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地平線に見えてきた複雑性

コンピューター科学の分野で生まれたある概念が、基礎物理学においても重要な役割を果たし、時空の新しい理解への道を示す可能性がある。

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Nature ダイジェスト Vol. 11 No. 8 | doi : 10.1038/ndigest.2014.140824

原文:Nature (2014-05-29) | doi: 10.1038/509552a | Complexity on the horizon

Amanda Gefter

物理学者のLeonard Susskindは、最近、講演を行うときに、「I ♥ Complexity(アイ・ラブ・複雑性)」というロゴの入った黒いTシャツを着ていることが多い。よく見ると、真ん中に描かれているのはハートではなくマンデルブロ集合(下図参照)だ。マンデルブロ集合はフラクタル図形で、最も美しい複雑性のシンボルとして広く親しまれている。

マンデルブロ集合
経済学者でもある数学者ブノワ・マンデルブロが見いだした図形で、数式の反復計算によって描き出される。フラクタル図形(自己相似な図形)の一種。

Thinkstock

彼のメッセージのほとんどが、このロゴに集約されている。スタンフォード大学(米国カリフォルニア州)の74歳の理論家Susskindは、量子力学をアインシュタインの重力理論である一般相対性理論と統合する研究を長きにわたって先導してきた。困難な統一理論を模索する彼は、超弦理論や、我々の三次元の宇宙は二次元のホログラムであるとする概念など、直観的に捉えにくいアイデアを次々に提唱してきた。

彼は今も、他の少数の研究者とともに、これらと同じくらい奇妙な新概念を提唱し続けている。謎めいた「万物の理論」のカギは、計算複雑性理論として知られるコンピューター科学の1分野にあるというのだ。

計算複雑性理論は、物理学者が基礎的な洞察を求めて首を突っ込むような分野ではない。この理論は、あるアルゴリズムを実行するためにはいくつの論理ステップが必要か、などの実践的な問題を扱うものであるからだ。けれどもSusskindは、このアプローチがうまくいけば、理論物理学者が近年直面している難問の1つを解決できるかもしれないと考えている。それは「ブラックホール・ファイヤーウォール・パラドックス」と呼ばれる問題で、これによると、量子力学か一般相対性理論のいずれかが間違っていることになってしまいそうなのだ。Susskindによると、計算複雑性理論は、このパラドックスを解決するだけではないという。情報に基づく概念を利用して量子力学と一般相対性理論を統合する全く新しい方法も与えてくれる、というのが彼の主張だ。

ファイヤーウォールの向こう側

全ては40年前に始まった。ケンブリッジ大学(英国)の物理学者Stephen Hawkingが、ブラックホールは量子効果によって光子やその他の粒子を放射するため、最終的には完全に蒸発してしまうことに気付いたのだ。

他の研究者たちが直ちに指摘したように、この思いつきは厄介な矛盾をもたらした。ブラックホールの中に落ちていく物体は、「事象の地平線(この境界の内側ではブラックホールの重力が強過ぎて、光でさえ逃げ出すことができなくなる)」を横切るときにも、全く同じ情報を持っている。また、量子力学の法則によると、ブラックホールから出ていく放射は、ブラックホールの内部に落ちた全てのものに関する情報を保持していなければならない。この2方向の流れは、「量子情報の完全な複製を作ることは不可能である」という量子力学の重要な定理(量子複製不可能定理)に反しているのだ。

Susskindらは1995年に、自然は2つの複製を同時に見るのを不可能にすることで、こうした矛盾が生じないようにしているようだ、とする考察を発表した1。事象の地平線の外側にとどまっている観察者は、ブラックホールの中に落ちた観察者と連絡をとることはできないというわけである。けれども2012年に、カリフォルニア大学サンタバーバラ校(米国)のAMPSと呼ばれる4人の物理学者(Ahmed Almheiri、Donald Marolf、Joseph Polchinski、James Sully)が、この法則の危険な例外に気が付いた2。彼らは、観察者がブラックホールからの放射に含まれる情報を解読してからブラックホールの中に飛び込んで、その情報を「禁じられた複製」と比較するというシナリオを発見したのだ。

このような困った事態を回避するために、自然は事象の地平線のすぐ内側に燃えさかる「ファイヤーウォール」を作り、そこを突破しようとする全ての観測者(全ての粒子)を焼き尽くしている、とAMPSは結論付けた。だが、アインシュタインの重力理論によれば、空間は事象の地平線でも完全に連続であるはずだ。AMPSの理論では、ファイヤーウォールで唐突に空間が途切れることになるため、彼らの理論が正しいなら、「一般相対性理論にとって恐ろしい打撃になります」と、カリフォルニア大学バークレー校の理論物理学者Raphael Boussoは言う。

計算複雑性理論

それ以来、基礎物理学は混乱の中にあり、専門家たちはパラドックスを解決しようと悪戦苦闘してきた。この論争に計算複雑性理論を最初に持ち込んだのは、スタンフォード大学の物理学者でコンピューター科学者でもあるPatrick Haydenと、プリンストン大学(米国ニュージャージー州)の物理学者Daniel Harlowだった。彼らは、ファイヤーウォールの議論がブラックホールから出る放射を解読する観察者の能力にかかっているのだとしたら、解読はどのくらい困難なのだろうかと考えたのだ。つまり、「解読のシナリオ」が本当に実現し得るかどうか、検討したのである。

その結論は、「不可能と言ってよいほど困難」だった。計算複雑性の分析は、ブラックホールから情報を持って出ていく放射粒子の数が増えるにつれて、その解読に必要なステップ数が指数関数的に増加することを示していた。ブラックホールが全エネルギーを放出し、禁じられた「情報の複製」とともに消滅してしまう前にこの計算を終えられるようなコンピューターなど考えられない。だから、そのようなファイヤーウォールが存在する理由はない。ファイヤーウォールの存在を要請するような「解読のシナリオ」が実現しないなら、パラドックスも消え失せることになる。

Haydenは当初、この結論に懐疑的だった。けれどもその後、彼とHarlowは、多くの種類のブラックホールについて同様の結論に達した3。「それは、確固たる原理であるように思われました。ブラックホールが消滅する前に解読を終えることを、自然の陰謀が阻止しているのです」とHaydenは言う。

HarlowとHaydenの主張は、計算複雑性理論と量子計算の限界について研究しているマサチューセッツ工科大学(米国ケンブリッジ)のScott Aaronsonに強い印象を与えた。「私はこれまで物理学とコンピューター科学を統合する試みをいろいろ見てきましたが、彼らの考察は特に優れたものの1つだと思います」。

彼らの主張は理論物理学者からも強く支持されたが、全ての研究者が納得したわけではない。計算が正しいにしても、「この枠組みの中で基礎理論を構築する方法など、見当もつかないからです」とPolchinskiは指摘する。

そうした意見があるにもかかわらず、物理学とコンピューター科学の統合に挑戦している物理学者もいる。理論物理学の分野では、自然法則は何らかの方法で情報に基づいていなければならないと広く信じられている。そこに、「自然法則が(情報の用語によって完全に定義される)計算複雑性に支えられている可能性がある」という着想を取り入れることができれば、物理学において全く新しい展望が開かれることになるからだ。

実際、Susskindはこの着想から出発して複雑性の役割に関する考察を深めていった。数学的明確さのため、彼は「反ド・ジッター空間(AdS)」という理論的領域に計算を限定することにした。AdSの宇宙は、ブラックホールを含めた全てのものが重力に支配されているという意味では我々の宇宙に似ているが、境界がある点で我々の宇宙とは異なっている。この境界領域には重力がなく、素粒子と場は量子力学に従っている。このような違いがあるにもかかわらず、AdSの物理学的な検証からは多くの洞察が得られる。この空間内にある全ての物体と物理過程が、境界上の物体や物理過程に数学的にマッピングされるからだ。例えば、AdS内にあるブラックホールは、その境界にあるごく普通の量子的粒子の高温のガスに相当する。さらに都合の良いことに、ある領域では複雑な計算が、別の領域では単純になることがしばしばあるのだ。AdSでの計算が終わったら、その知見は、我々の宇宙に関する知見へと一般的に翻訳することができる。

増大する複雑性

Susskindは、AdS宇宙の中心にあるブラックホールを調べ、その境界の記述を利用してブラックホールの「事象の地平線」の内部で起こることを探ろうとした。それは、他の研究者も挑戦し、失敗していた研究だった。Susskindは、計算複雑性理論の観点からこの問題を検討することで、他の人々が失敗した理由を見いだした。AdS宇宙の境界からブラックホールの内部への翻訳には膨大な数の計算ステップが必要であり、事象の地平線に近づくにつれて、その数が指数関数的に増加してしまうのだ4。Aaronsonが言うように「ブラックホールの内部は計算複雑性の鎧で守られている」のである。

さらにSusskindは、計算複雑性が時間とともに増大する傾向があることに気付いた。これは、日常の物理学でおなじみの無秩序さ(すなわちエントロピー)の増大とは別のものだ。境界の粒子間の相互作用が、その集合的な量子状態の複雑性を爆発的に増大させることにより生じる、純粋な量子効果である。

この増大は何を意味するのだろうか? 少なくとも、複雑性が重力場によく似た作用をすることを意味している、とSusskindは主張する。ブラックホールの外側に物体が1つ浮かんでいるところを想像してみてほしい。ここはAdSなので、物体は境界の粒子と場の構成によって記述される。境界の記述の複雑性は時間とともに増大する傾向があるため、物体は空間内の複雑性がより高い領域へと移動していくことになる。けれどもそれは、物体がブラックホールに引き込まれていくことを別の言葉で表現しているにすぎない、とSusskindは言う。彼はこの考察を、「物が落下するのは、複雑性を求める傾向があるからだ」という標語にまとめた4

複雑性が増大することのもう1つの意味は、Susskindが2013年、Juan Maldacenaとの共同研究として発表した主張と密接に関連している5。Maldacenaはプリンストン高等研究所(米国ニュージャージー州)の物理学者で、AdSのユニークな特徴に最初に気付いた人物である。一般相対性理論によれば、何光年も離れたところにある2つのブラックホールの内部が、ワームホールという時空のトンネルでつながっていることがあり得る、とSusskindとMaldacenaは指摘する。けれども量子力学によれば、遠く離れた2つのブラックホールは、その状態の「もつれ」(量子状態に関する情報が距離とは無関係に共有されること)によって結びつくこともできるという。

2種類の結び付きの多くの類似性を検討したSusskindとMaldacenaは、これらは同じものの2つの側面である、と結論付けた。すなわち、純粋な量子現象であるブラックホールの「もつれ」の度合いが、純粋な幾何学の問題であるワームホールの幅を決定するというのである。

Susskindの最新の研究からは、AdSの境界における複雑性の増大はワームホールの長さの増加として現れることが明らかになったという。これらを考え合わせると、量子もつれは何らかの方法で空間と関連していて、計算複雑性は何らかの方法で時間と関連しているようである。

Susskind自身、こうしたアイデアは示唆に富む提案にすぎず、成熟した理論ではないと認めている。けれども彼とその仲間たちは、このアイデアはファイヤーウォールのパラドックスを超越すると確信している。

「こうした考察がどこに向かうのか、私には分かりません」とSusskindは言う。「ただ、複雑性と幾何学とのこうした結び付きは氷山の一角にすぎないと信じています」。

(翻訳:三枝小夜子)

Amanda Gefterは、米国マサチューセッツ州ケンブリッジ在住のフリーランスのライター。

参考文献

  1. Lowe, D. A., Polchinski, J., Susskind, L., Thorlacius, L. & Uglum, J. Phys. Rev. D 52, 6997 (1995).
  2. Almheiri, A., Marolf, D., Polchinski, J. & Sully, J.J. High Energy Phys. 2013, 62 (2013).
  3. Harlow, D. & Hayden, P. J. High Energy Phys. 2013, 85 (2013).
  4. Susskind, L. Preprint available at http://arxiv.org/abs/1402.5674(2014).
  5. Maldacena. J. & Susskind, L. Fortschr. Phys.61, 781-811 (2013).

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Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

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