新潮45 科学の興亡

科学の興亡「ネイチャー」VS.「サイエンス」

新潮45

名物編集長ジョン・マドックス

いつも書いていることなので、耳にタコができた読者もいるかもしれないが、日本では「生高物低」もしくは「化高地低」という科学教育の歪みが生じている。

受験で効率よく点を取ることだけが目的となり、かつ、理科系でも2科目だけ取ればいいという安易な重点主義が蔓延(はびこ)ったせいで、今や、日本の高校生は、生物と化学だけ取って、物理と地学を全然勉強しなくなってしまった。

これは日本特有の事情らしい。たとえば、ネイチャー誌の歴代編集長は一人を除いて皆、物理系出身なのだ。この点について中村氏はこう語る。

「一般の話題をさらう論文は、生命科学に多いですが、ネイチャーの編集長は代々、物理畑の人間が多い。名物編集長ジョン・マドックスもそうです。彼はインタビューで『ネイチャー誌は20世紀の科学において、生物と物理、どちらの発展に貢献したか?』と聞かれ、『圧倒的に物理』と答えています。

ワトソン=クリックの有名な二重らせん論文がネイチャーに掲載されて以後、分子生物学という分野ができ、ネイチャーはこの分野のフラッグシップになるべく、その後も様々な記事で追いかけていますが、マドックスは『あれは物理の論文だ』といっています」

物理学は一時、あらゆる科学の基礎ということで、物理帝国主義なる言葉で揶揄もされたが、たしかにクリックも物理出身であり、DNAの二重らせん構造の決定に大きな役割を果たしたロザリンド・フランクリンのX線回折写真も物理学の手法だ。

生物学にしても化学にしても、研究手法そのものが物理学のお世話になる、という意味で、やはり物理学は科学全体の「根っこ」なのだろう。ネイチャー誌はその伝統を頑なに守っている。それに対して、日本は中等教育の段階から物理学を軽視し、根無し草になりつつあるように思えてならない。

マドックスには武勇伝も多いが、その人となりをよく知る中村氏がいくつかのエピソードを紹介してくれた。

「彼はマンチェスター・ガーディアン紙(ガーディアン紙の前身)で科学記者を務めたあと、1966~73年と1980~95年にネイチャーの編集長を務め、後年には“sir”の称号を授与されましたが、昨年(2009年)亡くなりました。

タバコと赤ワインが大好きだった人です。昼からお酒を飲むことも多く、遅刻・寝坊の常習犯でした。彼とランチをした日の午後は酔っ払って仕事が手に付かないことがよくありました。また、3年間、経費の精算を一度もしなかったなんて逸話も聞きました。一時は、マクミラン社の取締役会のメンバーにも選ばれたのですが、やはり性分に合わなかったのか、1年ぐらいで辞めてしまいました。

また、マドックスは親日家でした。年に2回ほどは来日し、東京で国際会議をやることも多かった。ネイチャーでは日本特集を3回やっていますが、すべてマドックスがいた頃のものです」

ウェールズ生まれのマドックスはオックスフォード大学とロンドン大学で物理学と化学を専攻し、マンチェスター大学で理論物理学の教鞭をとったこともある。ネイチャー誌にピアレビューの制度を導入した人物でもある。イギリスの世界的な地位が相対的に低下する中で、ネイチャー誌をトップの座に押し上げた功績は大きい。辛辣だが真摯でユーモアのある発言で知られた。

マドックスに限らず、ネイチャー編集部には変わり種が多いようだ。

ネイチャー誌には、編集長の下に物理編集長と生物編集長がいる。その元物理編集長だったローラ・ガーウィンは、ハーバード大学を出てからローズ奨学制度でオックスフォード大学に学び、ケンブリッジ大学でも博士号を取った超秀才だが、いつのまにか音楽家に転じ、今は、ペンタゴン・ブラスというバンドでトランペッターとして活躍している。

ここには、科学を根っこから理解し、ルネサンス人のような広い視野で世界を眺め、科学の発展に寄与すると同時に人生を楽しんでいる人々の姿がある。

受験のために生物と化学しか勉強しないで済ませることが効率的だと考えている人は、その近視眼的な戦略が、若人の人生と日本の将来にとって本当にいいことなのか、今一度、考え直してもらいたいものだ。

ネイチャー誌の別の顔

中村氏への取材を通して、ネイチャー誌で働く人々が共有する「誇り」がこの雑誌の原動力の1つであることに気づいた。

「ネイチャーは、Opinion や News & Views などのマガジン(商業一般誌)的な前半部分と、Articles や Letters など論文が載るジャーナル(学術誌)的な後半部分の合体でできています。

前半部分に象徴されるクリティカルな姿勢こそが、小誌の持ち味で、大事にしている部分です。

科学は科学だけで終始しないはず、政治や経済も当たり前のように関わってくるというのが我々の考えで、ネイチャーの人的・金銭的エネルギーはこの前半部にかかっているといっても過言ではありません。このサイエンス・ジャーナリズムの観点においては、サイエンス誌よりネイチャーの方が上をいっていると思います」

つまり、「ネイチャー誌は専門論文誌」というわれわれのイメージは、一面にすぎないのであり、クリティカル(=批判的)な目で科学界や政治に物申す、全く別の顔があるというのである。

たしかに、日本の科学誌や新聞の科学部は、面と向かって科学者や文部科学省などに、物申すことが少ない。科学者からは情報をもらう立場であり、また、日本独特の記者クラブ制度のせいで、政府にも頭が上がらないからである。

その点、ネイチャー誌は、科学者にも政府にも対等の立場から直言できる。この科学ジャーナリズムの独立性は、日本も見習うべきだろう。

中村氏は、さらにネイチャー誌の特色を矢継ぎ早にあげていく。

「ネイチャーにはまた、NPO的な活動から生まれたサイエンスに比べ、独立性があります。

いわゆる学会誌というのは、同人誌的です。アクセプト順に掲載し、この教授の論文を載せたら、こちらの教授の論文を載せないわけにはいかないとか、そういうしがらみが仲間内であるかもしれないわけです。

対してネイチャーは商業誌です。名物編集長、ジョン・マドックスは『ネイチャーは同人誌ではない』と明言しました。『商業誌であることを誇りにしている』とも。

商業誌ですから、内容がつまらないと売れない、売れないと広告が入らない、という悪循環に陥る。研究者の方からネイチャーは補助金をもらっているのかという質問を受けたことがあります。勿論そんなものは一切ありませんから、とにかく読者に買ってもらえる雑誌を目指さなければなりません」

通常の学会誌は「同人誌」だが、ネイチャー誌は生粋の商業誌だというのである。この点、会員の寄付によって賄われているサイエンス誌とは一線を画しているわけだ。ネイチャー誌が科学界や政府から独立しているのは、商業誌として独立採算でやっていかれる経済的な基盤があってのことなのだ。

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