指示されると責任を感じない
1960年代、エール大学(米国コネチカット州ニューヘイブン)の心理学者Stanley Milgramは、権威に指示された人が抵抗なく他者に危害を加えることを実験により明らかにして世界に衝撃を与えた。この有名な「ミルグラム実験」から半世紀以上が経過した2016年2月18日、認知科学者のグループが、そのアップデート版ともいえる実験の結果を発表した(E. A. Caspar et al. Curr. Biol. http://doi.org/bcnj)。
今回の実験は、ミルグラム実験の不穏な結果に、ある程度の説明を与えているようだ。研究チームによると、人が指示に従って行動するときには、それが他者に危害を加えるものであっても無害なものであっても、自分の行為にあまり責任を感じていないという。
デューク大学(米国ノースカロライナ州ダラム)の神経倫理学者Walter Sinnott-Armstrongは、「他の研究チームがこの実験結果を再現できれば、大きなメッセージになります。そこから、ごく普通の人々が強制されることで他者に危害を加えることに抵抗がなくなる理由について、解明が始まるのかもしれません。この研究によれば、彼らはそれを自分自身の行為とは考えていないようですね」と言う。なお、彼は今回の研究には参加していない。
研究チームを率いたロンドン大学ユニバーシティカレッジ(英国)の認知神経科学者Patrick Haggardは、この研究は、指示に従って行動する者と指示を出す者の間で個人的な責任をどのように配分するかという長年の法律論争に影響を及ぼすかもしれないと言う。
Milgramがこの研究を思いついたきっかけは、ナチスによるユダヤ人虐殺の責任者だったアドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)の裁判だった。彼は、自分が大勢のユダヤ人を死に至らしめたのは「命令に従っただけ」だと主張していたからだ。Haggardは、今回の知見は他者に危害を加える行為を正当化するものではないが、「命令に従っただけ」という弁明が、命令を受けて行動する人々の本心を吐露したものであることを示唆しているという。
Milgramは実験を行うに当たり、被験者たちにこう説明していた。ある男性が、隣の部屋で単語のペアを暗記する訓練を受けている。あなたの役目は、学習者が間違えるたびに手元のボタンを押して電気ショックを与えることだ。電圧は1回ごとに強くしていかなければならない。被験者がボタンを押すと、隣室から学習者の悲鳴が聞こえてくる。実は、学習者は俳優で、電気ショックは与えられていない。Milgramの目的は、指示を受けた被験者がどこまで電圧を上げるかを明らかにすることにあった。
驚いたことに、被験者のじつに3分の2が、学習者が気絶の演技をした後も、指示に従い電圧を上げていった。けれどもMilgramは、被験者は不快な行為を強制されているとして、その主観的な感情を評価することはしなかった。この実験は、電気ショックによるダメージを演じた点を批判されている。人に電気ショックを加えてしまったという思いは被験者の心に痛手を与える恐れがあるだけでなく、一部の被験者は電気ショックが加えられていないことを見破り、安心して電圧を上げていった可能性もあるからだ。
これまでにも複数の研究チームが、倫理的に問題の少ない方法でMilgramの研究を部分的に再現してきた。けれどもHaggardらは被験者の気持ちを知りたいと考え、実験の目的を完全に理解したボランティアが意識して現実の苦痛を交互に与え合う実験をデザインした。
Milgramの実験が引き起こした論争の激しさを知るHaggardは、「この研究をしようと決意するには、かなりの覚悟が必要でした」と言う。けれども彼は、誰が個人的な責任を負うのかという問いは非常に重要なので、「問題の核心に迫るために良い実験をしてみる価値がある」と思ったという。
Haggardの実験では、有志の被験者を募り(性別の影響を避けるため、実験者も含め全員女性とした)、被験者には20ポンド(約3200円)が与えられた。被験者は2人1組になり、テーブルを挟んで向かい合って座る。テーブルの真ん中にはキーボードが置いてある(「現代版ミルグラム実験」参照)。ペアは「エージェント」と「犠牲者」に分かれ、エージェントは、2つのキーのうちどちらか一方を押す。1つのキーは、押しても何も起こらないが、もう1つのキーを押すと、一部のペアでは、エージェントは犠牲者から5ペンス(約8円)を得られる。それ以外のペアでは、犠牲者には罰金に加え腕に電気ショックが与えられる(ショックの強さは、被験者が耐えられる程度に調整されている)。ある実験では、実験者がエージェントの横に立って、押すキーを指示する。もう1つの実験では、実験者はエージェントの方を見ないようにしており、エージェントは押すキーを自由に選べる。
どちらのキーを選んでも、その数百ミリ秒後に音が鳴る設定になっており、両方の被験者はキーが押されてから音がするまでにかかった時間を見積もり答える。心理学研究により、人が自由意志により行動したとき(例えば、自分で腕を動かしたとき)には、同じ行動を受動的にしたとき(他人に腕を動かされたとき)よりも、行動から結果までの時間を短く感じることが分かっているからだ。つまり、被験者がキーを押してから音がするまでにかかったと感じた時間は、自分がその行動に責任があると思っているかどうかの指標になるのだ。
エージェントが実験者に押すキーを指示されたときには、押すキーを自由に選択できたときに比べて、音がするまでにかかったと感じた時間は長かった。この結果は、エージェントがその行動を受動的に行ったと思っていることを示している。
これとは独立の実験では、被験者の頭に電極をとりつけ、脳波検査により神経活動を記録しながら同様のプロトコルで実験を行った。エージェントが実験者に押すキーを指示されていたときの脳波は、指示がなかったときの脳波に比べて静かだった。Haggardによれば、この脳波は、彼らの脳が自分の行動の結果として処理していないことを意味するという。実際、一部の被験者は、自分の行為への責任をあまり感じていなかったと報告した。
予想外だったのは、キーを押しても相手に物理的・経済的な害を及ぼさない場合にも、キーを押せと指示されるだけで、この影響が生じたことだ。「誰かに何かをするように指示されるときには常に、指示の内容にかかわらず、自分に責任があるという感覚が弱くなるようです」とHaggard。
Sinnott-Armstrongは、今回の研究は法律論争に一石を投じることになるかもしれないが、社会の他の領域にも広く関連してくると言う。例えば、従業員に個人的な責任を感じさせたい(あるいは感じさせたくない)企業は、この知見が参考になるだろう。
翻訳:三枝小夜子
Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 5
DOI: 10.1038/ndigest.2016.160511
原文
Modern Milgram experiment sheds light on power of authority- Nature (2016-02-25) | DOI: 10.1038/nature.2016.19408
- Alison Abbott
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