変異H5N1型ウイルス研究の問題
致死作用のある人為的なH5N1型の鳥インフルエンザ変異ウイルスが、誤って実験室から流失し、大流行を引き起こす–こんな悪夢のようなシナリオが現実味を帯びている。昨年9月以降、2組の研究チームが、フェレット間で空気感染するH5N1型の変異ウイルスを作製したというのだ。空気感染するということは、その変異ウイルスが人間の間でもたやすく広がることを意味している。
この変異ウイルスは、感染スピードこそ通常の季節性インフルエンザと同程度であるが、致死率は野生型H5N1型ウイルスと変わらない。それは、1918年に大流行したインフルエンザの致死率、約2.5%より1桁も大きい。
2組の研究のうち1つは、エラスムス医療センター(オランダ・ロッテルダム)のRon Fouchierらが Science に、もう1つは、東京大学(東京都)とウィスコンシン大学マディソン校(米国)に所属する河岡義裕の研究チームが Nature に、それぞれ投稿したものだという(筆者を含め、Nature のニュース記事担当者には、投稿論文やその審査を知る権限はない)。Fouchierはすでに、昨年9月にマルタで開かれた欧州インフルエンザ研究作業部会(ESWI)の年次会議でその結果を発表している。
この論文については、多少編集したとしても、発表するにはセキュリティー上のリスクが大きすぎるという議論を巻き起こし、米国バイオセキュリティーに関する国家科学諮問委員会(NSABB)で検討が行われている。(編集部注:結局、NSABBは双方に対し、感染性などの詳細なデータは制限し、関係者以外極秘にして必要な人だけに公表すべきだと勧告を出した。それを受け米国政府は、Science、Nature 両誌に対し、研究のおおまかな成果だけを公開し、変異ウイルス研究が管理されずに、流出事故や犯罪に悪用される可能性のある勝手な研究につながるようなデータの詳細は伏せるようにと要望した。こうした動きに対して、河岡やFouchierをはじめとする39人のインフルエンザ研究者は、1月20日付のScience と Nature のオンライン版に、H5N1の研究を60日間自主停止するとの声明を発表し、ワクチン開発などの対策にはこうした研究が必要であり、この間に研究者と政府当局が問題を話し合い、最良の解決策を模索してほしいと求めた。声明文の全文は、http://nature.asia/avian-flu1を、関連記事は、http://nature.asia/avian-flu2を参照。)
しかし、多くの研究者からは、NSABBの審議は遅すぎたという声が上がっている。研究者らは、変異ウイルスの研究を進めるうえで、はるかに重要で必要不可欠なのは、ウイルス株を保有する実験室と今後共同研究に加わろうとする研究者に、ウイルスを流出させない生物学的封じ込めを徹底させる防護態勢が整っているかどうかなのだと主張する。
ラトガーズ大学(米国ニュージャージー州ピスカタウェイ)の分子生物学者でありバイオセキュリティーに詳しいRichard Ebrightは、「事態は動き出したのです。この期に及んで研究の発表を制限することを議論するなど、全く無益なことです」と語る。さらにEbrightは、論文の審査員を含め、多くのインフルエンザ研究者がすでに実験結果を目にしており、研究者の間ではニュートリノよりも速く噂が広がっているはずだ、と指摘する。
研究者たちが変異ウイルスを作ったのは、せきやくしゃみで人から人へと簡単に広がる能力を持つような変異が起こる可能性を見極めようとしたからだ。ウイルス学者の中には、伝染性が高くなるような遺伝的変化が起きれば、毒性は弱まるだろう、と考える者もいた。だが今回の研究は、そうした楽観的な見方を否定している。こうした研究は、変異が野生のウイルスでも起きているかどうかの調査研究に弾みをつけ、診断薬や治療薬、ワクチンの開発に役立つはずだ。
2つの研究は共に、「高度バイオセーフティーレベル3(BSL-3)」の実験室で行われた(表「安全性レベル」参照)。BSL-3実験室では、退室時にシャワーを浴び着替えをしなければならない。また、実験室内は陰圧で、高効率粒子エアフィルターによる排気処理などの安全対策も講じられている。ウイルス流出事故に対する対策はこれで十分だろう、と話すウイルス学者もいる。マウント・サイナイ医科大学(米国ニューヨーク)でウイルス学を研究するPeter Paleseは、「現在のバイオセーフティー規制は、H5N1型などのインフルエンザウイルスによる感染実験を安全に行うには十分です」と語る。
国立感染症研究所(東京都新宿区)のウイルス学者、田代眞人によれば、さらに要件が厳しいBSL-4の施設が必要とされれば、H5N1型の大流行への対策手段を開発するのに必要な研究が進まなくなるおそれがあるという。それは、従事できる研究者が限られてしまうためだ。田代は、高度BSL-3の施設で研究を行うべきだと考えている。
高いセキュリティー
その一方で、ウイルスを取り扱う研究者ばかりでなく社会全体を守るためには、この新しいH5N1型変異ウイルスをBSL-4実験室に封じ込めておかなければならない、という主張もある。BSL-4実験室は、作業者は陽圧式防護服を着用してさらに徹底的な除染を行うことが求められるなど、安全性と危機管理に関してはるかに厳しい措置がとられている。なかには、ビデオ監視や防弾措置といった追加対策を講じている場合もある。しかし、BSL-4施設は全世界に数十施設しかない。したがって、この変異ウイルスの研究をBSL-4施設に限定することは、実験室内でのウイルスの増殖の制限を意味する、とEbrightは話す。実際、ある規制当局者は、「バイオセーフティーの考え方や能力が十分でない国のBSL-3実験室で、H5N1型変異ウイルスが取り扱われることが、非常に懸念されます」と語る。
オーストラリア動物衛生研究所(ジーロング)の高度封じ込め施設でH5N1型ウイルスを研究しているDeborah Middletonによれば、新しい変異ウイルスの特徴は「BSL-4条件を満たし」ており、同研究所なら同等の取り扱いになるはずだという。確かに、今回の実験もBSL-4施設で行うべきだった、とINSERMジャン・メリューBSL-4実験室(フランス・リヨン)の室長であるHervé Raoulは主張する。
これまでの事故からも、明らかに、新しい変異型のH5N1型ウイルスが実験室から抜け出す危険性は無視できるものではない。ここ10年では、中国本土、台湾、およびシンガポールの4か所のBSL-3施設、BSL-4施設で、偶発的に重症急性呼吸器症候群(SARS)の感染者が発生している。昨年9月に公表された米国学術研究会議の報告書によれば、米国では、2003年から2009年までに特定の病原体を取り扱う研究でのバイオセーフティー規則違反が395件あった(うち7件は、実験室で感染者が発生)。
さらに、流出したインフルエンザウイルスは急速に広がるため、ほかの致死的な病原体以上に危機的状況になるだろう。ミネソタ大学感染症研究政策センター(米国ミネアポリス)の所長でNSABBのメンバーであるMichael Osterholmは、こう語る。「SARSやほかのBSL-4取り扱い病原体が流出しても、世界規模で広がる可能性はあまり高くありません。しかしインフルエンザウイルスが流出したなら、またたく間に世界中に広がってしまい、重大な問題になります」。
Fouchierは、こうしたバイオセーフティーの問題についてのコメントを拒否し、「H5N1型のウイルスは、抗ウイルス薬やワクチンがあるためクラス3の病原体である」としているオランダと米国の規制当局が自分たちの実験を監査した、とだけ語った。河岡はインタビューに応じていない。(編集部注:河岡は、1月26日、Nature のオンライン版にコメントを寄せている。その翻訳は、「H5N1インフルエンザ特集」参照。)
Fouchierや河岡は、世界保健機関(WHO:スイス・ジュネーブ)がこのバイオセーフティーの議論で早期にリーダーシップをとることを期待しているのだ、と話す研究者もいる。しかし、WHOのスポークスマンであるGregory Hartlは、まだ論文の形になっていない以上、コメントすることができない、と話すにとどまる。一方で、NSABBは、意見を明らかにする時期を明言していない。Nature に対して、米国農務省は、保健社会福祉省と共同で、この新しいH5N1型変異ウイルスに関する何らかの適切な技術的調査を行うことを明らかにした。
Ebrightは、安全・危機管理上の重要な問題がほとんど個々の研究者の裁量にゆだねられてしまっている、と嘆く。「米国では、安全性に関しては自主的な管理しかなく、特定の病原体の規則という例外はあるものの、危機管理に関しては全くなされていないのです」とEbrightは説明する。Middletonによれば、インフルエンザ研究者は、選択可能ならば、BSLのレベルが高い施設では実験したがらない場合が多いという。それは単に、BSL-3実験室ですら研究を行うのに不便さを感じているのに、BSL-4実験室でやるとなったら作業は必然的にさらに難しくなるからだ。
こうした状況は、被験者のリスクが高い臨床試験研究が数々の法律で規制されているのとは対照的だ、とEbrightは指摘する。「注目すべき点は、変異H5N1型ウイルスの研究では、1人ではなく、何百、何千、何百万人もの人が危険にさらされる可能性があるというのに、全く管理されていない、ということなのです」とEbrightは力説する。
翻訳:小林盛方
Nature ダイジェスト Vol. 9 No. 3
DOI: 10.1038/ndigest.2012.120308
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