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培地用寒天が足りない!

Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 3 | doi : 10.1038/ndigest.2016.160315

原文:Nature (2015-12-10) | doi: 10.1038/528171a | Lab staple agar runs low

Ewen Callaway

原料となる海藻の収穫量が減少し、微生物培養に欠かせない寒天培地の生産が危機的状態に陥っている。

テングサ | 拡大する

HelenL100/iStock/Thinkstock

微生物学における「ある必需品」が今、深刻な供給不足に陥っている。そしてその影響は、世界中の研究機関や公衆衛生研究所、臨床検査室にまで及ぶ恐れがあるという。

その必需品とは、海藻由来のゼリー状物質、微生物培養で使われる培地用の寒天だ。それが「世界的に減少している」のだと、海洋生物学者や寒天メーカー、業界アナリストは口をそろえる。世界シェア約40%を占めるスペインの寒天メーカー、インドゥストリアス・ロコ社(Industrias Roko S.A.;アストゥリアス州ジャネラ)の副社長Pedro Sanchezは、「十分な量の海藻がないため、残念ながら製造量を減らしている状況です」と話す。

この不足は、「原料となる藻類が過剰に収穫されている」という環境上の懸念から数年前に施行された、ある貿易規制に端を発する。これが実際、研究者たちにとってどこまで深刻なものになるのかは定かでないが、寒天の卸売価格はすでに、1kg当たり約35~45ドル(約4200~5400円)と史上最高値まで高騰している。これは、不足し始める前の価格の約3倍で、個々の研究者が製品として購入する際には、さらにこの何倍にも跳ね上がる可能性がある。

科学機器・用品の世界大手サプライヤーの1つ、サーモフィッシャーサイエンティフィック社(米国マサチューセッツ州ウォルサム)によれば、同社は2種類の「培地用寒天」(他の成分と混合されていない寒天)の販売を2016年まで停止したという*。より引き合いの多い、栄養成分入りの「寒天培地」を優先するためだ。同社は、影響を受けた顧客は約200件に上る、としている。別の大手サプライヤーであるミリポアシグマ社(米国マサチューセッツ州ビルリカ)も培地用寒天の販売を停止しており、2016年初めには商品の供給を見直すという*。

ミリポアシグマ社はこの寒天不足の原因を、精製寒天をめぐる食品業界との競争のせいだと考えている。菜食主義や宗教上の制約から動物由来のゼラチンを避ける人々にとって、海藻由来の寒天は非常に需要が高く、ゼラチンの代用として西欧諸国でも多くの製品に寒天が使われているのだ。年間数千tという食品メーカーの総需要量と比べれば、実験用品のサプライヤーに回ってくる900tはいかにも少ない。

価値ある材料

寒天は主に、アガロースとアガロペクチンという2種類の多糖類からなり、熱水に溶かして冷却するとゲル化して固体となる。栄養成分を添加した寒天でプレートを覆い、その上に細菌の懸濁液を塗布すると、個々の細菌細胞が増殖して別々のコロニーを作るため、異なる株を容易に分離することができる。このことから、寒天は微生物培養用の固形培地として微生物学者に重宝されている。

今回の寒天不足問題は、2015年11月にロンドン大学ユニバーシティカレッジ(英国)の微生物学者Adam Robertsが、一部の寒天製品の販売停止を伝えるサーモフィッシャー社の通知をツイートしたことで一気に注目を集めた。Robertsの研究室では、土壌微生物から新たな抗菌化合物を探す研究を行っており、寒天は不可欠だ。

Robertsは今回、どうにか別のサプライヤーから培地用寒天を調達して急場をしのいだが、このままでは使用を制限し、限られた量の寒天で成果が出せるよう、実験に優先順位を付けなければならなくなるかもしれないという。「そうなれば、とんでもない悪夢です」とRobertsは嘆く。Robertsの苦境を耳にした別の研究機関の微生物学者は、早速自分用の寒天を買いだめし始めた。「事態が深刻化して入手が困難になったら、みんな何をしだすか分かりません」とRobertsは懸念する。

寒天が培地として使用されるようになったのは1880年代のことだ。以来、それまで分離が不可能だった結核やコレラなどの病原性細菌が、寒天培地を使って分離されてきた。細菌学で利用されている寒天は、主に紅藻類テングサ属の海藻から生産されている。

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PEDRO SANCHEZ/INDUSTRIAS ROKO

テングサ属の海藻は海底の岩場に生育し、ふさふさした赤い葉状体からなる広大な水中草原を形成する。酸素や他の栄養素が絶えず供給される、低温で流れの強い環境を好むため、産業規模の養殖は不可能だ。「栽培は無理ですね。以前、やろうとして大金をつぎ込んだのですが」とSanchezは語る。テングサの収穫は、ダイバーが潜って海底から直接行ったり、潮で運ばれて岸に流れ着いたものを集める手法があるが、嵐で岸に打ち上げられたものを集めるのが最も一般的だ。

テングサが採れる地域はこの数十年で移り変わっている。第二次世界大戦前は日本が最大の産地だったが、ポルトガルが首位に立ったこともある。現在、寒天における世界最大の原料供給地はモロッコで、第2位はスペイン、その次にポルトガルやフランス、メキシコ、チリ、南アフリカ、日本、韓国が続く(「海藻の不足」参照)。

業界関係者によれば、現在の寒天不足の主な原因はモロッコ産テングサの供給不安だという。モロッコのテングサ収穫量は2000年代を通じて高い水準で推移し、最高で年間1万4000tに及ぶこともあった。そのため、国内外の寒天メーカーに十分に行き渡っていたといえる。しかし、過剰収穫によるテングサの個体数減少を懸念したモロッコ政府は2010年、年間の収穫量を約6000t、輸出量を約1200tに制限した。ただ、この制限措置が実際に運用されるようになったのは2014年になってからだとSanchezは言い、これは影響が今になって出始めたことと一致する。

ゴールドラッシュ

モロッコではテングサの収穫と輸出が規制されており、微生物研究に欠かせない寒天の世界的供給に影響が及んでいる。 | 拡大する

ABDELHAK SENNA/AFP/GETTY

リスボン大学(ポルトガル)の海洋生態学者Ricardo Meloは、「赤い金」として知られるテングサが、実際にモロッコの海岸で過剰に収穫されていた証拠があると語る。だが、保護の観点からすると、貿易規制にはほとんど意味がないという。事実、諸外国が深刻なテングサ不足に苦しんでいる中、モロッコ国内の市場には現在もテングサがあふれているのだ。これで得をしたのは、テングサを底値で買えるモロッコ唯一の寒天メーカーのみで、国外メーカーでは生産コストが大幅に増加している。

その結果、精製寒天をメーカーから購入して加工品を販売しているサーモフィッシャー社やミリポアシグマ社のような企業は、現在の法外な価格での寒天の購入を余儀なくされている、と話すのは、食品用親水コロイドの市場調査・コンサルタント会社であるIMRインターナショナル社(米国カリフォルニア州サンディエゴ)の代表Dennis Seisunだ。「もともとメーカーとの契約があったところは優遇されていますが、それでもまず必要量の全てはまかなえていないでしょうね」。

欧州委員会はモロッコ政府に対し、同国の輸出規制がEU各国との自由貿易協定に違反していると訴えたが、事態にほとんど変化はない。一方で、テングサの新たな供給源の見通しも暗い。北朝鮮沿岸には未開発のテングサ個体群が存在するが、「北朝鮮のような国で活動するのは容易ではありません」とSanchezはこぼす。

寒天代替物としては、別の種類の海藻から作られるカラゲニン(カラギーナン)などがあるが、ゲル化力が弱いため、残念ながら微生物の培養には適さない。寒天が実験室で使われ始める前、ドイツの先駆的な微生物学者ロベルト・コッホは、ジャガイモの切り口で細菌を分離していた。「コッホの時代までさかのぼってジャガイモを使う以外、現実的な代替策がないのです」とRobertsは語る。

(翻訳:小林盛方)

*訳註:いずれも2015年12月時点での情報。

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Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

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