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飛躍のときを迎えた量子シミュレーター

Nature ダイジェスト Vol. 10 No. 2 | doi : 10.1038/ndigest.2013.130224

原文:Nature (2012-11-15) | doi: 10.1038/491322a | Quantum leaps

Geoff Brumfiel

本格的な量子コンピューターが登場するのは、まだまだ先の話だ。その前段階として、量子系(量子システム)をシミュレーションできる機械があり、最近、それに対する関心がますます高まっている。

2012年7月、高エネルギー物理学者は、長らく探し求めていたヒッグスボソンをついに発見したと宣言した。ヒッグス粒子の発見は、この数十年間の科学的発見の中でも最大級の成果であり、実験に関与した数千人の研究者が得意になるのは当然だった。しかし、彼らより先に、別の形でヒッグス粒子を発見したチームがあった。

その数か月前、9人の物理学者からなる研究チームは、ルビジウム87原子の希薄な蒸気を絶対零度に非常に近い温度まで冷却し、レーザーを利用して、その原子を小さな格子状に整列させた。そして、温度を微調整して、原子を「相転移点」に近づけていった(相転移とは、例えば液体の水が固体の氷になるように、物質相が別のものに変わること。相転移点は、そのときの条件のこと)。相転移点に至る格子の中間状態をモニターしていた研究者たちは、異常なエネルギーの波がわずかな間だけ現れて、そして消えていくようすを観察した1。これは、数学的には、粒子衝突型加速器の中でヒッグス粒子が出現し、崩壊する様子をシミュレーションしたことに相当するのだ。

研究チームを率いたマックス・プランク量子光学研究所(ドイツ・ガルヒンク)の研究者Immanuel Blochは、「もちろん、これ自体は、ヒッグス粒子とは全然違うものです」と言う。少なくとも、ヒッグス粒子が3次元で動きまわるのに対して、この粒子は2次元でしか動きまわることができない。それでも彼は、この実験は素粒子物理学者の研究の役に立つと主張する。ヒッグス粒子の基礎にある複雑な場の量子論について、謎を見つけたり検証したりする新しい手段となるからだ。

このような実験は、「量子シミュレーション」という急速に発展しつつある分野に属している。この成果でBlochのチームは一気に分野の先頭に躍り出たといえる。量子シミュレーションを大雑把に説明すると、整然とした系(原子を整列させた格子など)を用いて、はるかに複雑な対象(新しい素粒子や高温超伝導体など)のモデルを作ることだといえる。こうした系の振る舞いをモデル化することは、手計算はもちろん、世界最速のスーパーコンピューターを使っても簡単ではない。

「量子コンピューター」は、複雑なモデルの作成から暗号解読まで、あらゆる問題を解決する画期的な方法として、30年以上も前から大々的に喧伝されてきた。その弟分とでも呼ぶべき物理学上の概念が、「量子シミュレーター」なのだ。いずれも、量子力学の法則に従って動作する能力については同じであるが、違いは計算能力にある。量子コンピューターが、あらゆるアルゴリズムを実行できる汎用マシンであるのに対して、量子シミュレーターは、解こうとする問題に合わせて製作しなければならない。また、今ある量子シミュレーターは制御が困難で、どんな問題でも扱える訳ではない。しかし、量子シミュレーターは量子コンピューターに比べて製作がはるかに容易であり、近い将来、ほかの方法では歯が立たない量子システム(量子系)の問題でも、いくつか解決できるようになるだろうと期待されている。

量子シミュレーターの基礎

量子物理学の世界には数多くの法則があるが、暗黙の了解事項もある。それは「注目してもらいたいと思ったら、そのアイデアがファインマン(Richard Feynman)に由来していると言えばよい」というものだ。

20世紀中期の最も偉大な理論物理学者ファインマンが、量子シミュレーションのアイデアを思いついたのは、1981年にマサチューセッツ工科大学(MIT、米国ケンブリッジ)で開催された学会の基調講演を依頼されたときのことだった2。彼は、コンピューターで物理学のシミュレーションを行う方法について話そうと決めると、ためらうことなく問題の核心に切り込んでいった。コンピューターは必然に従って動作するが、自然は根源的なレベルでは確率的に振る舞う。量子力学の法則によれば、粒子が1つの状態にあることはきわめてまれで、2つの状態の「重ね合わせ」として存在することがわかっている。そして、ひとたび観測が行われると、このパラドックスは統計法則に従って解消する。例えば1個の電子の「スピン」を観測すると、一方を向いている確率と、その逆を向いている確率は半々になる。

通常のコンピューターでプログラミングして、1個の電子の確率的な振る舞いに関するモデルを作るのは難しくない、とファインマンは言った。しかし、粒子は単独で存在するものではなく、量子系では、その確率はリンクすなわち「相関」している。このような相関がある場合、粒子の状態のあらゆる組み合わせを別々に計算する必要があるため、複雑性(計算量)は、指数関数的に増大する。3個の電子からなる系には8通り(2の3乗)の並べ方が考えられ、計算する必要のある確率は8種類である。しかし、300個の電子からなる系では、並べ方は2の300乗、つまり宇宙の全原子の数になってしまうのだ!

ファインマンは、基調講演の時間のほとんどを使ってこの難問の解決策を検討し、通常のコンピューターを使ってこの問題を解くのは容易ではない、という結論に達した。そして、1つの可能性を提案した。それは、確率を使って“思考”するコンピューターを製作することだった。ファインマンが「量子イミテーター」と呼んだそのマシンは、モデルを作ろうとする系に、非常によく似たものとなる。量子イミテーターは、すべての結果を計算する必要はなく、単に、確率の範囲を再現する。それは、1つの解の代わりに多くの解を与え、それぞれの解が実現する可能性から、複雑な系の振る舞いの確率的な描像を与えるようなマシンである。ファインマンは具体的な計算こそしなかったが、「ほとんどすべての量子系は、スピンなどを並べた小さな格子を使って、何から何まで全部シミュレーションできる」と結論付けた。

ファインマンが講演した時点では、彼が説明したような小さな格子は存在していなかった。量子系はきわめて壊れやすく、外界との相互作用は、ほとんどの場合、デリケートな相関を破壊してしまう。「シミュレーションを無事に終えられるだけの粒子間距離を保ちつつ、物理学者が解を取り出せるだけの相互作用ができる状態を作り出すこと」がポイントであり、その技術を開発するのに30年もの時間がかかったのだ。おかげで今では、複数の選択肢がある。Blochのグループは中性の原子を使っているが、第2の手法として、電場や磁場をレーザーと組み合わせて、ベリリウムなどの軽い原子のイオンをトラップしているチームもある。第3の手法は、超伝導超小型回路内の渦電流の制御を利用するもので、第4の手法は、顕微鏡サイズの導波管の中を動く光の量子(すなわち光子)を利用するものだ(「量子のボードゲーム」参照)。

いずれのタイプの量子シミュレーターも、その性能はめざましく向上している。2012年4月には、米国立標準技術研究所(コロラド州ボールダー)のJohn Bollingerが率いるグループが、トラップされたイオンを数百個も2次元的に整列させたシステムで、ある種の量子磁性をシミュレーションできることを実証した3。Bollingerによれば、彼らの量子シミュレーターは、弱い磁場についてはうまく機能しているようだ。けれども、弱い磁場なら、すでに古典的なコンピューターでモデル化できている。そこで彼は今、このシミュレーターを改良して、現時点で最も強力なスーパーコンピューターでも不可能な、強い磁場のシミュレーションができるようにしたいと考えている。

一方Blochは、中性原子を使ったシミュレーターで、ヒッグス粒子以外のシミュレーションもやってみたいと考えている。例えば、格子状に整列したルビジウム原子は、高温超伝導体のモデル作りに利用できるかもしれない。これらの材料は複雑で、電気抵抗なしの超伝導電流は、金属超伝導体よりはるかに高い温度で流れるが、そのメカニズムは四半世紀以上も不明のままである。理論家たちはさまざまなモデルを考案してきたが、それらを検証できずにいる。超伝導体中の電子を単離して調べることが、非常に難しいからだ。そこでBlochは、電子の代わりに原子を使って、これを検証したいと考えている。交差するレーザー光線の強度を変えることによって、格子中の一点にある原子を別の点までトンネルさせるのだ。このようすは、高温超伝導体の原子が作る格子の中を、電子が動き回るようすによく似ている。したがって、少なくとも高温超伝導理論のいくつかは、Blochのセットアップで検証できるはずである。

量子シミュレーターは、量子系というジャンルを超えて、膨大な計算が必要になる問題、例えばタンパク質の折りたたみ問題などのモデル化にも、広く利用されるかもしれない。最近それを実現したのが、D-Wave Systems社(カナダ・バーナビー)とハーバード大学(米国マサチューセッツ州ケンブリッジ)の研究チームだ4。彼らは、1個の超伝導チップ上にある128個の電流ループからなる量子系に、タンパク質の折りたたみ問題を数学的にマッピングした。個々の電流ループは、時計回りか、反時計回りか、その両方の重ね合わせの向きに回っている。

このシステムの性能は低く、実験で決定した正解を導き出せたのは、試行1万回のうちのわずか13回だけだった。それでも、ハーバード大学の理論化学者で、この論文の共著者であるAlan Aspuru-Guzikは、「それができたこと自体が、驚くべきことなのです」と強調する。

目標の変更

技術は進歩したが、現在ある量子シミュレーターは、ファインマンの「汎用」量子コンピューターすなわち、どんな量子アルゴリズムでも実行でき、考えうるかぎりの量子系をシミュレーションできる本格的な量子コンピューターと比較すれば、へたな真似事レベルにすぎない。ファインマンの講演以来、研究者たちは量子コンピューターの応用可能性を模索してきた。

おそらく、最も重要な研究は1994年に行われたもので、現在はMITに所属する数学者のPeter Shorが、量子コンピューターを強力な暗号解読機として機能させるためのアルゴリズムを発表したことだった5。この研究がきっかけとなり、ほかの種類の量子アルゴリズムが発表され、また、多くの科学者(と複数の情報機関)が量子コンピューティングの探究に加わり、量子コンピューターの開発が盛んに行われるようになった。

しかし、強力な汎用量子コンピューターを製作するのは容易ではないことも判明している。ファインマンが考えたコンピューターは、数千個、ひいては数百万個の原子を同時に制御できるものであったが、現在のシステムの大半は、規模と制御の間にトレードオフ関係がある。例えば、Blochのシステムでは、レーザー格子に数十万個の原子を保持できるが、こうした原子の量子状態を個別に設定することはできない。これに対して、トラップしたベリリウムイオンを使ったシステムは、個々の原子をもっとよく制御することができるが、高い精度で管理できる原子は、ほんの数個なのである。そのうえ、デリケートな量子状態を破壊する外界からの擾乱の問題がどこにでも出てきて、ごく小さな衝突が計算ミスを誘発してしまうのだ。

このように、現在のシステムは理想からあまりにもかけ離れている。それもあって、かつては目標のための足がかりと見られていた量子シミュレーターが、今では立派な1つの目標となっているわけだ。量子シミュレーターは、量子コンピューターほど大規模である必要がない。何より重要なのは、シミュレーションの答えがすべての原子の平均としてコード化されるため、外界からの擾乱に強いと考えられることである。

マックス・プランク量子光学研究所の理論家Ignacio Ciracは次のように言う。「量子コンピューターでは、どの粒子にも間違いが起きないようにしなければなりません。しかし、量子シミュレーションでは、100個の粒子があって1個が間違っていたとしても、99個はまだ正しいのです」。

この現状を、20世紀半ばになぞらえる人もいる。その当時、Vannevar Bushのような科学者たちは、抵抗やコンデンサーから作ったアナログコンピューターの実験を進めていた。マシンは、特定の問題、あるいは特定のタイプの問題に合わせて製作され、入力信号に対して一連の単純な演算を実行した。中には数学の計算ができるマシンさえあった。

プログラムできるようにトランジスタを組み合わせ、事実上、どんなプログラムでも実行できるデジタルコンピューターに慣れ親しんだ現代人には、こうしたアナログマシンは取るに足りないものと見えるであろう。しかし、MITの理論物理学者で、エンジニアでもあるSeth Lloydは、アナログコンピューターは、そのアーキテクチャーに合った応用に限れば、高速で安定していて非常に有益なマシンだったと指摘する。例えば、機械を制御するのが非常に得意だった。「アポロ計画で使われたサターン月ロケットの制御回路は、すべてアナログだったのですよ」とLloydは言う。

量子シミュレーターは、アナログコンピューターと同様、その構成部品と密接に関連しているため、本当の量子コンピューターほどの柔軟性はない。けれども、量子シミュレーターの可能性を信じるLloydは、複雑な量子系の問題の中から、アナログコンピューターにとっての月ロケットのような得意分野がまだ見つかっていないだけだ、と考えている。

例えば、マイクロプロセッサーがさらに小型化され、新しい材料が分子レベルで設計されるようになると、量子効果はますます重要になってくる。そうなると、設計者が材料の振る舞いを理解し、予測できるようにする量子モデルに対して、ニーズは劇的に高まるはずだ。量子シミュレーターは、そうした要求の一部に応えることになるだろうとLloydは予想する。「実際、量子シミュレーターを利用して、各種の特殊な事例が検討されているようです。そうした事例はどんどん増えているようです」と彼は言う。

Aspuru-Guzikは、その1つとして光合成を思い描いている。植物の葉に当たった光は、正負の電荷の対を作る。これらの電荷は長距離を移動して反応中心に到達し、そこでエネルギーを作るために使われる。ここで、正負の電荷の対は、量子力学の法則に従って移動している可能性がある。一部の研究者は、電荷の対の集合的な波動関数が葉の内側の光を吸収する発色団分子に広がることで、電子の対が古典的な方法よりも効率よく移動できるようにしているのではないか、と考えている(Nature 474, 272-274; 2011参照)。

Aspuru-Guzikやほかの研究者らは、量子シミュレーターは、この反応がどのように起こるかを正確に解き明かすのに役立つだろうと考えている。光合成には量子的要素と古典的要素の両方があるため、Aspuru-Guzikはこれを「汚れた量子システム」と呼んでいる。そして、超伝導電流ループを並べたものが、そのモデルを作るのに最適かもしれないと彼は言う。こうしたループも外界からの雑音の影響を受けやすいからだ。しかし、それさえも容易ではなさそうだ。Aspuru-Guzikは、光合成のような反応のシミュレーションには量子ビットが数百個は 必要であり、そのようなシステムが実現するのは、早くても10年後だろうと予想する。

実際に量子シミュレーターの開発に取り組んでいる科学者たちは、もっと控えめだ。彼らの多くは、自分の量子シミュレーターが信頼度の高い結果を出せることを証明するため、まずは、従来のスーパーコンピューターで計算できるような問題のモデル化から始めている。そこから徐々に、原子や電流のループやその他の小さなユニットへと発展させて、最終的に、スーパーコンピューターでは扱うことのできないところまで行きたいと計画している。

メリーランド大学カレッジパーク校(米国)の物理学者Chris Monroeは、「我々が提供するモデルは、実際の材料には対応していないかもしれません。けれどもある意味、そんなのはどうでもいいことなのです」と言う。新しいシステムは、超伝導体やヒッグス粒子のような振る舞いを示さなかったとしても、従来のコンピューターではわからなかったことを1つか2つ教えてくれる可能性がある。

Monroeらは、今後、さまざまなものをモデル化する量子シミュレーターが製作されるようになる、と信じている。例えば低温の原子では、超伝導体のシミュレーションしかできないかもしれないが、イオンなら磁性を扱うことができる。それでも、どんなに工夫してもシミュレーションできない量子システムは残ってしまうだろう。

量子シミュレーターの応用可能性は、ファインマンの汎用量子マシンに比べると、かなり見劣りするかもしれない。それでも、量子シミュレーターへの関心はますます高まっている。「特に10年ほど前に量子コンピューティングのアイデアをばかにしていた物理学者の多くが、今や、それを受け入れつつあるのです」とMonroeは言う。さほど大胆でないぶん、実現の可能性が高いと見られているのではないか。

「人生からレモンをもらったら、レモネードを作ればよい」という英語表現がある。レモンはすっぱいが、砂糖を加えて作ったレモネードは甘い、つまり逆境は工夫次第で乗り切れる、という意味だ。これをもじってLloydは、「量子のレモンをもらったら、量子のレモネードを作ればよいのです」と言う。つまり、量子コンピューターほど優れていなくても、「レモネードがおいしくて気分を爽快にしてくれるなら、すばらしいことではありませんか」というのだ。

(翻訳:三枝小夜子)

Geoff Brumfielは、Nature の上級記者である。

参考文献

  1. Endres, M. et al. Nature 487, 454-458 (2012).
  2. Feynman, R. P. Int. J. Theor.Phys. 21, 467-488 (1982).
  3. Britton, J. W. et al. Nature 484, 489-492 (2012).
  4. Perdomo-Ortiz, A., Dickson, N., Drew-Brook, M., Rose, R. & Aspuru-Guzik, A. Sci. Rep. 2, 571 (2012).
  5. Shor, P. W. SIAM J. Comput.26, 1484-1509 (1997).

キーワード

Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

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