初期の査読の舞台裏
1953年にCrickとWatsonのDNAの構造に関する論文の査読を依頼された化学者のDorothy Hodgkinは、簡潔極まりない査読報告書を書いた。 Credit: Daily Herald Archive/National Science & Media Museum/SSPL via Getty
英国王立協会(ロンドン)は200年近く前からその学術誌に査読を導入しており、大抵の出版社よりも豊富な査読経験を持っている。2024年9月、同協会はそれまで公開していなかった1949年から1954年までの1600点以上の歴史的査読報告書の封印を解き、アーカイブに追加した。これらの査読報告書の中には、有名な論文を評価したものも含まれている。
王立協会のデジタル情報資源マネジャーであるLouisiane Ferlierによれば、査読システムを最初に確立した学術誌は同協会のPhilosophical Transactionsであるという。「科学誌の中で、これほど大規模なアーカイブを持つものは他にありません」。
とはいえ、査読の形式が正式に定まったのは1970年代になってからで、初期の査読は、今日の科学者が知っているものに比べてはるかに砕けたプロセスだったと彼女は言う。「初期の査読報告書の中には、査読者の休暇やその他の近況についての知らせが記されているものもあります」。
こうした過去のやりとりから、査読についてどんなことが分かるだろうか? Ferlierは、「査読システムがうまく機能しているときには、著者は自分の研究結果をより効果的に発表することができます。匿名性によって言説が中立的になり、科学者同士が忌憚のない意見交換をすることができる、特別な時間になります」と言う。
「査読システムがうまく機能していないときには、偏見のある、あるいは効率の悪い品質管理となり、科学知識の普及は遅くなります」とFerlier。
査読の進化の過程を探るため、Natureはアーカイブをくまなく調べた。
査読報告書の長さはいろいろ
王立協会は1950年代には、査読者に対して、その研究には「科学的関心に値する知識への貢献」があるかどうか、協会はそれを出版すべきかどうか、などの定型的な質問に回答してもらう方式をとるようになっていた。
このような質問の仕方は、重要な研究に対してもそっけない回答をさせる可能性があった。同協会が1953年にFrancis CrickとJames WatsonのDNAの構造に関する完全な論文の査読を化学者のDorothy Hodgkinに依頼したとき、彼女は査読報告書にわずか50語しか書かなかった。この論文は1954年4月にProceedings of the Royal Societyに掲載された1。
Hodgkinは、一連の定型的な質問に対しては全て「はい」や「いいえ」など一言で回答し、コメントとして、写真のアクリル棒に椅子が映り込んでいるのが紛らわしいので「タッチアップ」してはどうかとだけ著者らに提案している。これは、現代のカメラが日常的に行っている技術的な修正だ。CrickとWatsonは、彼女の助言に従ったようである。
アーカイブには長文の査読報告書も散見され、その多くが手書きである。1877年には査読者のRobert Cliftonが、光学に関する2本の論文に対する24ページの査読報告書を、「こんな途方もなく長い手紙を書いてあなたを煩わせた私に憎しみを感じていらっしゃるかもしれません。次にお会いする頃には、あなたの怒りが和らいでいることを願っております」という謝罪の言葉で締めくくっている。
Ferlierは、定型的な質問が導入された結果、査読者の時間と労力を大幅に減らすことができたと言う。「19世紀から20世紀初頭にかけては、査読は本物の議論であるという認識があったのです。その後、査読は学術誌に押し寄せてくる論文に対処するための手段となりました」。
先入観でいっぱいの査読者
左:Robert Cliftonによる長文の手書きレポートの最初のページ。 右:物理学者Shelford Bidwellによる短くも辛辣なレビュー。 Credit: ©The Royal Society
論文の著者が誰であるかを査読者に知らせない「ダブルブラインド査読」の支持者にとっては、このアーカイブは良い根拠になるだろう。初期の査読者の多くが、著者の人となりや自分と著者との関係に言及しているからだ。
数学者James Oldroydが1950年に書いた「異方性弾性連続体」に関する論文について、地球物理学者のHarold Jeffreysは、「私は著者をよく知っているので、その分析の正しさを確信している」と記している。
対照的に、物理学者のShelford Bidwellは、1900年の「色覚」に関する論文の著者について、遠慮のない表現で批判している。Bidwellは著者のFrederick Edridge-Greenに実験装置を貸していたが、査読報告書には、「私は彼の新しい論文がばかげたものになるだろうとは思っていたが、まともな人間なら他の意見を持つことなどあり得ないほどばかげていた」と書いている。
コンピューターが招いた不和
王立協会が1831年に、ある論文について査読者たちに意見を求めたとき、最初の2人の査読者は、その論文の価値と出版の是非について、大きく異なる意見を述べた(結果的に論文は出版された)。
同協会のアーカイブは、数学者Alan Turingによる「形態形成の化学的基礎」に関する1951年の論文2についても、同様の行き詰まりがあったことを明らかにしている。Turingはこの論文で、生物学分野の新しい手法として、コンピューターの使用を含む数学的モデル化を提案していた。
科学者のJ. B. S. Haldaneはこの論文に対して、「私は、数学以外の部分は全て書き直すべきだと考える」と否定的な評価を下した。より肯定的な意見を寄せたのは、Charles Darwinの孫である物理学者のCharles Galton Darwinで、「この論文は数理形態学の可能性を生物学者に知らせるものであり、印刷する価値は十分にある」と述べている。
とはいえDarwinは、反応拡散波理論のシミュレーションに「デジタルコンピューター」を使用するというTuringの提案については、「このような単純な目的のために機械を使うのは大袈裟である」と批判している。
当時は、査読プロセスによって自分の論文が台無しにされたと感じる科学者が多く、この雰囲気に勇気づけられたTuringは両者の意見を無視したようだ。
査読者がコスト削減に協力
査読は科学的記録の質を保つものであるべきだという考え方は、実は現代的である。
王立協会のアーカイブは、査読を導入するもう1つの、あまり高尚ではない理由を示している。それは、学術誌のコスト削減への協力だ。19世紀後半以降、査読者たちは、高騰する印刷コストへの配慮を求められ、論文の一部や図表に冗長なものはないかと質問されている。
1943年にショウジョウバエ(Drosophila)の生殖能力に関する論文を査読したHaldaneは、著者らに対して、図表や考察の一部だけでなく、ハエの研究で知られる、ある生物学者への短い賛辞まで削除するよう提案している。著者らはその提案を全て受け入れた。
地政学が出版に及ぼした影響
今日の学術誌も、係争中の領土が描かれた地図を掲載することには慎重であるが、1940年代には、地政学の影響ははるかに深刻だった。第二次世界大戦の前後には、王立協会は査読者に対して、科学論文が何らかの形でナチスを利する可能性はあるかという質問を新たに追加していた。
多くの論文が敵にとって価値のないものであることは明らかだった。けれども一部の研究は懸念を呼び、しばしば軍事専門家に照会された。リーズ大学(英国)の流体力学の研究者であるSelig Brodetskyは、1939年に航空機の運動に関する論文を投稿したが、戦争が始まると、論文の出版は戦争が終わるまで延期されると告げられた。
Brodetskyはその決定に従ったが、政府のプロジェクトのために同僚と共有したいとして、機密扱いになっていた自身の論文のコピーを6部要求した。彼はここで、「もちろん、権限のない者の手に渡ることがないよう、あらゆる予防措置を講じます」と約束している。
翻訳:三枝小夜子
Nature ダイジェスト Vol. 22 No. 1
DOI: 10.1038/ndigest.2025.250111
原文
The early days of peer review: five insights from historical reports- Nature (2024-10-15) | DOI: 10.1038/d41586-024-03287-4
- David Adam
参考文献
- Crick, F. H. C. & Watson, J. D. Proc. R. Soc. Lond. A 223, 80–96 (1954).
- Turing, A. M. Phil. Trans. R. Soc. Lond. B 237, 37–72 (1952).
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