英国フランシス・クリック研究所の挑戦
生物学者にとって、物理学はますます欠かせない道具になりつつある。生物学における物理学の応用例は、せっけんの泡を使って細胞分裂をモデル化することから、同調した時計になぞらえて胚発生を理解することまで多岐にわたる。英国ロンドンに、近く開所予定である生物医学研究の新たな拠点、フランシス・クリック研究所でも、物理学の活用はその焦点になろうとしている。
建設費6億5000万ポンド(約1100億円)に及ぶこの研究所は、物理学から生物学に転向し、ジェームズ・ワトソンとともにDNAの構造を解明したフランシス・クリックにちなんで名付けられた。医学研究に役立つ物理科学の理論的・実験的方法を積極的に取り入れることを掲げており、2015年の開所時には、1250人の職員のうちの5分の1を物理学者、化学者、数学者、エンジニアが占める予定だ。彼らの仕事は、生物医学系の職員が病気の原因を解明し、新しい治療法を見つけるのを助けることである。
フランシス・クリック研究所の設立は、英国の学術振興団体である医学研究会議(MRC)、2つの医学研究支援団体(ウェルカムトラスト財団と英国がん研究所)、ロンドンにある3つの大学(ロンドン大学インペリアルカレッジ、ロンドン大学キングスカレッジ、ロンドン大学ユニバーシティカレッジ=UCL)の共同事業だ。これらの機関は、異分野が共に研究を行う利点についての調査をすでに進めており、2014年6月には天文学と生物医学研究における画像撮影についての研究会を開いている。フランシス・クリック研究所の理事の1人で、MRC国立医学研究所の所長であるJim Smithは、「夜空の星を調べるとき、そのパターンと分布を分析して、それらが輝く仕組みを解明しなければなりません。顕微鏡をのぞき込むときも同じです。対象を調べる手順はとても似ていますし、似ていて当然です」と話す。MRC国立医学研究所は、フランシス・クリック研究所に組み込まれる予定である。
これまで生物物理学という言葉から連想されるのは、タンパク質の構造やイオンチャネルの機能の研究だった。しかし、物理学は生物学において新たな役割を担い始めている。フランシス・クリック研究所の設立もそうした動きの1つだ。UCLの細胞生物物理学者Ewa Paluchは、「物理学の新たな応用例として、例えば、生物システムで見られるさまざまなスケールの形やパターン出現のモデル化があります。分子から細胞が、細胞から組織が、生物から生物の集団がどのように生まれるのでしょうか。これを知るには、ミクロからマクロまでさまざまなスケールにわたる問題を扱わねばなりませんから、モデルなしには真に理解することができません。そこで物理学が必要になってくるのです」と話す。
「このアプローチにより、細胞レベル、組織レベルの振舞いが微視的過程からどのように生じるかを解明できる可能性があります。こうしたアプローチを後押ししてきたのが、画像撮影技術の進歩と、ソフトマター物理学の発展です」とPaluchは説明する。Paluchは、2014年秋に開所予定のUCL生体物理学研究所の所長を務める。
物理学の生物学への応用は、この10年で盛んになり、それとともに学際的な学会、大学院課程、研究資金も増えた。ドイツのマックス・プランク協会(MPG)は早い段階からこの動きを支援しており、同協会の分子細胞生物学・遺伝学研究所と複雑系物理学研究所(共にドレスデン)は、2002年から研究協力を始めた。オランダ発生生物学研究所(ユトレヒト)の定量生物学者Alexander van Oudenaardenは、「米国も先駆者でした」と話す。米国立衛生研究所(NIH)の一部である国立がん研究所は2009年、全米の12の研究機関に「物理科学・腫瘍学研究センター」を設けた。Oudenaardenは2012年までこのうちの1つでセンター長を務めていた。この取り組みは、乳がん研究などにおいて大きな成功を収めたため、NIHは2014年4月、センター設置申請の新たな募集を発表した。
「生物物理学の台頭は、新たな動きというよりもルネサンス(復興)という方がいいかもしれません」とPaluchは指摘する。「生物学では1950年代に『分子革命』が起こりましたが、そこに至るまでの過程では、クリックらによるDNAの二重らせん構造の解明が示すように、物理学が大きな役割を果たしました。しかし、分子革命により、生物学研究は再び遺伝学と分子生物学に重点を置くようになり、物理学の出番は少なくなったのです」とPaluchは話す。
英国ロンドンがん研究所の所長であるRichard Treismanは、「生物学者たちは今、大量の実験データを処理し、生物組織の画像を新たな方法で撮影して、物質をデザインしています。こうした作業に物理学が役立っているのです。現在の生物学には莫大な数の課題があります。研究者たちは好むと好まざるとにかかわらず、不満を口にし、悲鳴を上げながらも物理科学に引きずり込まれざるを得ないのです」と話す。
研究者たちのそうした気持ちは、異分野の研究者と協力する際の潜在的なデメリットを示している。つまり、文化の衝突だ。生物学者と物理学者の言語は異なっている。フランシス・クリック研究所の研究者たちはお互いの言語を知る必要があるだろう。
「フランシス・クリック研究所は、その過程を円滑にすることを目指しています」とSmithは話す。物理科学分野の全ての研究グループは、研究所の中でサバティカル(研究休暇)を取ったり、配置換えを要求したりすることができる。また、研究所の建物は、研究者同士の偶然の出会いを誘うように設計されており、研究者のアイデアを刺激する狙いがある。
生物医学研究の支援団体も、物理学を取り入れるメリットを理解している。英国がん研究所は2014年4月、新たな研究戦略の一環として、物理科学との共同研究のみを助成する500万ポンド(約8億7000万円)の研究資金の提供を発表した。これは、物理学を取り入れた研究方法の有効性を再検討した結果、なされた決定であった。
Paluchはこう話す。「このような積極的な動きは歓迎します。物理学と生物医学の共同の研究助成金が増加しているにもかかわらず、審査委員会を説得して学際研究に資金を出させることは簡単ではありません。そうした研究を発表することもまた簡単ではありません。多くの生物学の学術誌は、物理学で通常される説明とは異なる種類の説明を期待しているからです。それ故、生物物理学の論文を掲載してもらうことは必ずしも容易ではありません。これは私たちが常に直面している問題です」。
翻訳:新庄直樹
Nature ダイジェスト Vol. 11 No. 8
DOI: 10.1038/ndigest.2014.140809
原文
Biomedical institute opens its doors to physicists- Nature (2014-05-29) | DOI: 10.1038/509544a
- Elizabeth Gibney
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