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ドーピングは阻止できるか

Credit: T. DE WAELE/TDWSPORT.COM/CORBIS

その瞬間、Borut Božičは胸の上で両手を重ね合わせた。2011年6月、自転車ロードレース、ツール・ド・スイスの第5ステージで優勝したときのことだ。世界トップクラスの選手たちに競り勝った彼の顔には、歓喜と驚きと疲労の表情が浮かんでいた。この優勝により、30歳のスロベニア人選手は、4000ユーロ(約44万円)のボーナスを獲得しただけでなく、最も権威あるロードレース、ツール・ド・フランスへの出場をぐっとたぐり寄せた。

ステージ優勝した選手は、小さな医療トレーラーに行くことになっている。Božičはそこで、ほかの3選手とともに、2本の小さな容器に採尿した。容器は密封され、誰の検体かわからないようにされたうえで、スイス・ドーピング分析試験所(ローザンヌ)に送られた。そこで、ステロイドや興奮薬のほか、赤血球増加作用のあるエリスロポエチン(EPO)という薬物の痕跡がないかどうか検査されるのだ。

プロの自転車競技の世界では、こうした検査は至極一般的なものになっている。しかし、ドーピングスキャンダルは数十年前から途切れることがなく、検査をしても、ドーピング違反を防げる保証にはならない。なにしろ、近年のツール・ド・フランスの総合優勝者で、ドーピング疑惑が持ち上がらなかった選手の名を挙げるほうが難しいほどなのだ。2010年に総合優勝したAlberto Contadorは、クレンブテロールという禁止薬物の陽性反応が出た。彼は汚染された肉に由来するものだと主張しているが、今後、スポーツの国際最高裁判所ともいえるスポーツ仲裁裁判所(ローザンヌ)の公聴会が開かれ、優勝タイトルを剥奪される可能性もある。また、ツール・ド・フランスで7回優勝しているLance Armstrongも、ドーピングに関して米国司法省の捜査対象となっていることが2010年に明らかになった。しかし、Armstrongは、ドーピングをしたことはないと主張しているし、これまで一度もドーピング検査で陽性反応が出たことはない。ますます巧妙化するドーピングの手口に、アンチドーピングに取り組む研究者たちは、絶望的な追いかけっこをしているような気分になっている。「まさにいたちごっこです」と、ドーピング分析試験所所長Martial Saugyは言う。

それでも、追いかけっこのペースを少しでも遅くしようと、Saugyのチームは、新しいタイプのアンチドーピング検査を開発した。それが生体パスポートである。生体パスポートは、運動選手の尿中に含まれる微量の薬物やその分解産物を探す代わりに、個人の生化学的プロフィールを長期にわたって作成し、ドーピングを示唆する変化を見つけようとするものだ。

Saugyの研究室と国際自転車競技連合(UCI;本部スイス・エグル)は、2008年から今日までに、数百人のプロの自転車選手の生体パスポートを作成した。すでに数十回の採血データを記録されている選手もいる。ほかの競技団体も、UCIのこの試みを参考にしようと注視している。ある研究者は、生体パスポートはEPOに対する最も有効な抑止策になると言う。EPOは過去20年にわたって検査官を悩ませてきた。このほか、ステロイドや成長因子を使ったドーピングを発見するための生体パスポートも開発中だ。この技術は、2012年のロンドンオリンピックでお目見えするかもしれない。一方で、研究者や選手の中には、生体パスポートを導入してもドーピング違反をなくすことはできないだろう、と言う者もいる。

かつてプロの自転車選手として活躍したアメリカ人Floyd Landisは、2010年5月に、スポーツニュースサイトESPN.comで「生体パスポートは子どもだましのようなもの」と語った。Landisは2006年のツール・ド・フランスで総合優勝したが、ドーピング検査でステロイド陽性反応が出て、タイトルを剥奪された。そこで、無実を訴え処分の取り消しを求める裁判を起こしたが、2008年にタイトルの剥奪と競技停止処分が確定し、貴重なアスリート人生の4年間を棒に振った。しかしその後、一転して自分がドーピング常習者であったことを認めた。Landisは、プロの自転車選手たちは生体パスポートの導入前からすでにごまかす方法を知っていると言う。しかしそうだとしても、生体パスポートは実際、ドーピング違反者を発見しており、(短期間だけかもしれないが)検査官を有利にしている。Saugyは、「生体パスポートの導入にはドーピング違反を減らす効果があると思います」と言う。

いたちごっこ

アンチドーピングの取り組みは、1960年のローマオリンピックの後から本格的に始まった。きっかけは、自転車競技のチームタイムトライアルの際に、デンマークの23歳の選手Knud Enemark Jensenが倒れて頭蓋骨を骨折し、死亡したことだった。剖検を行ったところ、微量のアンフェタミンと血管拡張薬が検出されたのだ。これらの薬物が彼の直接の死因となったのかどうかは不明だが、この事故の後、自転車競技団体はドーピングの監視を強めた。UCIは競技能力の向上に効果のある物質の使用を禁止し、1967年には国際オリンピック委員会(IOC)が医事委員会を発足させて、スポーツにおけるドーピングを摘発することになった。

アンチドーピング機関の仕事が報われることはない。1つの違反行為を阻止しても、新たな違反行為が現れるだけだ。1972年にドイツで開催されたミュンヘンオリンピックでは興奮薬の検査が始まったが、選手たちはすでにアナボリック・ステロイド(筋肉増強剤)を用いるようになっていた。カナダのモントリオールで開催された次の夏季オリンピックでは、ステロイドの検査が始まった。しかし、その4年後のモスクワオリンピックでは、選手たちは、テストステロンなど、従来の検査では検出不可能な天然のホルモンを用いるようになっていた。アンチドーピング機関は現在、血液中のテストステロンと、その関連分子であるエピテストステロンの比率を測定することで、体外からのテストステロンの摂取の有無を調べている。しかし、一部の選手は、エピテストステロンの量を調節して、問題の比率を正常範囲にとどめる方法を見いだしたといわれている。

自転車競技をはじめとする持久力が必要なスポーツについては、ヒト組み換えEPOがドーピング革命を引き起こした。EPOは天然のホルモンで、酸素を運ぶ赤血球の生成を促進する。同じ効果のある輸血よりも手軽に利用できる利点もあった。最初の組み換えEPOはAmgen社(米国カリフォルニア州サウザンドオークス)というバイオ企業により開発され、1989年に貧血治療薬として米国食品医薬品局(FDA)の承認を得た。だがこれは、自転車選手にとっては、過酷なレースを勝ち抜くための持久力を手軽にアップさせる手段となった。組み換えEPOは、腎臓で自然に合成されるホルモンとほとんど同じで、当時、検出は不可能だった。

「1990年代と2000年代には、非常に容易に、大量のEPOを使用することができました」とSaugyは言う。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(米国)でアンチドーピングの研究室を運営していた薬理学者のDon Catlinは、ぞっとするようなことを言う。「当時の自転車選手は全員、ドーピングをしていました」。

EPOは直接測定することができないため、自転車競技のドーピング検査機関は、ヘマトクリット値という間接的な測定値に着目した。ヘマトクリット値とは、血液中の赤血球の容積の割合を示す値である。通常、赤血球は全血液の40~45%を占めている。しかし、EPOドーピングの最盛期には、一部の選手は、ヘマトクリット値が60%以上の状態でスタートラインにやってきた。ドーピング分析試験所で生体パスポートの開発チームを率いていたNeil Robinsonによると、こうした選手たちの血液はどろどろで、レース前に倒れてしまうほどだったという。そこでUCIは「ノー・スタート」ルールを定め、レース当日の朝のヘマトクリット値が男子選手で50%以上、女子選手で47%以上ある場合には失格とした。ところが、選手らはヘマトクリット値を規定値以下にするために、EPOで赤血球を増やした血液を生理食塩水で薄めるようになった、とRobinsonは言う。

その後、アンチドーピングの研究者たちは、EPOを製造する製薬会社の協力を得て、組み換えEPOと天然型EPOの微妙な生化学的差異に基づく直接的な検査法を開発し、最初のものは2000年に使用が承認された。しかし、しだいに、中国やインドで製造されている、わずかに構造の異なる模造品を入手する選手が増え、問題になってきた。「その解決策が生体パスポートなのです」とRobinsonは言う。

生体パスポートが具体化し始めたのは、RobinsonとSaugyがボランティアを対象にEPOドーピングの臨床試験を開始した1999年のことだった。「すぐに、EPOの効果には非常に大きな個人差があることがわかりました」とRobinsonは言う。例えば、ある被験者ではこのホルモンに反応して網状赤血球という幼若な赤血球の濃度が急激に上昇するのに対して、別の被験者ではほんのわずかしか上昇しないのだ。研究者たちは、各選手のレース時の測定値を一般集団の測定値に基づく幅広い値と比較するよりも、各選手のデータを長期にわたって蓄積し、異常な変動がないかどうかチェックするほうがよいことに気付いた。つまり、一般集団ではなく自分自身を対照として測定値を比較するのである。

現在の生体パスポートは、赤血球のいくつかのデータ(ヘマトクリット値、赤血球中のヘモグロビンというタンパク質の濃度、網状赤血球の割合など)の電子記録からなる。各選手は、レースの有無にかかわらず定期的にサンプルを採取されている。そして、性別やサンプルが採取された場所の標高(空気が薄い場所では赤血球の産生が促進される)などの因子を考慮に入れた統計モデルを用いて、その選手の血液プロフィールが異常である確率が判定される。「このモデルは、その選手がドーピングをしたかどうかではなく、測定値の変動がどの程度異常であるかを教えてくれるのです」とRobinsonは言う。

生体パスポートの信頼性

疑わしいとされた生体パスポートのプロフィールは、アンチドーピングの専門家委員会により検討され、精密な検査を行う必要があるかどうか判定される。生体パスポートは、一般的には、その選手を直接検査する際に利用されるが、生体パスポートのみに基づいて摘発された選手もいる。2011年3月には、スポーツ仲裁裁判所が、この方法で摘発された事例のうち2件を認めたことで、生体パスポートの正当性にお墨付きが与えられた。これにより、生体パスポートに基づくドーピングの摘発は、今後、増加する可能性がある。さらに5月には、フランスのスポーツ新聞L'Equipeにリークされた報告書から、UCIが作成していたリストが明らかになった。それは、2010年のツール・ド・フランスに出場した選手たちの生体パスポートに基づくドーピングの疑いを0~10のスケールで評価するもので、合計198人の選手のうち、42人が6以上の評価を受けていた。L'Equipeは、これはドーピングの「強力な」証拠だと解説する。このリストはドーピングを証明するものではないものの、今後、どの選手を精査すべきかの判断に利用される可能性がある。

しかしながら、Catlinは「対策はまだ完全ではありません」と言う。反血液ドーピング科学産業コンソーシアム(Science and Industry Against Blood Doping consortium;オーストラリア・ゴールドコースト)を率いるアンチドーピング研究者Michael Ashendenの研究チームは、10人のボランティアを使ってEPOの「微量投与」のシミュレーションを行った1。それは、12週間にわたり毎週2回ずつ少量のEPOを静脈注射するというもので、これにより被験者のヘモグロビン量は10%も増加した。これは、輸血バッグ2個分の血液を輸血するのと同じ効果である。けれども、どの被験者の生体パスポートの血液プロフィールも疑わしいとは判定されなかった。

もう1つの研究2では、チューリッヒ大学(スイス)の心臓生理学者Carsten Lundbyらが、3グループに分けたボランティアに、10週間にわたって異なるEPO治療を受けさせた。その結果、生体パスポートに似た検査法では、ドーピングをしたボランティアの58%しか特定できなかった。「自分がアンチドーピングの研究をしていなくて本当によかったと思いました。もしかかわっていたら、がっくり落ち込んでしまったでしょうね」とLundbyは言う。

一方、生体パスポートの根拠になっている統計モデルにより、偽陽性、すなわち、実際にはドーピングをしていないのにドーピングをしたような検査結果になってしまう事例が、見過ごせないほど多く生じるおそれがある、と指摘する研究者もいる。テキサスA&M大学(米国カレッジステーション)の統計学者Clifford Spiegelmanによれば、この統計モデルは、生体の測定値の個人差がいわゆる正規分布に従っているという間違った仮定に依拠している点で不適切であるという。正規分布はベル型の曲線になっていて、そこからかけ離れた測定値(外れ値)はほとんどないことになっている。これに対して、実際に生体の測定を行うと、正規分布に基づく予測よりはるかに多くの外れ値があるというのだ。Spiegelmanは、生体パスポートの擁護者は、「実際よりも正確であるようにごまかしている」と言い、生体パスポートの実際の偽陽性率は、彼らが主張する数字の10倍から100倍も高いのではないかと見積もっている。

生体パスポートの根拠となる統計モデルを作成したのは、世界アンチドーピング機構に所属するローザンヌの研究者Pierre-Edouard Sottasである。彼は、ドーピングをしていない数千人の選手の血液を検査したが、生体パスポートに用いられている数値は正規分布に従っていたと主張し、異常な血液プロフィールについて最終的な判定を行うのは、自分の統計モデルではなく専門家委員会であると言う。

見えないゴール

生体パスポートですべての違反者を検知できるわけではないことは、Robinsonも認めている。それでも、ドーピングを考えている選手を思いとどまらせることはできる。UCIも、UCIの研究者による分析3では、生体パスポートの導入以来、ドーピングの疑いがある血液プロフィールが減ってきていることが示唆されていると主張する。

アンチドーピング研究者は、集中的なトレーニング以外の方法を用いた可能性がある競技能力の一時的な増幅をモニタリングするなどの方法で、検査を改良できると考えている。Robinsonの研究チームは、警察による通話記録や税関記録の捜査を通じて収集された情報を生体パスポートの予測モデルに組み込み、疑わしい行動と血液化学の両方を利用して、詳細な追跡調査を要する選手を発見したいと考えている。「我々は、犯罪捜査と同じアプローチを用いなければならないのです」とRobinsonは言う。

Robinsonのチームは、尿中や血液中のテストステロンやインスリン様成長因子1などの濃度変化を測定することで、ステロイドや成長ホルモンの乱用を発見する生体パスポートも開発中である。さらに、生体パスポートを改良するために、Robinsonらだけでなくほかの研究者たちも、血液ドーピングの指標となる新しい分子を探している。例えば、ドーピング分析試験所が行った未発表の研究によると、ボランティアにEPOを投与した後に、赤血球の産生の調節に関与するmiR-144というマイクロRNAの血中濃度が一時的に急増することがわかったという。さらに、従来のマーカーでは自己血輸血に反応した遺伝子発現の変化は発見できなかったが、フライブルク大学(ドイツ)のアンチドーピング研究者Yorck Olaf Schumacherの研究室は、新しいマーカーを用いてこの変化を発見できたという。Robinsonは、こうした新しいマーカーが生体パスポートに取り入れられるには数年かかるだろうと言う。「というのも、これらのアプローチのすべてを評価する必要があり、それは非常に難しいからです」。

3週間にわたって3400kmを走行したツール・ド・フランスも、7月24日にゴールを迎える。ゴールはパリのシャンゼリゼだ。ツール・ド・スイスではステージ優勝を果たしたBožičだが、このレースではステージ優勝はない。しかし、彼の生体パスポートのデータポイントは、すでに1つ増えている。今年のツール・ド・フランスが始まる前に、Božičをはじめ197人の出場選手は、生体パスポートのための血液サンプルを提出しているのだ。Robinsonの研究チームは、どのデータが誰のものかわからないようにしたうえで、今年のレースで血液ドーピングをしていた選手がどのくらいいたか見積もることを計画している。

研究チームは、生体パスポートで、より多くの選手がドーピングをしないようになることを期待している。しかし、四半世紀にわたりアンチドーピングの研究室を運営してきたCatlinは、どんなに巧妙な検査でも、筋金入りのドーピング常習者を阻止することはできないと確信している。「我々が前進しても、彼らはさらに一歩先んじ、また同じ状況になってしまうのです」

翻訳:三枝小夜子

Nature ダイジェスト Vol. 8 No. 10

DOI: 10.1038/ndigest.2011.111006

原文

Sports doping: Racing just to keep up
  • Nature (2011-07-21) | DOI: 10.1038/475283a
  • Ewen Callaway
  • Ewen Callawayは、ロンドン在住のNatureのライター。

参考文献

  1. Ashenden, M., Gough, C. E., Garnham, A., Gore, J. C. & Sharpe, K. Eur. J. Appl. Physiol.http://dx.doi.org/10.1007/s00421-011-1867-6 (2011).
  2. Borno, A., Aachmann-Andersen, N. J., Munch-Andersen, T., Hulston, C. J. & Lundby, C. Eur. J. Appl. Physiol. 109, 537-543 (2010).
  3. Zorzoli, M. & Rossi, F. Drug Test. Anal. 2, 542-547 (2010).