大規模ヒト脳ゲノム解析から神経疾患の手掛かり
統合失調症や自閉スペクトラム症などの脳の疾患には、遺伝的要因があることが以前から知られていたが、遺伝子バリアントがどのように疾患に関与するかを正確に特定することは大きな難題の1つとなってきた。このほど、これまでで最も包括的なヒト脳のゲノム解析プロジェクトから最初の研究成果が数編の論文として報告された。今回の発見によって、これらの疾患の原因の一端が解明されようとしている。
発見の中には、ゲノムの「暗黒物質」中に埋もれていたエレメントも含まれている。そのようなエレメントは遺伝子の発現を調節していると思われる。さらに、研究チームは、そうした脳疾患の発症率に関与している可能性のある、これまで特定されていなかった遺伝子と埋もれていたエレメントのネットワークも明らかにした。
「私たちは、こうした病気の発症機序を解明したと言うつもりも、治療薬の設計への取り組み方を明らかにしたと言うつもりも全くありません。しかし私たちは、これらの疾患に関係する遺伝子や経路、さらには細胞のタイプをも浮かび上がらせているのです」とエール大学(米国コネティカット州ニューヘイブン)の分子生物物理学者Mark Gersteinは述べる。彼はこのプロジェクトの複数の研究に関わっており、それらから選んだ成果を、Science 2018年12月14日号に発表した1。
統合失調症のような神経・精神疾患は、単一遺伝子の変異が原因で起こる嚢胞性線維症や特定タイプの筋ジストロフィーなどの疾患とは異なり、環境要因と相互作用する何百もの遺伝子が関わっている。そのため、総合的な疾患リスクに対する各遺伝子の関与はごくわずかだ2。
過去10年間に、科学者たちは神経・精神疾患に関連する多数の遺伝子バリアントを特定してきた。しかし多くの場合、仮に塩基配列の変化が遺伝子の機能を変化させているとしても、どのように変化したかは明らかではない。「遺伝学的研究を行うと、50個ほどの関連遺伝子バリアントの全てがゲノムの同じ領域に集まっていることが判明する、ということがよくあります。しかし疾患リスクに直接影響を与えているのは、そのうちの1つだけ、という可能性もありますと、カーディフ大学(英国)の精神医学遺伝学者Michael OʼDonovanは言う。
さらに事を複雑にしているのが、これらのバリアントのいくつかがタンパク質をコードしないDNA領域に存在することだ。数年前まで、科学者たちはこうした領域を「不毛地帯」と見なしていた。しかし、こうした領域に埋まっているのは、例えば転写因子やマイクロRNAなど、遺伝子発現を調節するエレメントのコードだ。こうしたエレメントも、個人の疾病リスクに強い影響を与え得る。
遺伝子を超えて
2015年に米国立衛生研究所(NIH;メリーランド州ベセスダ)によって設立されたPsychENCODEコンソーシアムは、これらの遺伝的関連と遺伝子機能の実際の変化との間の点と点を結ぶことを目指して、数千体のヒト献体から脳組織試料を採取し、複数のゲノム塩基配列決定法を用いて研究した。「よく見られる神経・精神疾患は非常に遺伝性が高いことが知られているものの、その機構についてはいまだによく分かっていません。目標は、機能ゲノミクスを使って何が起こっているかを解明することです」とGersteinは言う。
これらの研究の1つ3では、1866人の死後脳組織から得られた複数の脳細胞タイプを、塩基配列データを基に分類し、既存データベース上の単一の脳細胞タイプと統合した。これまでの研究では、脳によって遺伝子発現に広範囲にわたる変動が見られることが明らかになっているが、脳全体のデータを特定の細胞タイプの塩基配列データに基づいて比較することで、研究チームは、この変動の約90%が、個人の脳における細胞タイプの相対的比率の違いに関連しているという確証を得た。そうした比率は、加齢とともに、そして自閉スペクトラム症のような疾患で変化するように見える。「私たちはこれらの細胞タイプの増加に結び付く可能性のある、重要な遺伝的バリアントを突き止めることもできました」とGersteinは言う。
また、研究チームは、今回得られたデータを用い、特定の遺伝子と、神経・精神疾患と以前に結び付けられていたノンコーディングDNAバリアントのつながりも導き出した。これによって、遺伝子がどう機能するかに実際に影響を及ぼし、統合失調症などの疾患に直接関与しているように思われるものに絞り込んで探索することができる。「これらの遺伝子と細胞タイプのいくつかはよく知られているものですが、新しいものも見つかっており、それらを追跡研究できる可能性があります」とGersteinは付け加える。
成長期の脳
また、Gersteinらは60個の脳から得た組織試料と単一細胞を使って、遺伝子発現と、遺伝子発現を変化させる可能性のある化学的な、つまりエピジェネティックな遺伝子修飾、そしてさまざまな脳領域の調節エレメントが、脳の発達に伴ってどのように変化するかについても調べた。その結果、遺伝子発現の変動が最も多く見られたのは胎児発生期と思春期であった。これらの時期は脳の発達に非常に重要であることが分かっている。
こうした時期に、以前より神経・精神疾病リスクに関連付けられている遺伝子群は特定の脳領域でネットワークを形成するようだ。これは、いつ、どこでこれらの病気の機構を研究し、それらをモデル化したらいいかに関して新しい手掛かりをもたらすかもしれないと、同じくエール大学の神経科学者で、この研究を率いた研究室の室長であるNenad Sestanは言う。
別の論文で、PsychENCODEコンソーシアムの他のメンバーは、コピー数変動(CNV;DNA塩基配列の大きな塊が付け加わったり欠失したりする現象)が神経・精神疾患において果たしている可能性のある役割に研究の焦点を合わせた4。以前の研究で、稀なCNVが統合失調症のリスクに強い影響を与えることが示唆されているが、その機構は明らかではなかった。
「これまで私たちは常に、タンパク質コード遺伝子に影響するCNVにばかり目を向けていましたが、長いノンコーディングRNA(lncRNA)を含む領域に存在するCNVが見落とされていました」と、ニューヨーク州立大学アップステート医学校(米国シラキュース)の精神医学と行動科学の専門家で、この研究を率いたChunyu Liuは言う。そのような分子はタンパク質をコードする能力は全く示さないが、そのうちのいくつかは遺伝子発現を調節することができ、それ自体が統合失調症のリスクに関与している可能性もある。
Liuらは、259人の死後脳組織を解析し、以前に統合失調症のリスク上昇に関連付けられていた10カ所のCNV-欠失領域にあるlncRNAを重点的に調べ、いずれかの発現がタンパク質コード遺伝子の発現と相関するかどうかを調べた。もし相関関係があれば両者の関連が示唆されるかもしれない。研究の結果、遺伝子発現の調節を助けている可能性があると思われるlncRNAが数個見つかった。1つはDGCR5と呼ばれるもので、神経前駆細胞での追加実験によって、これがいくつかの統合失調症関連遺伝子のハブとして働くことが明らかになった。このRNAの欠失と統合失調症のリスク上昇に関連が見られる理由は、これで説明できるかもしれない。
関連する研究で、Liuらは統合失調症患者あるいは双極性障害患者から、そして対照となる健常者から採取した脳組織を解析した2。研究チームは発現がタンパク質コード遺伝子と相関するマイクロRNAを探した。すると、統合失調症のリスクに影響を及ぼすと思われるマイクロRNAと転写因子と遺伝子のネットワークが明らかになった。Liuは、個々の遺伝子が及ぼす影響にのみ注目するのではなく、このようなネットワークに焦点を合わせることによって、統合失調症などの複雑な病気の根本的原因に関する理解を深められるのではないかと考えている。とはいえ、これは、ノンコーディング領域での変動がどのように遺伝子発現に影響するのか、そして、次にこれがどのように疾病リスクに関与するのかを理解するための長い旅の始まりに過ぎないと彼は強調する。
OʼDonovanも同じ意見だ。「今回の一連の論文は重要なものですが、遺伝的変化がどのように脳の疾患に関与するかについて決定的な答えを提供しているわけではありません」と彼は言う。「これらはかなり大きな前進であるとは言えますが、ただ何歩か進んだにすぎないのです。ですが、この種の研究をもっと多く行うことで、遺伝学をこうした疾患の生物学的本質と結び付ける助けになってくれると期待しています。
翻訳:古川奈々子
Nature ダイジェスト Vol. 16 No. 2
DOI: 10.1038/ndigest.2019.190204
原文
Huge brain study uncovers ‘buried’ genetic networks linked to mental illness- Nature (2018-12-13) | DOI: 10.1038/d41586-018-07750-x
- Linda Geddes
参考文献
- Li, M. et al. Science 362, eaat7615 (2018).
- Chen, C. et al. Sci. Transl. Med. 10, eaat8178 (2018).
- Wang, D. et al. Science 362, eaat8464 (2018).
- Meng, Q. et al. Sci. Transl. Med. 10, eaat6912 (2018).
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