企業が1100以上の研究所を設立して、世界の産業研究を支配するようになった。1921年には、こうした研究所は約3000人の技術者と科学者を雇用していた。1940年には研究者の数は2万7000人を超えていて、第二次世界大戦の終わりには4万6000人近くになった5。
企業の研究所の急増は、垂直方向に統合された巨大な企業集団の登場を反映していた。こうした企業集団は、天然資源から研究開発を経て大量生産とマスマーケティングまで、それぞれの産業のほとんど全ての領域を支配していた。米国特許法の大改正により巨大企業が従業員の知的財産権を主張できるようになったことも産業研究を過熱させた。企業が発明者になったのだ。
大恐慌の際、評論家たちは、大企業の活動が社会に失業や過剰生産、破産といった破滅的な結果をもたらしたとして非難した。そして、研究が産業界に取り込まれていたことから、「資本主義は科学を堕落させる」という声が再度上がり始めた。そこで企業の取締役や研究開発部門長は、科学に基づく産業活動によって生み出された驚異的な消費者向け製品を、続々と発表するようになった。新しい意味合いの「テクノロジー(technology)」の誕生だ。この一連の活動により、産業界の科学は善であり、効果と効率と安全を保証するものであることを示す、という筋書きだ。これらの用語を19世紀のコンサルタント科学者にも理解できる言葉に言い換えると、研究開発があったからこそ、消費者は当時の最先端のテクノロジー(と、それを作り出した企業)を信頼することができる、ということだ。
1939年、ニューヨーク万博で産業研究の成果を示す米国企業。 Credit: BETTMANN
1939年のニューヨーク万博では、産業界はその科学的成果をずらりと並べた。ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(Radio Corporation of America:RCA)は消費者にテレビを紹介した。インターナショナル・ビジネス・マシーンズ(International Business Machines:IBM)は電気タイプライターを披露した。GEは新しい電気冷凍システムを展示し、デュポンは、「化学の力でより良いものをより良い暮らしに」のキャッチフレーズの下、合成繊維ナイロンを展示した6。
企業が科学を腐敗させることへの恐怖は、ノーベル賞によって終息した。1931年に、2人のドイツ人、カール・ボッシュ(Carl Bosch)とフリードリッヒ・ベルギウス(Friedrich Bergius)が、産業界の研究者として初めてノーベル化学賞を受賞した。翌年にはGEのアービング・ラングミュア(Irving Langmuir)が化学賞を受賞し、1937年にはベル研究所(Bell Telephone Laboratories)のクリントン・J・デービソン(Clinton J. Davisson)がノーベル物理学賞を共同受賞した。
AT&Tの研究開発部門と、その電話機製造部門のウェスタン・エレクトリック(Western Electric)の統合により1925年にニューヨーク市に設立されたベル研究所は、当時、米国最大の研究施設だった。研究所は約3600人のスタッフを抱え、予算は1200万ドル以上に上った(比較のためにいうと、GEがリサーチ・ラボラトリーに割り当てた予算は200万ドル未満である)。ベル研究所の初代所長は物理学者のフランク・ジューエット(Frank Jewett)で、彼は1939年に産業界の科学者として初めてNASの会長になった7。
産業の保護下で行われた科学は、国内での地位と国際的な称賛を獲得したことで、大学や政府の科学と互角であることが裏付けられたように見えた。しかし、1920年代と1930年代の産業界の研究所は、単なる「学生のいない大学」ではなかった。応用科学の研究所としての価値を、利益をもたらす製品やプロセスの形で企業の本部に常に示す必要があった。
軍との結び付き (1940〜80年)
1940年10月にニューヨーク万博が閉幕した頃には、欧州ではすでに戦争が始まっていて、米国も1941年12月に参戦した。第二次世界大戦は、科学と産業界の関係を一変させ、両者の関係を語る際に登場する用語も、さらには歴史をも、大きく変えた。
この変化を主に後押ししたのは米軍だった。新しい形の請負契約や下請け契約により、空前の金額が科学研究のために割り当てられた。戦争中、大統領直属の組織として設置された科学研究開発局は、局長バニバー・ブッシュ(Vannevar Bush)の下、140以上の学術機関と320の企業との間で、2300件以上、金額にして約3億5000万ドルの研究請負契約を結んだ。この資金の約3分の2が大学に渡り、例えばマサチューセッツ工科大学(MIT;米国ケンブリッジ)は、放射線研究所のレーダー研究のために2億ドル以上受け取っている。企業の研究開発部門も先例のない金額を受け取った。AT&Tは1600万ドル、GEは800万ドル、RCA、デュポン、ウェスティングハウスはそれぞれ500万〜600万ドルを受け取った8。
けれども研究開発に桁外れの投資をしたのは、陸軍省(8億ドル)と海軍省(4億ドル)だった。最も多額の投資を受けたのは民間産業(8億ドル)で、その多くが航空宇宙やエレクトロニクス、コンピューター、原子力技術など、国家安全保障上無視することのできない新興産業に渡った8。
米軍は、米国における科学の総司令官になるつもりはなかった。だが戦争が終わる頃には、少なくともブッシュには、連邦政府が科学における将来構想を必要としていることは明らかだった。ブッシュは、1945年にフランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)大統領に提出した報告書『Science—The Endless Frontier(科学—果てなきフロンティア)』の中で、米国の科学政策に1つの構想を示し、そこで示された指針が、冷戦時代の大学の科学と企業の研究開発の両方を決定づけることになった。彼の言う「果てなきフロンティア」とは、「実用的な役割を考慮することなく」行われるもの、つまり基礎研究のことだった。19世紀の「純粋科学」の概念への後戻りである。彼の理屈によれば、基礎研究は「技術進歩のペースメーカー」であるため、米軍は基礎研究に出資すれば産業研究を後押しできる、ということであった。
新たな論争が始まった。当時およびこの時代以降の多くの評論家が指摘しているように、ブッシュの報告書には、戦時中の経験(原子爆弾やレーダーなどの軍事プロジェクトが機能横断型のチームにより進められていた)も、戦争前の数十年の経験(企業の研究開発ラボで、電球開発などのプロジェクトが機能横断型のチームにより進められていた)も反映されていなかった。彼の報告書は、軍事分野と商業分野のこれからの技術開発について、全く新しいアイデアを提案するものだったのだ。やがてこの構想は、「イノベーションのリニアモデル(linear model of innovation)」として知られるようになった9。
このモデルでは、ベルトコンベヤーのようなものを考える。基礎科学から始まり、スムーズに開発へと進み、製造・生産を経て、最終的に新技術や革新に至るという流れだ。つまり、基礎科学の量を増やせば、より多くの技術や革新、そして全体的な経済成長がもたらされる(はずだ)。理論上は、基礎研究は大学に集中させることになっていた(軍による投資は、米国の大学と理系学部をそれに合う形に変容させていた)。しかし、企業の研究開発ラボも、戦時中と同じように軍との間で請負契約を結んでいた。軍との間の請負契約と、企業本部からの出資の拡大により(財界のリーダーたちもリニアモデルを支持していた)、産業界の研究所は応用科学から離れて基礎研究に向かうことになった10。
終わりなき科学的イノベーションへの信頼が、莫大な財源と結び付いたことで、企業は中央研究所を設立するようになった。こうした研究所は多かれ少なかれ独立に機能していて、多国籍企業の新しい組織構造との相性が良かった。不規則に広がる複合企業は、垂直的統合の代わりに、多数の事業部からなる水平的な組織構造を採用した。いわゆる「M型(Multi-divisional form)組織」である。この組織構造では、中央研究所を含む各事業部は独立に機能していた。
1990年代のベル研究所で、光ファイバーによるデータ伝送の試験をする研究者。 Credit: OVAK ARSLANIAN/THE LIFE IMAGES COLLECTION VIA GETTY
そして企業は、研究所を本部から遠く離れた、製造と何の関係もない地方に移転するようになった。例えば、RCAの基礎研究部門は、1945年からニュージャージー州プリンストンの近くのキャンパスを拡張し、カラーテレビと半導体の研究を始めた。1956年にはウェスティングハウスが、ペンシルベニア州ピッツバーグ郊外のチャーチルに原子力研究のための研究所を設立した。IBMは1961年、レーザーや半導体やその他のコンピューター関連の物理学研究のために、ニューヨーク市に近いヨークタウン・ハイツにトーマス・J・ワトソン研究所を設立した。この建物は、モダニズム建築家のエーロ・サーリネン(Eero Saarinen)により設計された。そしてベル研究所の本部は、ニュージャージー州マリーヒルに移転した。
ベル研究所は、2001年以前の最盛期には、各地の施設で多くの分野(物理学、数学、電波天文学)の世界レベルの研究を行っていた。最大のキャンパスはイリノイ州のシカゴ近郊のネーパービルにあり、1万1000人の職員がいた。ニュージャージー州ホルムデルの191ヘクタールの旗艦キャンパスには、サーリネンが1962年に設計したガラス張りの壮麗な建物があった。
こうした「産業界のベルサイユ」では主に研究を行っていて、開発はあまり行われていなかった。実際に、学生のいない大学に転換されたものもあった11。彼らは産業界の「象牙の塔」として、大学教員や博士課程の科学者や技術者に自分自身の課題を追求するための時間と資源を約束し、研究成果を権威ある学術誌に発表できるオープン出版方針を提示して、どんどん引き抜いていった。1950年代中ごろのRCAのプリンストン研究所では、スタッフの半数が理論科学者で、請負契約の75%以上が軍と結ばれたものだった。デュポンも、戦後の10年間に科学関係のスタッフが150%増加した。最も増えたのは、デラウェア州ウィルミントン近郊の実験ステーションの基礎化学者だった。1960年代初頭には、米国の産業界の研究所に雇われている技術者と科学者は30万人を突破していた12。
ベル研究所のジョン・バーディーン、ウィリアム・ショックレー、ウォルター・ブラッテンは、1947年にトランジスターを発明し、その業績により1956年にノーベル物理学賞を受賞した。 Credit: Hulton Archive/Getty Images
ベル研究所をはじめ、IBMやウェスティングハウス、デュポンなどの一流企業の研究所や、RCAのプリンストン研究所、ゼロックスが1970年に設立したパロアルト研究所(PARC)などは、基礎科学に精力的に取り組んだ。そして1956〜1987年には、12人の企業科学者がノーベル賞を受賞した。ベル研究所だけでも、第二次世界大戦後に8つのノーベル物理学賞と1つのノーベル化学賞を受賞している。中でも1956年のノーベル物理学賞は、ベル研究所の最も有名な技術「トランジスター」の発明に贈られた。1960年代初頭には、Physics Abstractsに掲載された論文の70%が企業研究者により発表されたものだった。1980年には、ゼロックスのPARCから発表された論文の被引用インパクトは、世界トップレベルの大学と肩を並べていた6,8。
未来の技術的進歩のための前提として基礎科学を重視するリニアモデルにより、過去のやり方とは決別することになった。またリニアモデルは、科学と産業界との歴史的関係の新しい解釈を促した。1950年代と1960年代には、経済学者や歴史学者は19世紀後半について再検討を行い、そこに、化学産業と電気産業を特徴とする「第二の産業革命」を見いだした。この革命では、「第一次産業革命」の石炭や蒸気機関を動力源として発展した産業(織物工場、炭鉱、製鉄所など)で用いられた昔ながらの試行錯誤による方法が、科学に基づく方法により置き換わっていた。見直された歴史からは、有機化学や電磁気学などの純粋科学から、魅力的な合成染料や明るい電球が直接生まれていたことも分かった。こうして歴史は、基礎科学に継続的な投資が必要であることを示す決定的な証拠を提供し、米国と西欧の企業が1世紀以上にわたって世界経済を支配してきた理由をうまく説明したように思われた13。
しかしそれは長くは続かなかった。
アウトソーシングの時代 (1980年〜)
基礎科学への企業の投資は、世界市場における支配的な地位によって支えられていた。AT&Tやデュポン、IBM、コダック、ゼロックスは、それぞれの中核事業において80%以上の市場占有率を誇っていた。その後、1970年代のオイルショックと、スタグフレーション(景気が後退する中で物価上昇が続く状態)の広がりというダブルパンチを受け、米国と欧州の経済は弱体化した。日本や韓国の企業などとの国際競争が激化し、1980年代初頭には、自由貿易の拡大により利幅はさらに小さくなった。
状況の変化に対応して、米国の企業は構造改革と事業縮小に踏み切った。財界のリーダーと株主は、多数の事業部からなる複合企業は、競争のためには効率が悪いと判断した。必要なのは、新しい、身軽な企業だ。構造改革の方法の1つは、内部のサプライヤーを外部のサプライヤーと置き換えるアウトソーシングだった。企業は、かつては産業経済の支柱であった製造部門を、コストが低く規制の緩い国のプラントに移転し始めた〔移転のペースは速まる一方で、2001年に中国が世界貿易機関(WTO)に加盟して以来、その傾向は一段と加速した〕。
事業縮小のもう1つの方法は一部売却だった。中核事業と無関係な子会社を売却するのだ。手っ取り早く利益を出すことを求める株主の目には、長期的な企業研究は金融負債に見えた。中央研究所は第一の標的だった。1988年にはRCAが、プリンストン研究所をサーノフ・コーポレーション(Sarnoff Corporation)という独立の事業として売却した。1993年にはIBMが、研究開発予算を10億ドル(約20%)もカットした。1997年にはウェスティングハウスのチャーチルの研究所が、ドイツの企業シーメンス(Siemens)に買収された。2002年にはかつてゼロックスの一部門だったPARCが、独立した別会社になった。電話事業を独占していたAT&Tは1984年に分割され、1996年には、かのベル研究所が、ルーセント・テクノロジー(Lucent Technologies)という別会社になった〔ルーセントは2016年にフィンランドの電気通信会社ノキア(Nokia)に買収された〕。ホルムデルのキャンパスは2007年に閉鎖され、それから1年もしないうちに、マリーヒルにとどまって基礎物理学研究を行う科学者は4人だけになっていた。1つの時代が終わった14。
グローバル化した競争市場、貿易自由化、株主の短期主義に伴い、米軍も企業研究所の基礎科学研究への投資を削減し始めた。一方、米国政府は、ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)大統領が戦略防衛構想(「スター・ウォーズ」計画)を推し進めた1980年代初頭の数年間を除き、大学やその他の非営利組織にコンスタントに研究資金を再分配していた。特に、医学校や研究病院に対しては、国立衛生研究所(NIH)を通じて継続的な助成を行い、物理科学の縮小を尻目に、分子生物学や生化学、バイオテクノロジーなどの新しい分野が次々と生まれた。1988年には、物理学分野での企業の科学者による基礎研究論文は全体の約10%にまで減少し、2005年には3%未満まで低下した15。
企業研究所の終焉は、リニアモデルという概念の死を告げていた。多くの学者が、リニアモデルは物事を単純化し過ぎていたと結論付けた。科学から技術への道は一直線でも1本でもなく、おそらく一方通行ですらなかった(つまり、技術の進歩から科学の発見が生まれる可能性もある)。企業の幹部には、基礎科学への投資は割に合わないように思われた。デュポンは、第二のナイロンを発見することができなかった。コダックは、写真に革命を起こすことができなかった。RCAは、家電分野での競争力を失った。IBMは、パソコンに注力しなくなった。ゼロックスのPARCは、グラフィカルユーザーインターフェース(GUI)を手放した。
1960年代後半から1970年代にかけて、インテル(Intel)、マイクロソフト(Microsoft)、アップル(Apple)、サン・マイクロシステムズ(Sun Microsystems)、シスコ・システムズ(Cisco Systems)などの小さな企業が、大企業が行っていた基礎研究を商品化するようになった。こうした企業は、伝統的な研究所を自前で設立することなく、新しい情報技術(IT)産業を支配した。例えばマイクロソフトは1991年に、この世代としては最大規模の産業研究所であるマイクロソフトリサーチ(Microsoft Research)を設立したが、そのミッションとして宣言したのは基礎科学ではなくイノベーションだった。もっと極端な例は、アップルの共同設立者であるスティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)だ。彼は、革新のために研究開発に投資する必要はないとして、できたばかりの研究所を1998年に閉鎖している。
2010年になり、機械学習、人工知能(AI)、モノのインターネット(IoT)が出現するまで、ほとんどの技術系企業が基礎研究を無視していた。ジョブズの死後の2012年、アップルは研究開発への投資を再開した。特に力を入れたのはAI研究だった。アマゾン(Amazon)、グーグル(Google)、フェイスブック(Facebook)、ウーバー(Uber)も、大学からAI研究者を引き抜き始めた。この頭脳流出は深刻で、大学は未来のAI研究者を訓練できなくなるのではないかと心配されている。
21世紀の企業は、今でも科学(特に、特許になり得る発見)を尊重し、基礎研究が発明とイノベーションにつながると考えているが、他の企業がそれをやってくれれば(そして費用も負担してくれれば)いいと思っている。1990年代から広く使われるようになったビジネス用語で言えば、彼らは「サプライチェーン管理」を最適化して、硬質な社内の研究所(科学者とエンジニアを収容した倉庫)を融通が利く委託研究と置き換えた。このやり方は、米国政府の姿勢と、反トラスト法の執行の緩和を受けて、格段に容易になった。例えば、マイクロソフトに対する反トラスト法違反訴訟が2001年に和解に至ったことは、1984年にAT&Tが強制的に解体されたことと著しい対照をなしている。
さらに米国政府は、革新的なスタートアップが、サーノフやPARCなどの他の企業や独立の非営利組織から新しい技術や特許やライセンスを取得したり、研究所や大学と広く共同研究を行ったりすることを許可するようになった。例えばマイクロソフトリサーチは、米国ニューヨーク市、中国・北京、インドのバンガロールなど世界各地に研究所を構えている他、MIT(米国)、カリフォルニア大学サンタバーバラ校(米国)、ケンブリッジ大学(英国)など大学のキャンパス内にも研究室を持ち、世界のAI特許の20%を取得している。これに対してグーグルは、主に助成金、奨学金、研修、客員研究員制度を通じて大学研究を支援している。
伝統的に、大学は基礎科学の場であった。21世紀になると、米国特許法の全面的な改正などにより、大学は革新と起業家活動のよりどころにもなった。米国最高裁判所は1980年の「ダイアモンド対チャクラバーティー事件(Diamond v. Chakrabarty)」において特許権を取得できる範囲を大幅に広げ、新しい生命体の特許も取得可能にした。米国議会は同じ年に、バイ・ドール(Bayh-Dole)法を制定し、大学の教職員や学生がNIHなどの連邦機関の助成を受けて学内で行った研究の成果については、大学が特許を取得できるようにした。大学は徐々に特許を出願するようになり、その件数は2266件(1996年)から5990件(2014年)まで増加した。大学は今や、発明者になったのだ16。
こうした法律的・政策的な転換により大きく変化した最も重要な産業は、バイオテクノロジーである。世界初のバイオテクノロジー企業ジェネンテック(Genentech)は、大学の生化学者とベンチャー投資家によって1976年に設立された。ジェネンテックは、1980年に設立されたアムジェン(Amgen)や1981年に設立されたジェンザイム(Genzyme)などの他のバイオテクノロジー系スタートアップと同様に、大学の基礎研究やそれを発展させる社内での基礎研究を、特許などの利益になる知的財産に橋渡しすることに注力した。医薬品の製造や流通に向けたさらなる商業化は、伝統的な巨大製薬会社が引き継いだ。例えば、ジェネンテックが最初に開発した医薬品(合成ヒトインスリン)は、1876年に設立されたイーライリリー(Eli Lilly)が臨床試験を実施して発売した17。
バイオテクノロジーの出現は、起業家的な科学者がベンチャー資本家と組んで研究成果を売るという新しいビジネスプランと、新しいイノベーションのモデルの登場を意味していた。産業界のイノベーションの在り方は、1社内の非公開の研究から始まるクローズドイノベーションから、公開されている外部の多数の研究から始まるオープンイノベーションへと移っていった18。このモデルでは、大学の起業家をはじめ、利益を追求する大学や国際的な委託研究機関、無数の小規模な研究スタートアップ企業が科学と知的財産を供給し、規模の大きい確立した企業がこれらを開発・商品化して、新しい製品やプロセスとする。
一部の経済学者や経営学者によれば、オープンイノベーションは「第三の産業革命」である19。彼らの目には、連邦政府からの助成で得た研究成果をベンチャー資本家から得た元手で特許として権利化して新興企業を設立しようとする大学教授は、19世紀のコンサルタント化学者の直接の子孫として映っている。このエコシステムでは、機敏な研究者と小規模な企業の集団が、腰の重い企業研究所の群れに取って代わっている20。批評家や悲観的な学者にとっては、21世紀の科学と産業界の関係は、大学研究の商品化と、利益追求で知識追求が堕落したことの例だ21。
昔ながらのベルトコンベヤーは、複雑なイノベーションの網に変わった。この世界的な商業化も新しいモデルである。サプライチェーン科学では、研究は代替可能な商品であり、需要に応じて購入することができ、最も低い価格をつけたラボが研究を売ることができるという考え方を前提としている。21世紀の委託研究はいくつかの点で、19世紀のコンサルタント科学を彷彿とさせる。両者に共通するのは、「産業界の科学は果たして信用できるのか?」という疑問である。
翻訳:三枝小夜子
Nature ダイジェスト Vol. 17 No. 1
DOI: 10.1038/ndigest.2020.200104
原文
Can marketplace science be trusted?- Nature (2019-10-22) | DOI: 10.1038/d41586-019-03172-5
- Paul Lucier
- Paul Lucierは、独立の歴史学者で、2008年にScientists and Swindlers: Consulting on Coal and Oil in America,1820–1890(科学者と詐欺師:アメリカの石炭・石油コンサルタント、1820〜1890年)を上梓している。次の著書は科学と資本主義に関するものになる予定。
参考文献
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