脳への電気刺激で運動選手の能力向上?
トップレベルのスキージャンプの選手は、極限に近いバランスとパワーを頼りに急勾配のスロープを滑り下り、その速度は最高で時速100kmに達する。しかし米国スキー&スノーボード協会(USSA)は、別の筋肉、すなわち意識を訓練することによって、一流選手たちを優位に立たせようとしている。USSAのスポーツ研究グループは、ハロー・ニューロサイエンス社(Halo Neuroscience;米国カリフォルニア州サンフランシスコ)と共同で、脳に電気刺激を与えることによって、スキージャンプの選手の技術の改善を助け、成績を向上させることができるかどうかを調べているのだ。
他の研究では、標的を定めた脳刺激で、運動選手の疲労感を低減できることが示唆されている1。このような技術により、怪我からの回復を補助できる可能性がある。また、運動選手たちは競争で優位に立つために「脳ドーピング」を試そうとするかもしれない。
しかし多くの科学者は、脳刺激には提案者たちが主張しているほどの効果はないのではないかと疑問の声をあげており、その理由として研究対象が少人数に限られていることを指摘する。「見事な結果ではあるが、それがどういう意味を持つのかまだ明確ではない」とメルボルン大学(オーストラリア)の認知心理学者Jared Horvathは述べる。
USSAはハロー社と共同で、身体的な技能を制御する脳領域である運動野に電気刺激を与える装置の有効性を調べている。ハロー社によれば、電気刺激は、技能を学習するときに脳に新しい神経接続ができるのを助けるという。同社は、オリンピック選手を含むノルディックスキージャンプの一流選手7人を被験者とした未発表の研究でその装置を使った試験を行った。
1週間に4度、2週間にわたって、スキー選手たちは不安定な板の上で垂直飛びを練習した。4人の選手は訓練中に経頭蓋直流電気刺激(tDCS)を受け、他の3人は偽の処置を受けた。偽の処置を受けたグループと比較して、刺激を受けた選手たちは最終的にジャンプ力が1.7倍向上し、運動の協調性(コーディネーション)が1.8倍改善したと、ハロー社は2016年2月に発表した。
USSAのハイパフォーマンス研究部長のTroy Taylorは、この結果に勇気付けられたが、研究がまだ初期段階であることを認めている。
持久力の限界を広げる
2016年3月7日に英国生理学会が開催した「優れたパフォーマンスの生物医学的基盤に関する会議(Biomedical Basis of Elite Performance 2016;英国ノッティンガム)」で発表された別の研究では、tDCSによって疲労感が低減する可能性が示唆された。ケント大学(英国カンタベリー)のスポーツ科学者Lex Maugerらは、脚の機能を制御する運動野領域を刺激すると、自転車の乗り手は疲れを感じずにより長い時間ペダルを踏めることを発見した。
研究者たちは、まず12人の訓練を受けていない有志の被験者の脳を刺激し、その後、彼らに疲れ切るまでサイクリングマシンのペダルを踏んでもらった。被験者たちは1分ごとに自分の努力のレベルを評価した。
tDCSを受けた被験者は、偽の処置を受けた人たちに比べて、平均して2分間長くペダルを踏むことができた。さらに彼らは、自分はそれほど疲れていないという評価も下していた。しかし、処置を受けたグループと対照グループの間で、心拍数あるいは筋肉の乳酸レベルの相違は見られなかった。この結果は、筋肉痛などの肉体的フィードバックではなく、脳の認識の変化が成績の改善を引き起こしたことを示唆している。
リオ・グランデ・ド・ノルテ連邦大学(ブラジル)の生物工学者Alexandre Okanoは、自転車に乗っている人の脳の側頭葉の皮質を刺激すると同様の成績改善が見られることを発見した2。側頭葉の皮質は身体認識や、呼吸などの自発的な機能に関係している脳領域だ。このことから、側頭葉の皮質と運動野と呼ばれる皮質領域がまだ明らかにされていないやり方で接続しているか、tDCSが脳の部位を正確に標的としていないかのどちらかが示唆される、とOkanoは言う。
これらの結果は、脳が体からのフィードバックを分析して筋肉をスローダウンさせて疲労を防ぎ、激しい活動を管理している、という考え方を裏付けるものだと、バーク医学研究所(米国ニューヨーク州ホワイトプレインズ)の神経生理学者Dylan Edwardsは言う3。「これ以上できないほど激しく運動していると思っているときでも、常にいくらか余力が残っているのです」と彼は言う。
慎重を要する実験
しかしHorvathは、脳刺激の長期的影響についてはほとんど分かっていないと、警告を発する。また、運動成績を改善するという技術の可能性に対して懐疑的な人々もいる。ロンドン大学ユニバーシティカレッジ(英国)の神経科学者Vincent Walshは、tDCSの研究で使われる方法は研究グループ間で異なっていることが多く、最適とは言えない場合もあるのではないかと述べる。
例えば、Maugerの研究チームが使ったかなり強い電気刺激は、時として脳の活動に複雑な、そして意図しない影響を与える場合があることが分かっている4。
このような実験を再現するのは、脳刺激に対する被験者の反応の仕方にばらつきがあるため難しい。全く反応しない人もいれば、ある方法で刺激されたときだけ反応する人もいるかもしれない。さらに、ある個人の反応ですら、日によって変わることもあり得る。Edwardsは、もしtDCSが治療やその他の目的で使われるなら、こうした相違を調べることは重要だと言う。「我々は脳刺激の個別化処方に向かって進んでいるのです」と彼は言う。
それにもかかわらず、スポーツでのtDCSの使用は増加する可能性が高い。例えば、運動野を刺激すると器用さが増すようで、テレビゲームをする人は素早くこの技術に飛びついた。しかも刺激装置を手に入れるのがどんどん容易になっている。ハロー社は、運動能力の改善という明確な目的を持つ装置を市場に出し始めているのだ。
Taylorは、運動選手が脳刺激を使用することは、彼らがレース前に持久力を上げるために炭水化物を摂取するのと似ていると言う。「脳刺激は学習能力に便乗しているだけなのです。人工的な何かを体内に入れているわけではありません」と彼は説明する。
しかしEdwardsは、tDCS装置が手に入るようになると、運動選手たちが「脳ドーピング」を試みるようになるのではないかと懸念する。その使用を検出する方法がないということが使用理由の1つとなる。「もしこれが現実になるなら、オリンピックでは脳ドーピングを考慮に入れておくべきです」と彼は述べる。
翻訳:古川奈々子
Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 6
DOI: 10.1038/ndigest.2016.160610
原文
Performance boost paves way for ‘brain doping’- Nature (2016-03-17) | DOI: 10.1038/nature.2016.19534
- Sara Reardon
参考文献
- Cogiamanian, F. et al. Eur. J. Neurosci. 26, 242–249 (2007).
- Okano, A. H. et al. Br. J. Sports Med. 49, 1213–1218 (2015).
- Noakes, T. D. Sports Med. 37, 374–377 (2007).
- Batsikadze, G. et al. J. Physiol. 591, 1987–2000 (2013).
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