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数千億円の「脳地図」から見えてきたこと

近年、世界中の科学者たちが力を合わせて脳の地図を作っている。これらの巨大プロジェクトから、脳の仕組みについて何が明らかになったのだろう?

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MAREEN FISCHINGER

Nature ダイジェスト Vol. 19 No. 1 | doi : 10.1038/ndigest.2022.220122

原文:Nature (2021-10-07) | doi: 10.1038/d41586-021-02661-w | How the world’s biggest brain maps could transform neuroscience

Alison Abbott

宇宙から地球を観察して、人間の会話を盗み聞きすることを想像してみてほしい。脳の仕組みを解明する作業は、そのくらい難しいことなのだ。

脳のしわだらけの表面を100万倍に拡大すると、さまざまな形や大きさの細胞が枝分かれして互いに手を伸ばし合う、万華鏡のような光景が見える。そこからさらに10万倍拡大すると、細胞内の仕組みが見えてくる。個々の細胞の中にある微細な構造や、細胞同士の接点、脳領域間をつなぐ長距離接続などである。

科学者たちは、線虫1とハエ2では全脳について、マウス3とヒト4では脳のごく一部であるが、地図を作成した。しかし、これらの地図は始まりにすぎない。脳が働く仕組みを神経科学者が真に理解するためには、脳にあると考えられている約1000種類の細胞が、それぞれ異なる電気的な「方言」を使ってどのように会話しているかを知る必要がある。完全で緻密な地図が完成したときに初めて、私たちの思考や行動をつかさどるネットワークの説明に着手することが可能になるのだ。

近年、こうした地図が次々と発表されている。2021年10月にも、脳内にある各種の細胞をカタログ化した一連の論文がNature に発表された。人口の高齢化に伴って増加する脳疾患を理解し、その対策を講じようとする各国政府の取り組みも成果が上がり始めている。この10年間に開始されたこれらのプロジェクトは、脳の接続を体系的に地図に示し、脳の細胞タイプとその生理的特性のカタログを作ることを目的としている(2013年10月号「脳科学の世紀」参照)。

これは骨の折れる作業である。けれどもNIH国立精神衛生研究所(NIMH;米国メリーランド州ベセスダ)の所長を務めるJosh Gordonは、「脳の細胞タイプを全て把握し、それらが互いにどのように接続し、どのように相互作用しているかを知ることができれば、現在の私たちには想像もつかないような、全く新しい治療法が生まれる可能性があります」と期待する。

特に規模が大きい2つのプロジェクトは米国政府と欧州委員会が2013年に始めたもので、研究者が哺乳類の脳の暗号を解読するのに役立つサービスを提供するという遠大な計画である。両者はそれぞれ異なる目標を掲げた体系的な大規模プログラムを立ち上げて、膨大な資源を投入している。米国の「BRAINイニシアチブ(Brain Research through Advancing Innovative Neurotechnologies Initiative;革新的な神経技術の進歩による脳研究イニシアチブ)」は、新しいマッピング技術の開発と応用に重点を置くもので、2027年までに66億ドル(約7500億円)の費用が投じられる見込みである(「脳地図プロジェクトの巨額予算」参照)。一方、欧州委員会とそのパートナー機関は、6億700万ユーロ(約780億円)をかけて「ヒト脳プロジェクト(Human Brain Project;HBP)」を進めている。このプロジェクトの主な目標は、脳の回路のシミュレーションを行い、そのモデルを実験のプラットフォームとして使用することにある。

脳地図プロジェクトの巨額予算
米国や欧州、日本は、脳地図イニシアチブに巨額の予算を投じている。他の数カ国も同様のプロジェクトの立ち上げを発表しているが、その予算はまだ確定していない。 | 拡大する

SOURCES: US BRAIN INITIATIVE/HBP/H. OKANO ET AL. NEURON 92, 582–590 (2016).

これらの取り組みは当初、マウスを研究対象としていた。それにヒントを得た日本は、2014年に「革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明(Brain Mapping by Integrated Neurotechnologies for Disease Studies;Brain/MINDS)」プロジェクトを立ち上げ、主にマーモセットの脳の神経回路のマッピングを開始した。その後、カナダやオーストラリア、韓国、中国なども、既存のプロジェクトよりも分散した目的のために、脳科学プログラムを高額の予算を付けて立ち上げたり、その立ち上げを約束したりしている。

現在進められているプロジェクトでは、既に膨大かつ多様なデータセットが生成されていて、その全てがコミュニティーに公開される予定である。2020年12月には欧州のHBPがEBRAINSプラットフォーム(https://ebrains.eu)を立ち上げ、さまざまなスケールのデータセットと、それらを分析するためのデジタルツール、および実験を行うためのリソースへのアクセスを提供している(2016年7月号「ヒト脳プロジェクトが計算ツールを公開」参照)。

米国のBRAINイニシアチブが資金を提供しているプロジェクトの中でも、特に規模が大きく、資金も多いものの1つに、脳の細胞タイプに関する巨大なカタログがある。このカタログには、脳にはいくつの細胞タイプがあり、どのような比率で存在していて、どのような空間配置になっているかが記載されている。このカタログを作成しているのは、米国の複数の研究機関の26のチームからなるコンソーシアム「BRAINイニシアチブ細胞センサスネットワーク(BRAIN Initiative Cell Census Network;BICCN)」である。なおセンサス(census)とは、国勢調査や全数調査を意味する単語である。

マウスの皮質から採取した細胞。こうしたニューロンのカタログを作成するプロジェクトが世界中で進められている。 | 拡大する

X. WANG ET AL./CELL REPORTS

BICCNのメンバーであるデューク大学(米国ノースカロライナ州ダーラム)の神経生物学者Josh Huangは、「脳を理解するためには、どのような基本的構成要素から、どのように組織されているかが分かっている必要があります」と語る。「これは、神経回路がどのように構築され、どのように機能しているかを解き明かし、最終的に、その回路がつかさどる複雑な行動を理解するための出発点です」。

BICCNはNature 2021年10月7日号に17本の論文を発表したが、その前から数本の論文をNature Portfolio各誌に発表している。同コンソーシアムは、これまでにマウスの脳の約1%の細胞タイプをマッピングしており、ヒトを含む霊長類の脳についても、ある程度の量の予備的データを持っている。彼らは2023年までにマウスの全脳のマッピングを完了させることを目指している。BICCNの地図からは既に、種間の小さな差が浮かび上がってきている。この差は、アルツハイマー病などのヒトに特異的な疾患に対する我々の感受性を説明するのに役立つ可能性がある。

神経科学者たちが特に喜んでいるのは、BICCNが疾患に関連する特定の種類の細胞タイプや回路を標的としたツールを構築していることである。こうしたツールは、脳機能に関する仮説を検証したり治療法を開発したりするのに役立つと期待されている。

アレン脳科学研究所(米国ワシントン州シアトル)の元所長で、現在も同研究所にてMindScopeプログラムを率いる神経科学者のChristof Kochは、「細胞のカタログを作ることで、脳研究において切実に必要とされている『基準』を定めることができます」と言う。「化学に周期表がなかったら、何も理解できません。同様に、脳に存在する細胞のタイプとそれらの機能が分からなければ、脳を理解することはできません」。

細胞タイプを探して

スペインの神経解剖学者サンティアゴ・ラモン・イ・カハール(Santiago Ramón y Cajal)。1906年にノーベル医学生理学賞を受賞。 | 拡大する

Universal History Archive/Contributor/Universal Images Group/Getty

今から1世紀以上前、スペインの神経解剖学者サンティアゴ・ラモン・イ・カハール(Santiago Ramón y Cajal)は、哺乳類の脳に多くの異なる種類の細胞があることを初めて明らかにした。彼はニューロンを染色して顕微鏡で観察し、その形を精密かつ美しく描いた。彼が見つけた数十種類のニューロンの中には、膨らんだ細胞体からクモの脚のように出た軸索が、長い距離を走行しているものもあった。軸索がもっと短いものや、星に似た形のものもあった。それぞれの細胞の軸索が他の細胞の細胞体に非常に接近していることから、彼は、軸索は情報を伝達しているのかもしれないと推測した。彼はこの発見により、1906年にノーベル医学生理学賞を共同受賞した。

それ以来、細胞タイプに関する研究のほとんどは、脳の皮質(動物の高度な行動の多くを制御する領域)に関するものになっている。神経科学者たちはこの30年間に、皮質には3つの主要なクラスの細胞があり、その系統は発生の異なる段階までさかのぼれることを明らかにした。3つのクラスのうち2つは、抑制性ニューロンと興奮性ニューロンである。どちらも電気パルスを伝達するが、抑制性ニューロンはパートナーのニューロンの活動を抑制し、興奮性ニューロンはパートナーのニューロンの活動を促進する。第3のクラスは、ニューロンを支えて保護する膨大な数の非ニューロン細胞だ。

この数十年間、神経科学者たちは新しい技術を駆使して、これらのクラスを構成するそれぞれの細胞タイプについて、定義を微調整してきた。表面的には同じように見える細胞でも、他の脳細胞や領域との接続や電気的特性によっては、異なる細胞タイプであるかもしれないことが分かってきた(2019年2月号「大規模ヒト脳ゲノム解析から神経疾患の手掛かり」参照)。

研究者たちは、ネットワークの中のニューロン同士の接続や、ネットワークの特性に関するデータも収集していた(HBPが立ち上げられると、これらのネットワークが全体としてどのように機能するかを研究者がシミュレーションするためのアルゴリズムとコンピューティングパワーを生み出すことに重点が置かれた)。

1990年代以降、研究者たちは、さまざまな細胞タイプにおける遺伝子の活性や、遺伝子の発現と細胞の特性との関連について調べ始めた。

2006年にはアレン研究所が、マウスの脳の約2万1000個の遺伝子がそれぞれ脳内のどこで発現しているかを示す遺伝子発現アトラスを作成した。約50人のスタッフが3年がかりで遺伝子を1つ1つ調べて作成したアレン脳地図(Allen Brain Atlas)の価値は、瞬く間に神経科学界に認められた。地図は定期的に更新され、今でも、科学者が関心を持つ遺伝子が発現している部位を特定したり、特定の遺伝子が疾患において果たす役割を研究したりする際の参考資料として広く利用されている(2015年7月号「ニューロンの百科事典作成計画が始動」参照)。

しかし、科学コミュニティーからはさらなる要望があった。アレン脳科学研究所の所長Hongkui Zengは、「私たちは、全ての細胞で発現している全ての遺伝子を、同時に見られるようにしたかったのです」と語る。研究者は、個々の細胞での遺伝子発現パターンの違いから、それがどのタイプの細胞であるかを定義できると考えている。マウスの脳には1億個以上の細胞があり、そのうちの3分の2がニューロンであることを考えると、これは途方もない大仕事である(ヒトの脳は1700億個の細胞からなり、その半数がニューロンである)。

科学コミュニティーの要望の実現を後押ししたのは、2000年代半ばに登場した画期的な技術である。それは単一細胞内のRNAのシーケンシング(塩基配列解読)を行う技術で、この10年間の生物学のあらゆる分野を一変させた(2017年10月号「細胞に魅せられた科学者」、2018年5月号「シングルセル解析の新たな計測技術を開発」参照)。1つの細胞のトランスクリプトーム(タンパク質をコードする全ての遺伝子から読み出されたRNAの総体)は、任意の時点で細胞がどのタンパク質を作っているかを示す指標となる。

2017年、BRAINイニシアチブはアレン研究所を筆頭とする研究所のネットワークに資金を提供し、この手法やその他のさらに新しい技術を使って脳全体の細胞タイプをマッピングし、その特徴を明らかにすることを決定した(「脳をマッピングする手法」参照)。2年後、BICCNの研究者たちは作業に着手する準備を整えた。

脳をマッピングする手法
最大の脳マッピングプロジェクトの1つであるBRAINイニシアチブ細胞センサスネットワーク(BICCN)は、数年前から複数の方法でニューロンのカタログ化とマッピングを進めている。 | 拡大する

SOURCE: REF. 5

シーケンシング熱

BICCNのパイロットプロジェクトでは、研究者たちは控えめな対象を選んだ。マウスの脳の、運動の計画と実行に関する情報を処理する「運動野」という小さな部分である。運動野は、全ての哺乳類に明白に存在しているので、マウスとヒトとその他の動物での結果を比較することができる。彼らは110万個以上の細胞に含まれるRNAの量を個別に測定し、どのようにクラスター化しているかを分析した5。この研究に従事したBICCNの研究者は10人前後であったが、わずか3カ月間で完了することができた。

分析の結果、異なる細胞タイプを表していると考えられる56のクラスターが見つかった。アレン研究所のEd Leinは、大きな問題は、細胞の遺伝学的な分類が、それ以外の方法による分類、すなわち細胞の発火の仕方や細胞の形状、軸索がどこに投射しているかなどによる分類と一致しているかどうかだと言う。

現時点では一致しているようだと、Leinは言う。彼は、並行して進められたBICCNのプロジェクトで、ある脳腫瘍患者の手術中に摘出された新鮮な脳組織を分析するチームを率いた。彼らはその際、単一細胞について3種類の測定が可能なpatch–seq法と呼ばれる強力な手法を用いた。patch–seq法では、特殊なガラス製のピペットを細胞の細胞膜に圧着させてその電気的活動を記録し、細胞内に色素を注入して構造を可視化してから、細胞の内容物を吸い出してトランスクリプトーム解析を行う。

研究チームは、トランスクリプトームのパターンが共通している細胞は、形状や発火のパターンも共通していることを示した6。「これは、トランスクリプトミクスが、細胞の多様性を解釈し、細胞の特性を予測するための手掛かりとして役立つことを示唆しています」とLeinは言う。

この結果は外部の科学者たちにも貴重な手掛かりを与えた。中でも注目されているのは、同じクラスのニューロンが互いに大きく異なっている場合があるという発見である。

カリフォルニア大学ロサンゼルス校(米国)の神経科学者Anne Churchlandは、この多様性が興奮性ニューロンにおいて重要な意味を持っているかを確認するため、2年前からマウスを使った一連の実験を計画している。まだ査読を受けていない初期の結果7は、その可能性を示唆している。マウスが聴覚課題を遂行すると、異なる興奮性ニューロンが異なるタイミングで発火したのである。「私たちは今、非常に面白い段階に来ています」と彼女は言う。

より大きな脳へ

細胞の「全数調査」の次の段階では、研究チームはより大きな脳に焦点を合わせる予定である。一部の研究は既に始まっている。マーモセットとヒトの死後脳のRNAシーケンシングからは、両者の細胞タイプには種を超えた驚くほどの一致が見られることが明らかになっている6。では、ヒトの著しく優れた認知能力はどこから来ているのだろうか?

「これらの研究は、細胞タイプの一般的な青写真が種を超えて保存されていることを示しています」とLeinは言う。「その一方で、種の特殊化を示す証拠も見つかっています。これらは1つの主旋律の変奏にすぎませんが、非常に重要なものなのです」。BICCNのトランスクリプトーム研究は、ヒトの脳が、マウスの脳よりも細胞タイプが多様で、特に、最も新しく進化してきたニューロンで多様性が高いことを明らかにした。そのうちの1つは、アルツハイマー病で選択的に減少することが知られている種類のニューロンである8

BICCN研究で強調されたもう1つの差異は、マウス、マーモセット、ヒトの皮質における興奮性ニューロンと抑制性ニューロンの比率である。マーモセットでは3:1、マウスでは5:1であるのに対し、ヒトでは2:1なのだ6。これは意外で、かなり不可思議な発見だとLeinは言う。「こうした累積的な差が、ヒトの皮質の組織化と機能に大きな変化をもたらした可能性があります」。

米国のBRAINイニシアチブを率いるカリフォルニア大学バークレー校の神経科学者John Ngaiは、「ヒトの脳を特別なものにしている差異には、細胞の多様性、細胞タイプの比率、脳の配線などの他にもいろいろあるのでしょう」と説明する。「この古くからの問いに簡単に答えることはできません」。

地図から医療へ

BRAINイニシアチブの次なる段階の1つは、疾患に関連する回路内の特定の細胞タイプを選択的に標的とするツールを構築し、その回路の活性を調節できる治療分子を提供することになるだろうと、Ngaiは言う。

研究者たちが特に期待しているターゲティング法は、BICCNが発見した、個々の細胞タイプに特異的な短いDNA断片を利用するものだ9。この短い配列は個々の細胞タイプのマーカーとして機能するため、研究者は、さまざまな細胞を標的として活性を操作することを通じて10、関連する回路の活性を操作できるようなマウス系統を作り出すことが可能になる。これは基礎科学と医学の両方にとってメリットがある。脳の空間認知システムの研究により2014年にノーベル医学生理学賞を受賞したカブリシステム神経科学研究所(ノルウェー・トロンハイム)のEdvard Moserは、「脳内の全ての細胞を標的にできるようになれば、基礎研究の大きな助けになるでしょう」と期待する(2014年12月号「空間認知に関わる脳細胞の発見に医学生理学賞」参照)。

分子臨床眼科研究所(スイス・バーゼル)のBotond Roskaは、これらのツールは遺伝子治療(欠落した遺伝子や損傷した遺伝子を置換する治療法)にとっても「途方もなく重要」であると考えている。Roskaは、ある種の疾患で視力を失った人々に対して、光に反応するタンパク質を網膜のニューロンに挿入する世界初の光遺伝学療法の試験を行っている(2019年10月号「光遺伝学でマウスに幻視を誘発」、2021年3月号「生物時計を逆回しして老齢マウスの視力を回復」参照)。彼によると、この治療に適した網膜細胞を特定しようと決心してから、最初の患者の治療に成功したことを2021年5月に発表11するまでに19年の歳月を要したという。彼は、BICCNの活動は、将来、別の脳領域を調べる科学者たちの研究を加速させるだろうと考えている。

Gordonは、精神疾患や神経疾患の治療薬の開発者は細胞タイプを考慮する必要があるが、これまではそれは不可能だったと言う。「現時点では、薬物がどの細胞に作用するのか分からないまま、全ての細胞に一度に薬物を投与しています。私たちが精神科や神経科で行っている治療の多くが重大な副作用を伴うのは、そのせいです」。

ズームアウトする

脳の各部位を知ることと、これらがどのように連携しているかを知ることは別問題だ。大規模な脳研究プロジェクトの一部と世界各地の独立の研究グループのいくつかは、マウスやヒトを含む多くの生物種について、細胞タイプとその接続の空間的構成(コネクトーム)を調べている。

コネクトームを調べるには、脳を染色してから極薄の層にスライスし、電子顕微鏡で画像を撮影する。続いて、その画像を重ね合わせ、人工知能を使って個々の細胞の3D経路を追跡する。その解像度は非常に高く、個々のシナプス(細胞膜にある微細な構造で、他の細胞との間に化学的な接続を形成する)まで見える(2013年11月号「網膜の神経回路を詳細にマッピング」、2016年10月号「これまでで最も精細なヒト脳地図」参照)。

ジャネリア・リサーチ・キャンパス(米国バージニア州アッシュバーン)の研究者たちは、2022年にはショウジョウバエのコネクトームを完成させる予定である。しかし、より大型の生物種では、より多くの作業が必要になるため、次の完全なコネクトームが完成するのは数十年後ではないにしても数年後になると思われる。BICCNでは高解像度電子顕微鏡法を用いてマウスの全脳の3D解剖図を作成することを計画しており、細胞内の仕組みを観察するのに必要な10億倍の倍率を達成しようとしている。日本のBrain/MINDSプロジェクトの科学者たちはマーモセットのコネクトームを追跡している。政府が支援する大規模な脳プロジェクト以外にも、ドイツのマックス・プランク協会(MPG;ミュンヘン)の別々の研究所の3つのグループをはじめ、いくつかのグループが他の大型哺乳類のコネクトームを調べている。

脳の壁

ほとんどの神経科学者は大規模なマッピングプロジェクトがこの分野の将来のカギを握っていると考えているが、一部の研究者は慎重な姿勢を崩してはいない。ニューヨーク大学(米国)の神経生理学者Tony Movshonは、細胞タイプやコネクトームに関する詳細な知識がすぐに役立つとは考えていない。「トランスクリプトーム解析が行われる前から、形態などの分類に基づいていくつかの細胞タイプが知られていますが、まだ何も理解できていません」と彼は言う。「遺伝的に異なる細胞タイプの存在が明らかになったからといって、回路の仕組みの理解にすぐに役立つわけではないのです」。

とはいえ、特定の細胞タイプにタグを付けたり操作したりできるツールがあれば、「すごいことになるでしょう」と彼は言う。「私たちが記録した細胞についてもっと知ることができていたら、はるかに多くのことを学べたでしょう」。

ヒトの大脳新皮質の第2/3層にあるニューロンに見られる、樹状突起と呼ばれる構造。 | 拡大する

Albert Gidon & Matthew Larkum, Humboldt University of Berlin; Felix Bolduan & Imre Vida, Charité — University Medicine Berlin

1990年にヒトゲノム計画(HGP)が始まったときも実は懐疑的だったと話すMovshonは、HGPから得られた副産物は大きな変革をもたらし、その中には細胞センサス研究を可能にしたツールも含まれていたと語る(2016年1月号「ヒトゲノム計画25年の軌跡」参照)。

科学者たちは、BICCNとHGPの取り組みには、科学的な洞察や研究ツールなどの点で、他にも多くの類似点があると考えている。2001年にヒトゲノムのドラフト配列が完成したとき、研究者はヒトの遺伝子がマウスに比べて大して多いわけではないことを知った。また、システムの仕組みを理解するためには、基本的な部品のカタログだけでは不十分であることも分かった。遺伝子がいつ、どのようにして発現するのか、また、遺伝子同士が互いにどのように影響を及ぼし、環境とどのように相互作用するのかなど、他にも多くの情報が必要だった。

BICCNも同じような課題に直面しているが、そこから得られる知識の範囲は、最終的にはHGPをはるかにしのぐものになるだろうとHuangは言う。「ゲノムはヌクレオチドの文字列という1種類の情報にすぎませんが、細胞タイプの地図はさまざまな種類の情報から構成されているからです」。

細胞センサスから大量のデータがもたらされている今、研究者たちは、これらの情報を特定の生物種の脳の基準となる「共通座標フレームワーク(Common Coordinate Framework;CCF)」にまとめる方法を模索している。こうすることで、脳に関する複数の種類の情報を1つの場所から引き出すことが可能になる。

HBPのEBRAINSプラットフォームも、独自の共通座標フレームワークを作成している。HBPに参加しているルーバン・カトリック大学(ベルギー)の神経生理学者Wim Vanduffelは、「異なる種類の生物学的情報を同じ空間内で関連付けて、種内、ひいては種間の研究を比較できるようにすることは、計算上の難題ですが、本質的な課題です」と説明する。「共通の枠組みは基準点となるからです」。

HBPとBICCNは、それぞれのデータをリンクさせる方法について議論している。ハインリッヒ・ハイネ大学(ドイツ・デュッセルドルフ)の神経科学者で、HBPの科学研究ディレクターであるKatrin Amuntsは、「BICCNはボトムアップ式で、私たちはトップダウン式です」と語る。

最終的な目標は、全てのプロジェクトのデータを統合して、1つの壮大な描像として見ることができる「展望台」を構築することだ。この目標を達成するため、大規模な脳プロジェクトに従事する研究者たちは、2017年に国際脳イニシアチブ(International Brain Initiative)を設立した。これは、神経科学者が自分のデータをプールして分析する方法を見つけるのを助けることを主な目的とする、緩やかな組織である。

はるか遠い地平には、脳の回路をハッキングして、脳障害を治療するという目標があるとKochは言う。

「脳は宇宙で最も複雑な高活性物質です」とKochは言う。「脳の仕組みを解明するための妙案はありませんが、基本的なハードウエアを手に入れることで、いつの日か、その回路の仕組みを理解できるようになるでしょう」。

(翻訳:三枝小夜子)

Alison Abbottは、ドイツ・ミュンヘン在住のライター。

参考文献

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  3. Motta, A. et al. Science 366, eaay3134 (2019).
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  9. Yao, Z. et al. Nature 598, 103–110 (2021).
  10. Matho, K. S. et al. Nature 598, 182–187 (2021).
  11. Sahel, J.-A. et al. Nature Med. 27, 1223–1229 (2021).

キーワード

Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

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