楽しい記憶の活性化でマウスのうつ様症状が改善
理化学研究所脳科学総合研究センター長で、マサチューセッツ工科大学(米国ケンブリッジ)にも所属する神経科学者、利根川進らは、快い経験の記憶を保存していると考えられる脳細胞の集団を光を使って刺激することにより、齧歯類のうつ状態を改善できたことを、Nature 2015年6月18日号335ページで報告した1。
この結果はまだ予備的なものだが、記憶の保存に関与する脳領域が、将来、人間の精神疾患の治療標的になる可能性を示唆している、と利根川は述べる。「私は患者に誤った期待を与えないように十分慎重でありたいと思っています。私たちが行っているのは非常に基礎的な科学研究なのです」と彼は付け加える。
一方、スタンフォード大学(米国カリフォルニア州)の神経科学者Robert Malenkaは、「これは精神医学が今まさに必要としているタイプの研究で、大変明快な論文です」と言う。
記憶から気分へ
この成果は、記憶「エングラム」の場所を突き止めることを目的とした利根川の研究室や他の研究者たちの研究から生まれたものだ。エングラムとは特定の記憶の物理的痕跡のことで、ニューロン集団に符号化されていると考えられている2-6。
2012年に、利根川の研究チームはエングラムの最も明確な実例を示した。彼らはまず、発火したニューロンでのみ光感受性のタンパク質を発現するトランスジェニックマウスを作製した。次に彼らは、マウスに電気ショックを繰り返し与えて特定のケージに対し恐れを感じるように訓練し、そこで恐怖記憶を与えられている間に活性化する全てのニューロン群を追跡できるようにした3。研究者たちはその後、光遺伝学的手法を用いて、青色光のフラッシュを使って同じニューロン群を再び発火させた。すると、フラッシュを浴びたマウスはすくんだ。これはおそらく恐怖記憶が再び呼び起こされたためと考えられる。
2013年以降、利根川らはエングラム手法のさまざまな変法を用いて、マウスに誤った記憶を植えつけたり4、失われた記憶を呼び覚まさせたり5、さらには不快な記憶の代わりに快い記憶をエングラム細胞が符号化するように再訓練したり6している。
幸福をつかんで離さない
いちばん最近の研究で利根川の研究チームは、雄のマウスが快い体験をしたとき、すなわち雌のマウスと時間を過ごしたときに発火するニューロンを突き止めた。研究者はその後10日間、雄のマウスの運動を制限した。するとマウスは真水よりも砂糖水を好むという自然な傾向を示さなくなった。つまりマウスは、快感を伴う経験に対する関心を失ってしまったことが示唆される。さらに、ストレスを受けたマウスは、尾を保持したまま吊り下げられてもあまりもがかなくなっていた。このような兆候は、一般に動機付けの欠如、つまり、うつ症状の一種と解釈される。
研究チームが快記憶エングラムニューロンを再活性化させると、数分以内にこうした兆候は見られなくなった。最初のうちは、短期的な作用しか観察されず、光刺激によってオンオフされるように思われた。しかし、5日間連続で1日に2回、快記憶エングラム細胞を光刺激すると、最終的に持続的な効果を生み出すことができた。6日目には、光刺激を受けていなくても、以前にストレスを受けていたマウスの動機付けは改善し、快楽を求める行動も見られるようになった。「私たちはマウスのうつ症状を治すことができました」と利根川は言う。ただし、この効果がどれくらい長く持続するかはまだ分からないとも述べている。
この効果は脳内の報酬と感情の回路をただ刺激した結果というわけではなさそうだ、と利根川は言う。ストレスを受けたマウスを実際に雌と5日間接触させても、脳に刺激を与えたときのような改善は見られなかったのである。
「そこがこの研究の最も興味をそそられる側面の1つだと思います」と、スタンフォード大学の精神医学研究者Amit Etkinは言う。「快記憶の符号化には、ただ報酬を与えられることとは異なる特別な何かがあるのでしょう」。
土台を築く
この結果は、うつ病患者の中には、快い経験を思い出したり、それを楽しんだりすることがうまくできない人々がいるという所見に関連があるのではないかと利根川は推測する。うつ状態が始まる前に符号化された「楽しい記憶」が直接刺激されたことで、マウスはうつ状態が誘発する脳内の何らかの機能障害を回避できるようになったのかもしれない、と彼は言う。
けれどもEtkinは、単純なうつ症状の動物モデルとヒトの複雑な症状の間にはギャップがあるため、ヒトでも同じようなことが起こると考えるのは時期尚早だと警告する。「ヒトのうつ病の臨床症状は非常に多様です。動機付けや報酬の経験に問題がある患者もいれば、そうでない患者もいます。これを全てのうつ病患者に一般化することには注意が必要です」と彼は言う。
また、マウスの実験で使われた神経活性化の手法をヒトに応用することも難しいだろう。光遺伝学的刺激はヒトでは実行不可能であり、深部脳刺激インプラントも、侵襲性の高い外科手術が必要であるため、最終手段としてしか使えない。
利根川は、自分の研究は精神疾患の原因となる神経回路機能障害を探究することのみを目的としていると強調する。「活性化することで良い効果が表れる神経回路をマッピングするこれまでの研究によって、将来の治療法開発のための論理、あるいは可能性を提供することができるのではないかと期待しています」と彼は語る。
翻訳:古川奈々子
Nature ダイジェスト Vol. 12 No. 8
DOI: 10.1038/ndigest.2015.150802
原文
Activating happy memories cheers moody mice- Nature (2015-06-17) | DOI: 10.1038/nature.2015.17782
- Helen Shen
参考文献
- Ramirez, S. et al. Nature 522, 335-339 (2015).
- Reijmers, L. G., Perkins, B. L., Matsuo, N. & Mayford, M. Science 317, 1230-1233 (2007).
- Liu, X. et al. Nature 484, 381-385 (2012).
- Ramirez, S. et al. Science 341, 387-391 (2013).
- Ryan, T. J., Roy, D. S., Pignatelli, M., Arons, A. & Tonegawa, S. Science 348, 1007-1013 (2015).
- Redondo, R. L. et al. Nature 513, 426-430 (2014).
関連記事
Advertisement