Editorial

科学者の電子メールに、プライバシーはない

「すべての文書、データ、通信文の提出を命ずる」。2011年の年末にかけて、ウッズホール海洋研究所(米国マサチューセッツ州)に送達された文書提出令状には、こう記載されていた。

エネルギー企業BP社は、2010年にメキシコ湾で発生したディープウォーター・ホライズン原油流出事故に関して、同研究所による研究と関連する電子メールおよびその他の文書の提出を要求した。一方、同研究所は、こうした包括的な請求は棄却するよう求めた。しかし米国の地方裁判所は、同研究所研究員に、数千点に及ぶ電子メールを強制提出させる決定を下した。今回の決定は、一部の論者が警告したほど深刻な状況にはなっていないが、米国の科学に憂慮すべき影響を与えている。

電子メール提出要求は、米国政府と原油流出事故の被害者がBPに対して提起した大型訴訟の中で申し立てられたものだった。もし裁判所が、米国政府による流出規模の想定に沿った認定を行えば、BPは、流出した原油1バレル当たり最大4300ドル(約34万円)の罰金、つまり総額170億ドル(約1兆4000億円)の罰金を科せられることになる。BPは、この政府の想定がBPの想定をかなり上回っており、それが、ウッズホール研究所で行われた研究に大きく依存しているとし、この研究には「ウッズホールの研究員の不可解で、恣意性が感じられ、片寄りのあることが疑われるきわめて重要な決定」が関与していると主張した。

ウッズホール研究所は、この大型訴訟の当事者ではないが、事故後1か月以内に、破損した油井から噴出する原油とガスの量を測定する契約を米国政府との間で結んでいた。その後、同研究所の研究員が、分析の精緻化を図り、原油流出に関する論文を学術誌に発表した。また、1人の研究員は政府のパネルに参加し、原油流出規模の見積もりを聞かれてもいる。

訴訟の中で、BP社弁護団は、ウッズホール研究所が収集した生データと同研究所の研究員が用いた方法の内容説明では不十分だと主張した。ウッズホール研究所は、BPの当初の請求を受けて、データと分析ツールのかなりの部分をBPに提出したが、秘匿されている研究者間の通信内容の開示については争う姿勢を示し、これまで裁判所は「学者の特権」の重要性を認め、研究者間の通信の秘密を保護してきたと主張した。しかし、裁判長は、秘密に関する学者の特権という原則は認めたものの、それには限度があることを指摘して、同研究所の主張を退けた。そして、裁判長は、政府主導の調査グループが2011年3月に報告書を発表する前の時期における同研究所での電子メールとその他の通信文書に関して、BP側に十分な必要性があると認定した。今後、同研究所とBPの間で訴訟が起これば、このBPに開示された電子メールが公表される可能性もある。

一方で裁判長は、2011年3月の報告書発表後の期間、つまり、ウッズホール研究所の研究員が論文発表を準備していた期間については、通信内容の開示を認めなかった。「BPがこのような論文のための分析文書を閲覧できるとなれば、今後の研究活動の妨げとなる可能性がある」からだ。

BP社もウッズホール海洋研究所もこの決定には満足せず、BPはすべての文書の開示を求めて抗告したが、棄却された。一方、同研究所は、電子メールの提出を認めれば、研究者は、訴訟の対象となる可能性のある研究テーマを避けざるを得なくなり、科学に対する萎縮効果が生じる、と主張している。

今回の裁判所の決定は、警告として意義がある。大きな力を持つ特別利益団体に対して、複合的で相反する影響を及ぼすような研究課題を選ぶとき、研究者は十分に注意を払い、リスクを認識しておかねばならない。ウッズホール研究所の研究員は、電子メールを提出せざるを得なかっただけでなく、裁判所の命令に従うために数百時間も費やす必要があったのだ。また、訴訟にかかわる費用のために、非営利組織であるウッズホール研究所のかなりの資金が失われた。

もう1つ忘れてはならない教訓は、科学者の電子メールにプライバシーはない、ということだ。手段は窃盗行為であれ裁判所命令であれ、通信内容が明るみに出る可能性が常にあることを、科学者は肝に銘ずるべきである。

翻訳:菊川 要

Nature ダイジェスト Vol. 9 No. 9

DOI: 10.1038/ndigest.2012.120936

原文

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  • Nature (2012-06-14) | DOI: 10.1038/486157a