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反物質をトラックで実験室外に輸送しようとする試み

PUMA実験では、反陽子をCERNのAntimatter FactoryからISOLDE施設まで運ぶことが計画されている。 Credit: Maximilien Brice/CERN (CC-BY-4.0)

CERNの2つの物理学者チームが、競い合って驚異的な偉業を成し遂げようとしている。反物質が初めて輸送されることになりそうだ。物質の鏡像である反物質は、物質と接触すると瞬時に消滅してしまい、作製が困難で、極めて寿命が短い。一方のチームは、より高い精度で研究するために反物質の輸送を望んでいる。もう一方のチームは、この種の実験としては初めて、物質を調べるために反物質を用いるという。

「これが可能ならば、膨大な機会が開かれるでしょう」と、ブルックヘブン国立研究所(米国ニューヨーク)の物理学者James Dunlopは言う。彼は、反物質をナノ秒スケールで観測する研究に関わっている。

どの物質粒子にも、同じ質量だが反対の電荷を持つ反物質粒子が存在する。物理学者らは、ビッグバンのときに反物質と物質が同じ量だけ創られたと考えている。ところが、現在の宇宙は圧倒的多数の通常の物質でできているように見える。これが謎なのである。

反物質は、1 g作るのに何兆ドルもかかるため、地球上で最も高価なものだと考えられている。欧州の素粒子物理学研究所であるCERN(スイス・ジュネーブ郊外)は、反粒子を消滅させずに捕獲、貯蔵、願わくば輸送できるほどゆっくり作ることができる世界唯一の場所だ。CERNの2つのプロジェクトPUMA(反陽子不安定物質対消滅)とBASE-STEPは、おそらく2025年後半に、反物質を他の実験室に輸送することを目指している。

反物質を届ける

各チームが、反物質を持ち出そうとしている目的は異なる。BASE-STEPは、実験雑音がない場所に反陽子(陽子の反粒子)を移動させて、そこでより詳細な調査を行いたいと考えている。PUMAは、別の短寿命物質が作られる施設に反陽子を輸送し、反陽子を用いてその短寿命物質の原子核構造を調べようと計画している。

各プロジェクトの初めての輸送旅行は所要時間わずか数時間の予定で、CERNの敷地内でのみの移動である。だがゆくゆくは、いずれのチームも、欧州中の大学までもっと長期間の運搬旅行を実施して、より多くの研究室に反物質を用いた実験の機会を提供したいと望んでいる。BASE-STEPは、チームの一部が拠点とするハインリッヒ・ハイネ大学(ドイツ・デュッセルドルフ)まで、反陽子をおよそ700 km輸送することを目標としている。

この種のデリバリーサービスは「反物質の使用や研究を民主化するだろう」と、ダルムシュタット工科大学(ドイツ)の物理学者で、PUMA実験の設計者でもあるAlexandre Obertelliは言う。

反陽子を閉じ込める

運搬中の反陽子の保存に必要な特殊な「トラップ」の作製には、数年を要した。2024年10月、BASE-STEPはリハーサルを行い、通常の物質をそのトラップに入れ、トラックの荷台に載せて輸送した。そしてPUMAチームは同年12月に、空のトラップをダルムシュタット工科大学の作製場所からCERNまで送る予定である。そこで、トラップに反陽子を封入してテストを開始するという。

反物質を輸送するためには、反物質を磁気「瓶」の中で浮かせて冷却しなければならない。これには、超伝導磁石で反陽子を適切な位置に保ち、側面に接触せず浮揚させる必要がある。磁石だけでなく、反陽子を4ケルビン(−269℃)という極低温に維持する冷却システムにも、可搬式発電機で電力が供給される。液体ヘリウムは、予備の冷却剤としての役割を果たすという。

おそらく最大の難題は、反物質が漂遊粒子と衝突して消滅することを避けるために、高真空を維持することだろう。この高真空状態は、反物質を外に出す、あるいは他の物質をトラップ内に入れて実験を行うシステムを構築しながら維持しなければならない。キットは全て可搬式でなければならず、道中の力や振動に耐えるよう改造する必要がある。「確実に実現可能だと思います。難しいだけです」とDunlopは言う。

反物質の輸送の仕方に関する正式な規制はまだ存在しないとObertelliは言う。作家ダン・ブラウンは、2000年の著書『天使と悪魔(Angels and Demons)』で、テロリストがCERNから0.25 gの反物質を爆弾として使用するために盗み出すことを描き、反物質の危険性について懸念を提起した。だがObertelliは、心配することはないと言う。PUMAが運ぼうとしている全ての反陽子が一度に消滅したとしても、放出されるエネルギーは、テーブルの高さから鉛筆を落としたときの衝撃と同じくらいだろうと彼は言う。「爆発はしません」。

CERNは、反陽子減速器(Antiproton Decelerator)の中で反物質を作っている。陽子のビームを金属標的に激突させると、高速で移動する反陽子のスプレーが形成される。減速器は、磁石、電場、他の冷却方法を用いてこうした反陽子を減速させる。この施設を拠点とする6つそれぞれの実験において、反陽子が減速され、捕獲される。世界中の他の研究所でも、例えば粒子衝突時に反陽子が形成されるが、CERNは、貯蔵して詳しく調べるために使用できる粒子源を作っている唯一の場所である。

存在に対する問い

BASE-STEPを構成プロジェクトとするBASEコラボレーションは、CERNで反物質を研究しているいくつかのグループの1つである。BASE-STEPチームは、単一の反物質粒子の特性を測定し、物質の特性と比較している。なぜ物質と反物質が同じだけ創られなかったのか、なぜビッグバンの直後に全て一掃されてしまったのか、といった謎を説明できるような違いを探求している。

「なぜ私たちが存在しているのか理解しようとしています」とCERNを拠点とするBASE-STEPのメンバーであるBarbara Maria Lataczは言う。実験は、実際のところ大きな加速器の中で行われており、これが漂遊磁場の背景雑音を創り出す。チームは、反陽子を「静かな」場所に連れ出すことによって、測定の精度を向上させたいと考えている。「それがゲームチェンジャーになるでしょう」とLataczは言う。

BASE-STEPは、数個の粒子しか調べないため、約1000個の反陽子を搭載する1トン級の実験装置で輸送することを計画している。一方、PUMAは10億個という、もっと多くの反陽子を必要としている。PUMAの研究者らは、CERNのISOLDE施設に反陽子を輸送して、そこで、非常に急速に崩壊するため輸送もできないような、まれな原子核を研究できればと考えている。

原子核を見抜く

こうした原子核をPUMAトラップに注入することによって、PUMAのチームは、反陽子が陽子や中性子と共に消滅する現象を観測できるだろう。これによって、原子核の構造に関するユニークな知見、特に、一部の同位体に形成される中性子スキンについての情報が得られる可能性がある。「これが、この領域に非常に敏感な唯一のプローブとなるのです」とObertelliは言う。「それは測定がとても難しいのです」。

PUMAの反陽子数の多さと、同位体を注入して消滅を検出するのに必要な装置は、BASE-STEPよりもはるかに大きいトラップシステムが必要なことを意味し、その装置一式の重量は10トンに達する。大型トラックは、ISOLDEまで曲がりくねった1.5 kmの道を走行しなければならない。直行路には急カーブがあり、弱くて車両の重量を支え切れない橋があるからだと、Obertelliは言う。

両チームがいくつかの技術を1つの実験に結集しつつ「技術を限界をまで高めなければなりません」と、カナダの素粒子物理学センターであるTRIUMF(バンクーバー)の実験物理学者Ina Carliは言う。彼女は、CERNのALPHA実験の一環として反水素を研究している。途中の小さなミスが反陽子を失うことにつながり、再試行に数週間かかることになるだろうと彼女は言う。

「反陽子の輸送はまだ何年も先のことだといつも考えていました」とCarliは言う。「本当に楽しみです。うまくいくように願っています」。

翻訳:藤野正美

Nature ダイジェスト Vol. 22 No. 3

DOI: 10.1038/ndigest.2025.250320

原文

Antimatter to be transported outside a lab for first time — in a van
  • Nature (2024-11-26) | DOI: 10.1038/d41586-024-03841-0
  • Elizabeth Gibney