反物質研究の最前線
欧州原子核研究機構(CERN;スイス・ジュネーブ郊外)の実験棟の高い天井の下では、「宇宙で最も捉えがたい存在」の謎を解き明かそうと、6つの実験チームが競い合っている。お互いの距離は数mしか離れていない。場所によっては上下に重なっていることもある。彼らの頭上には、ショッピングセンターのエスカレーターのように交差する、金属材を支える重さ数トンのコンクリートの塊が迫っている。AEGIS実験チームを率いる物理学者のMichael Doserは、「私たちは常にお互いを意識しています」と言う。彼らの目標は、「反物質」が重力にどのように反応するかを最初に解明することだ。反物質とは物質の鏡像に相当する物質で、自然界にはほとんど存在しない。
Doserとライバルたちは、CERNで仲良くやっていくしかない。反陽子(電荷と磁気モーメントの符号が逆である以外は陽子と全く同じに見える粒子)を供給できる施設は、世界中でCERNしかないからだ。CERNの反陽子減速器(Antiproton Decelerator;AD)は円周182mのリングで、より大型の有名な大型ハドロン衝突型加速器(Large Hadron Collider;LHC)と同じシンクロトロンから粒子を供給されている。ADは、光速に近い速度で入ってくる反陽子を減速し、各実験チームはこの低速の反陽子を交代で使って実験を行う。反陽子の操作は慎重に行わなければならない。物質と出合った途端、エネルギーに変わって消滅してしまうからである。
科学者たちは数十年前から、反陽子や、これを利用して作る反水素原子を閉じ込めて、その性質を調べるために努力してきた。この数年の進歩は目覚ましく、十分な数の反粒子を制御できるようになった実験家は反物質の精査に乗り出し、その基本的な性質や内部構造を測定する精度はどんどん向上している。ALPHA実験を率いるJeffrey Hangstは、自分たちのチームは、少なくとも原理的には、他の研究者が水素で行っていることなら何でも反水素でできるようになったと言う。「私は、今のために25年間努力してきたのです」とHangst。
彼らの実験からは多くのことが明らかになるはずだ。物質と反物質にほんのわずかでも違いがあれば、この宇宙にものが存在している理由を説明することができる。現時点で分かっているところによれば、物質と反物質は初期の宇宙で同じ量ずつ生成し、お互いに激しく反応して消滅したはずだ。けれども実際にはそうはならず、物質ばかりが残って、反物質はほとんど存在していない。この根本的な不均衡の起源は、物理学の最大の謎の1つとされている。
この謎が、CERNでの実験により近いうちに解き明かされる可能性は低い。これまでの実験から、反物質は腹立たしいほど物質とよく似ていることが分かっていて、多くの物理学者は、おそらく違いはないだろうと考えている。物質と反物質に違いがあったら、現代物理学の基礎が揺らいでしまうからだ。CERNでの反物質実験は30年前に始まり、現在も6つの実験が行われている。反物質のパラドックスを説明できるような未知の粒子を探すLHCがいまだに何も見つけられていないことから、この6つの実験に改めて注目が集まっている。さらに、反物質を操作する技術が急速に進歩したことを受け、CERNの反陽子生成装置が大幅に改良されることになった。2017年末までに、最先端の反粒子減速器が稼働し始め、最終的には現在の100倍以上の数の粒子を使って実験できるようになる予定だ。
CERNで反物質実験に取り組む数十人の物理学者は、自分たちの挑戦の厳しさをよく知っている。反物質の扱いは厄介だし、チーム間の競争は激しく、新たな発見ができる可能性は低そうだ。それでも彼らは、宇宙をのぞき込む新しい窓を開けたいという希望に突き動かされている。「これは離れ業としか言いようのない実験です。何らかの答えが得られれば、それがどんなものであっても、大いに誇りに思ってよいのです」とHangstは言う。反物質研究から大発見が得られる保証はない。しかし、「何かをつかんだら、無視することはできないでしょう」。
反物質の発見
反物質物理学の始まりは、英国の物理学者ポール・ディラックが光速に近い速度で運動する電子を記述する方程式を書いた1928年まで遡ることができる1。ディラックは、自分の方程式には正の解と負の解の両方があることに気付いた。彼はその後、この数学的な思い付きを、今日の陽電子に相当する「反電子」の存在を示唆するものとして解釈し、それぞれの粒子に対応する反物質が存在しているとする理論を立てた。
1932年には実験家のカール・アンダーソンが、磁場中を運動する際に電子とは逆方向に曲がる軌跡になること以外は電子と全く同じように振る舞う粒子を発見して、陽電子の存在を確認した。物理学者たちは間もなく、衝突によって陽電子を作れることに気が付いた。十分なエネルギーを持つ素粒子同士を衝突させると、エネルギーの一部が物質と反物質のペアに変わるのだ。
1950年代までには、エネルギーから粒子への転換を利用して反陽子が作られるようになっていた。しかし、反陽子を捕獲して調べるのに十分な量を作る方法を見いだすまでには、それから数十年を要した。研究者たちの夢は、反陽子と陽電子を対にして反水素原子を作り、よく研究されている水素原子と比較することだった。
陽電子を作るのは大して難しくない。陽電子はある種の放射性崩壊によって生成し、電場と磁場を使って容易に捕獲することができる。しかし、陽電子に比べて質量の大きい反陽子はそうはいかない。反陽子は、高密度の金属に陽子を叩きつけることで作れるが、衝突によって生成した反陽子は高速すぎて電磁トラップでは捕獲できないのだ。
反物質ハンターは、反粒子を大幅に減速する(つまり冷却する)方法を見つける必要があった。CERNでは、反物質を減速して貯蔵する試みは、1982年の低速反陽子リング(Low Energy Antiproton Ring;LEAR)から始まった。この施設の反陽子を使って最初の反水素原子が作られたのは、LEARの運転が終了する前年の1995年のことだった2。
ADは、LEARに代わる反陽子減速器として、2000年に3つの実験と共に稼働し始めた。LEARと同様、ADも反粒子を減速する装置で、最初に磁石を使って反陽子を収束させ、次に強い電場を使って減速する。電子ビームも反陽子との間で熱をやり取りしてこれを冷却するが、反陽子に触れることはない。どちらの粒子も負の電荷を持っていて、互いに反発するからだ。一連のプロセスにより、反陽子の速度は光速の10分の1まで遅くなる。それでも調べるには速すぎるので、6つの実験はそれぞれの技術を使って反陽子をさらに減速して閉じ込めている。
減速の過程で反陽子の数は大幅に減少する。1回の「ショット」では12兆個の陽子を標的に衝突させ、生成した3000万個の反陽子を実験チームに供給する。HangstのALPHA実験の場合、反陽子を十分に減速し、陽電子とペアにして反水素を形成させた時点で、粒子は30個しか残っていない。残りは逃げ出したか、消滅したか、速すぎたり調べるのに適さない条件になっていたりするなどの理由で捨てられる。こんなに少数の反水素原子で実験を行うのは本当に骨が折れるとHangstは言う。「これだけ少ない材料で研究をしていると、物理学の他の分野の見方がすっかり変わってしまいますよ」。
いろいろな反物質
CERNでの反物質研究は、将来的には、ドイツのダルムシュタットにできる国際加速器施設FAIR(Facility for Antiproton and Ion Research、反陽子・イオン研究施設)と競い合うことになる。FAIRの建設費は10億ユーロ(約1200億円)で、2025年ごろに完成する予定である。それまでは、精密に測定できる低速の反陽子を作れるのはCERNだけという状況が続く。
CERNの反物質研究施設では現在、6つの実験のうち5つが行われている(GBAR実験はまだ建設中であるため)。それぞれの実験は独自の方法で反陽子を調べていて、他では行っていないような実験をしているチームもあるが、しばしば同じ性質の測定を競い合い、お互いの測定値を独立に検証している(「CERNの反物質実験」参照)。
実験チームは1本のビームを共有しているため、2週間の実験期間中、5つの実験のうちの3つだけが8時間交代でビームを利用できるようになっている。精密な測定が台無しになることがないように、実験チームは週に1度調整会議を開いて、隣のチームが磁石を使う時間が分かるようにしている。彼らはこんなに近いところで実験しているにもかかわらず、隣のチームの論文を読んで初めてそのブレイクスルーを知ることが多いという。「私たちは常に競争しているのです。悪いことではありません。やる気を奮い立たせてくれますから」とHangst。
6つの実験のうち、ADから供給される反陽子をそのまま調べているのはBASE実験だけである。BASE実験では、粒子を縦方向に閉じ込める電場と円運動させる磁場を組み合わせたペニングトラップの中に反陽子を捕獲する。反陽子は1年以上貯蔵することができ、研究チームはトラップ中の反陽子の軌道を利用して粒子の質量電荷比を記録的な精度で決定した3。また、複雑な手法を用いることで、反陽子の磁気モーメント(磁石としての強さと向きを表す物理量)の測定にも成功した4。この測定では、個々の粒子を2つの別々のトラップの間で素早く切り替え、振動するマイクロ波場のわずかなシフトが引き起こす変化を検出した。共同実験チームを率いる日本の理化学研究所(埼玉県和光市)の物理学者Stefan Ulmerは、大変な努力を重ねてこの技術を完成させた。「私の心血を注いだ技術です」と彼は言う。
CERNでは反水素原子の実験をしているチームもあるが、この実験には特有の難しさがある。電気的に中性な反水素原子は電場に反応しないため、制御することがほとんどできないからだ。実験では反水素原子の弱い磁気的性質を利用することになり、粒子を「磁気瓶」に閉じ込めている。磁気瓶に反水素原子を閉じ込めるためには、瓶の内部の磁場に大きな勾配をつける必要があり、わずか1mmの間に1テスラ(スクラップ置き場で自動車を持ち上げる磁石の強さ)も変化させなければならない。その上、反水素原子の温度を0.5ケルビン未満にしないと、反水素原子は磁気瓶から逃げ出してしまう。
高速の反陽子を使って作られた最初の反水素原子は、約400億分の1秒しか存在し続けることができなかった。2002年に、ATRAPとATHENA(ALPHAの前の実験)の2つは、反陽子を十分に減速してまとまった量の反水素原子を作ることに初めて成功し、それぞれ数千個の原子を集めた5。大きなブレイクスルーがあったのはそれからほぼ10年後で、研究者は反水素原子を何分間も閉じ込められるようになった6。彼らはそれ以来、反水素原子の電荷や質量などの性質を測定したり、レーザー光線を使ってエネルギーレベルを調べたりしてきた7(Nature ダイジェスト 2017年2月号「反水素原子の分光測定に成功」参照)。ALPHA実験はNature 2017年8月3日号66ページで、反水素原子の超微細構造(反水素を構成する反陽子と陽電子の相互作用によって生じるエネルギー準位の細かい分裂)をこれまでで最も高い精度で測定できたと報告している8。
このように、CERNの反物質実験チームは、反物質のさまざまな性質を調べて、物質との違いはないかと探っている。反物質の専門家としてASACUSA実験を率いる堀正樹は、全員の目標は不確実性を小さくしていくことだと言う。彼らの実験では、反水素原子がトラップによって壊されることがないように、飛行中の反水素原子をレーザーを使って調べている。研究チームは2016年、反陽子ヘリウム原子(ヘリウム原子の2個の電子のうち1個が反陽子と置き換わったエキゾチックな原子)を使って、電子と反陽子の質量比を精密に測定した9。これまでに行われた他の測定と同様、物質と反物質の違いは全く示されなかった。しかし、測定結果が出るたびに、物質と反物質が本当にお互いの鏡像になっているかが、どんどん高い精度で検証されていくのだ。
物質と反物質の違い
実験により物質と反物質の違いが検出されたら、それはCPT(荷電共役変換、パリティ反転、時間反転)対称性の破れを意味し、物理学の根幹に関わる発見になる。CPT対称性によると、反物質だけからなり時間が後ろ向きに進む「鏡像の宇宙」では、私たちの宇宙と同じ物理法則が成り立つことになる。CPT対称性は相対性理論や場の量子論の背骨であり、その破れは、ある意味、物理学の破綻を意味する。実際、反物質実験から何らかの新しい発見があると予想するのは、標準理論から外れた理論だけである。
こうした理由から、LHCの物理学者たちは、隣で反物質実験をする研究者たちに「当惑しつつも注目している」と、30年にわたり反物質実験に取り組んできたDoserは言う。「彼らは反物質に興味は持っていますが、新しい発見があるとは思っていません」。CERNの理論家Urs Wiedemannも、そう考えているようだ。彼は、実験チームが反物質を操作する能力には「圧倒される」ものがあるし、理論を検証する必要があるのは当然だが、「新しい発見を期待する物理学的根拠があるかと問われれば、私は『ない』と答えるでしょう」と言う。
とはいえ、LHCも反物質の謎の解決に貢献しているとは言い難い。1960年代の実験から、ある種の物理過程(エキゾチックなK中間子がもっと一般的な粒子に崩壊する過程など)には、物質を優位にするような小さな対称性の破れがあることが分かっていた。LHC実験は、そうした対称性の破れの他の例を探すだけでなく、初期宇宙における振る舞いから今日の物質と反物質の大きな不均衡を説明できるような未知の粒子も探している。これらの粒子は、素粒子物理学の難問を解決するために提唱された超対称性理論から予想されるものであり、存在すると考えることには十分な根拠がある。それにもかかわらず、LHCで8年間探してもいまだに見つかっていない。超対称性理論の魅力は単純でエレガントな点にあるが、現在、最も単純で、最もエレガントなバージョンはほぼ否定されている。「今のLHCは、理論による指針がほとんどないまま、あるかないかも分からない仮説的な粒子を探しています。ある意味、私たちと同じ状況です」とDoserは言う。
いくつかのチームは現在、重力の下での反物質の加速度を測定するという次なる大きな課題に挑戦している。ほとんどの物理学者は、反物質は物質と全く同じように落下するだろうと考えている。しかし、少数派の理論の中には、反物質は「負の質量」を持ち、物質との間では引力ではなく反発力が働くと予想するものがある。反物質がこのような性質を持っていれば、正体不明の暗黒エネルギーや暗黒物質の作用を説明できるかもしれない。しかし、主流派の理論家のほとんどは、そのような宇宙は本質的に不安定だと考えている。
反物質は上に「落ちる」か
自由落下する反水素原子を測定するには、これまでと同様、十分に冷却することが課題となる。ごく小さな熱揺らぎでさえ、落下する原子からのシグナルを覆い隠してしまうからだ。さらに、この実験には反水素原子のように電気的に中性な粒子しか使えない。粒子が電荷を持っていると、遠くに電磁場源があるだけで、重力よりも大きい力を受けてしまうからである。
Hangstのグループは、2018年に、有効性が証明されている技術(彼らのALPHA実験を縦にしたもの)を使って、重力を受けた反物質が上と下のどちらに「落ちる」かを最終的に決定することを目指している。「最初に成功するのは私たちだと確信しています。そうでなければやりません」と彼は言う。しかし、DoserのAEGIS実験と反物質実験施設の新参メンバーであるGBAR実験も、Hangstのチームを激しく追い上げている。両チームはレーザー冷却技術を利用して精度を大幅に高めていて、現在ALPHA実験が検出できる物質と反物質の加速度の差よりも小さな差を検出できるようになる予定だ。AEGIS実験が水平の反水素ビームの屈曲を測定するのに対して、GBAR実験では反水素原子を20cm自由落下させる。どちらの実験も、反水素原子の温度を絶対零度より1000分の数度だけ高い温度まで下げることで、重力加速度を100分の1の精度で測定する。将来的には、さらに精度を上げていく予定だ。
今、ADの内側には超低速反陽子リングELENA(Extra Low ENergy Antiproton decelerating ring)がある。ELENAはADから供給される反陽子をさらに減速するために2500万スイスフラン(約27.5億円)を投じて建設された新しいリングで、円周は30mだ。反物質実験チームは2017年中にELENAから供給される反陽子を利用できるようになる。最初に利用するのはGBAR実験だが、最終的には、全ての実験に、ほとんど同時に粒子を供給できるようになる。反陽子の速度は7分の1になり、より収束したビームになって到着する。初期段階でより効率よく冷却されるので、各実験は、より多くの粒子を閉じ込められるようになると期待される。
実験チームの努力により反物質の操作やテストが可能になったことで、より多くの物理学者が反物質の測定に興味を持つようになった、とHangstは言う。実験のアイデアを提案してくる研究者や、チェックすべき数値を教えてくる研究者もいる。反物質実験チームは外に目を向け、自分たちの技術を他の研究分野に役立てることはできないかと考えるようになった。例えば、GBAR実験チームは、不安定な放射性元素の中性子の地図を作るために、反陽子をCERNのISOLDE実験に持って行くための携帯用トラップを開発中だ。
Doserは、技術的な行き詰まりによって進歩が滞ったりしなければ、物理学者は2020年代の終わりまでに反物質の扱いに習熟し、反物質原子時計を制作するなど、原子物理学のさまざまな偉業を反物質を使って再現できるようになるだろうと予想している。「どんどんアイデアが出てくるのです。この分野が順調に前進している証拠です」と彼は言う。「後は私自身がCERNから追い出されないことを祈るだけです。何しろ私は、今後30年分の計画を持っているので」。
翻訳:三枝小夜子
Nature ダイジェスト Vol. 14 No. 11
DOI: 10.1038/ndigest.2017.171125
原文
The race to reveal antimatter’s secrets- Nature (2017-08-03) | DOI: 10.1038/548020a
- Elizabeth Gibney
- Elizabeth Gibneyは、ロンドン在住のNature上級記者。
参考文献
- Dirac, P. A. M. Proc. R. Soc. A 117, 610–624 (1928).
- Baur, G. et al. Phys. Lett. B 368, 251–258 (1996).
- Ulmer, S. et al. Nature 524, 196–199 (2015).
- Nagahama, H. et al. Nature Communications 8, 14084 (2017).
- Amoretti, M. et al. Nature 419, 456–459 (2002).
- ALPHA Collaboration Nature Physics 7, 558–564 (2011).
- Ahmadi, M. et al. Nature 541, 506–510 (2017).
- Ahmadi, M. et al. Nature 548, 66–69 (2017).
- Hori, M. et al. Science 354, 610–614 (2016).