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チップ上の人体「ホモチッピエンス」作製を目指す

Nature ダイジェスト Vol. 12 No. 5 | doi : 10.1038/ndigest.2015.150512

原文:Nature (2015-02-19) | doi: 10.1038/518285a | Scientists seek ‘Homo chippiens

Sara Reardon

三次元培養系のモデル器官装置をつないで全身の生理機能を模擬した系を構築し、これを生物テロ対策に利用しようという計画が米国で動き出した。

米国政府は、生物テロ、化学テロ、放射線テロが起こった場合に備えて、その対策となる医薬品の備蓄に毎年何億ドルもの予算を割いている。これらの医薬品の多くは、倫理的な理由から、人体で一度も試されたことがない。そうした中、米国陸軍および民間の科学研究機関は現在、臨床試験に代わる次善の策として、プラスチックのチップ上に作られたヒトのミニチュア器官の開発を後押ししている。

「福島の原発事故レベルの放射線に人間を被曝させて調べるのは非倫理的なことですが、そうした災害に備えておく必要があるのです」と語るのは、ハーバード大学ワイス研究所(米国マサチューセッツ州ボストン)の生物工学研究者Donald Ingberだ。写真の装置は、彼が率いる研究チームが開発した疑似肺1で、最近では脾臓を模した人工の血液浄化装置2も発表している(Natureダイジェスト2014年11月号5ページ参照)。彼は現在、米国食品医薬品局からの助成を受け、自らが開発した「骨髄オンチップ」を用いて、有害な放射線の影響と実験的治療法の効果を調べている。骨髄オンチップとは器官オンチップ(organs-on-chips)と呼ばれる三次元培養系のモデル器官だ。このような装置は一般に、小さなプラスチックのチップ上の溝に細胞をまいたものに、血液のように栄養豊富な液体をシステム全体に流して細胞に養分を供給する構造になっている。器官オンチップは個別に使用することもできるし、別のタイプの器官オンチップと連結させて生物学的システムを模倣することもできる。ゆくゆくは「人体をそっくりまるごと」模擬することが目標だ。

Ingberらが開発した疑似肺装置。このような「器官オンチップ」を使えば、有毒化学物質に対する人体の反応を試験し、毒性を評価することが可能になるだろう。 | 拡大する

WYSS INSTITUTE/HARVARD

これらの複雑な三次元培養系を使えば、シャーレで培養されている細胞や実験動物よりも人体の生理学的機能をうまく模擬できるのではないかと期待が高まっている。2015年2月9〜11日にワシントンD.C.で開かれた米国微生物学会(ASM)の生物テロ対策会議では、同様の研究を行っている研究者たちがこうしたモデル器官の生物テロ対策への応用について討議した。

また2015年3月には、米国環境保護庁(EPA)が「肝臓オンチップ」を胎膜、乳腺、および発生中の肢を模擬するチップにつないだ化学毒性試験装置を開発するために、同庁の助成プログラムを通じて計1800万ドル(約21億円)を3つの大学に分配すると発表した。最終的な目標は、ダイオキシンやビスフェノールAなどの環境汚染物質が肝臓で処理されると、こうした器官で代謝がどのように変化するかを調べることである。

危険な病原体の研究をしている科学者にとって、動物実験にかかる費用と順守しなければならない安全上の規制を考えれば、モデル器官系が持つ柔軟性はとりわけ魅力的である。ASM会議では、太平洋岸北西部国立研究所(米国ワシントン州リッチランド)の微生物学者Joshua Powellが、ウサギの肺細胞から作られた三次元「肺」に対する炭疽菌の芽胞の感染能を調べた実験の結果を発表した。肺細胞は本物の肺のように、液体と空気との境界面に配されている。

Powellは、米国国土安全保障省(DHS)が「炭疽菌芽胞が人体にいくつ入ると病気が引き起こされるのか」などの疑問に答えるために、この系の利用に関心を示していると述べる。

特にいくつかのウイルスに関しては、「メカニズムが全く分かっておらず、新しい薬剤標的を見つけるにはその解明が必要です」とIngberは言う。モデル器官を感染させることで、研究者たちは遺伝子発現や代謝がどう変化するかをリアルタイムで観察することができるだろう。

また、この種の情報は、化学、生物または放射線テロ攻撃に際し、既知の物質に関する基本データとの比較によって未知の物質の正体を特定することにも利用できる。バンダービルト大学(米国テネシー州ナッシュビル)の生理学者、John Wikswoらは、細胞の代謝活性を分析することによって迅速にリシンやボツリヌス毒素などの毒素を区別できると報告している3。そして現在、モデル器官を用いた手法を適用しようとしている。

すでに何十もの個々のモデル器官が開発されている。次なる挑戦は、それらをつなぎ合わせて人体全体をチップ上で作るという究極の目標を達成することだと、国立先端トランスレーショナル科学センター(NCATS;米国メリーランド州ベセスダ)のプログラムマネジャーKristin Fabreは言う。これによって、薬剤や毒素などの物質が、ヒトの生理機能にどのような影響を与えるかをより正確に把握できるようになるだろう。

Wikswoはそのような系に対し、ホモサピエンスに引っ掛けて「ホモチッピエンス」というあだ名を付けているが、人体を模擬するのは容易なことではないと慎重だ。行く手にはさまざまな難題があるが、例えば、モデル器官の中を流れる代用血液は、正しい順序に正しい量が届けられなければならず、また、各器官にとって適切な栄養分を運べなければならない。

しかし、多くの人々がこの研究に励んでいる。NCATSが助成するあるプロジェクトでは、少なくとも4個のチップをつなぎ合わせることを目指しており、11の研究チームがこれに参加している。また、米国防総省の国防高等研究計画庁は、10個の器官を連結する技術の開発を援助しており、同省の国防脅威削減局は4器官の系を2つを作ることを目標としている。

Fabreは、これらのシステムのうちのいくつかは5年以内に学術機関および産業界で利用可能になるかもしれないと予測する。また彼女は、これらの系が動物モデルではヒトの生理機能を再現しにくいケースで特に有用なことが証明されるのではないか、と期待している。研究者たちがその目標に徐々に近づいていくにつれ、「まるでSF世界が現実のものとなるかのようです」と彼女は言う。

(翻訳:古川奈々子)

参考文献

  1. Huh D. et al. Nature Protocols 8, 2135–2157(2013).
  2. Kang J. H. et al. Nature Medicine 20, 1211–1216(2014).
  3. Eklund S. E. et al. Sensors 9, 2117–2133(2009).

キーワード

Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

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