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ヒッグス粒子の発見と今後

たくさんの物理学者たちが、その夜を、会場外のホールにぎゅうぎゅう詰めになって過ごした。歴史的な現場に立ち会いたいという思いからだ。何時間も列を作って待ち、寝不足で赤い目をしていたが、その大半は午前8時までに入場を断られた。この日、スイスのジュネーブ近郊にある欧州原子核共同研究機関(CERN)の階段教室に入ることができた幸運な人たちは、高エネルギー物理学における長い探求の1つの終わりを目撃した。しかしそれは、新しい作戦の始まりでもある。

2012年7月4日、CERNの2つの実験グループが、「ヒッグス粒子とみられる粒子を発見した」と発表した。物理学者たちは、素粒子物理学の標準模型というジグソーパズルの最後のピースを見つけたのだ。標準模型は、重力を除くすべての基本的な力と粒子をきわめて正確に記述する理論的枠組みである。

ヒッグス粒子の発見は、CERNが建設した大型ハドロン衝突型加速器(LHC)の主たる目標とされてきた。LHCは円周27kmの陽子・陽子衝突型加速器であり、60億米ドル(約4700億円)の費用をかけて建設された。円周の4か所にはビルほどの大きさの検出器がある。この加速器と検出器を作り上げるために、数千人の物理学者が10年以上をかけて取り組んだ。

今回の発見は、LHCに新たな使命を与えることにもなった。それはヒッグス粒子の性質を明らかにするというものだ。またLHCのデータは、標準模型を超える何らかの徴候を求め、詳細に分析されていくだろう。めざすのは、宇宙の統一した理解を可能にする、さらに包括的な理論だ。

素粒子物理学における久々の大発見は、緩やかに傾斜するグラフの控えめな「こぶ」としてその姿を現した(「運命のこぶ」を参照)。ヒッグス粒子を追いかけていた2つの主要な実験グループが、そのデータをスクリーンに投影すると、会場に拍手の嵐が湧き起こった。そのこぶは、約125 GeV(ギガ電子ボルト)の質量を持つヒッグス粒子が存在している明らかな信号だった(素粒子物理学では質量とエネルギーは同じ意味で使われる)。ATLASとCMSと呼ばれる両検出器グループは、信号の有意性はおよそ5σ(σ=標準偏差)だと報告した。これは、もしもヒッグス粒子が存在しなければ、このデータを偶然に得る確率は100万分の1より小さい、という意味である。

英国の理論物理学者Peter Higgsのほか、Gerald Guralnik(米国)、Carl Hagen(同)、François Englert(ベルギー)ら、1964年に最初にヒッグス粒子を予言した物理学者のうち4人が発表の場に出席していた。83歳のHiggsは「私が生きている間にヒッグス粒子が見つかるなんて、本当に信じられません」と聴衆に語り、涙をこらえた。

ヒッグス粒子はヒッグス場が粒子として現れたものであり、ヒッグス場は既知の粒子の質量の究極的な原因だ(解説「ヒッグスとは何か」を参照)。引退した物理学者で、英国のインペリアル・カレッジ・ロンドンで研究を行っていたTom Kibbleは、「ヒッグス粒子が存在する証拠は、数十年前から増え続けていました」と話す。Kibbleもヒッグス粒子を予言した理論物理学者の1人だ。

ヒッグス粒子とヒッグス場が理論的に必要になったのは、電磁気力と弱い核力を1つの「電弱相互作用」に統一するためだった。ヒッグス場を導入すると、今度はほかの粒子の性質に関する予言が得られる。「その予言は高い精度で実験結果に合いました」とKibbleは語る。しかし、彼は「ヒッグス粒子について、私たちにとって未知で確かめる必要のあることが、相当数あります」とも話す。

特に重要なのが、この粒子のスピンだ。理論によると、ヒッグス粒子のスピンはゼロのはずである。「さもなければ、基本粒子の質量が、その空間での向きによって変化する可能性があります。だから、スピンゼロが必須なのです」とKibbleは話す。もしもこの粒子がゼロでないスピンを持つことになれば、それは衝撃的な発見となる。この粒子は「ヒッグス粒子ではない別の何か」になってしまうからだ。

粒子の崩壊の仕方に関するLHCの最新データからは、粒子のスピンはゼロか2のどちらかであることがわかっている。CMS検出器グループの代表であるJoe Incandelaは、「この粒子の崩壊生成物がLHCを飛び出る方向をさらに調べれば、スピンははっきりするでしょう」と話す。Incandelaは2012年の末までには答えが得られると考えている。LHCの運転を監督しているSteve Myersは「LHCの2012年の運転は3か月延長されることになっています。だから、より多くのデータを集めることができるはずです」と話す。

この新粒子がほかの粒子に崩壊する様式は、ほとんどの場合、標準模型のヒッグス粒子の予測と合っている。しかし、完全には一致しない可能性もあり、それを示す興味深い徴候も見つかっている。1つは、標準模型が予測する確率の約2倍の確率で光子対に崩壊するらしいことだ。また、タウ粒子やW粒子と呼ばれる粒子に崩壊する確率は、予測されていたよりも小さい。こうした食い違いは、現時点では統計的に有意とは言えないが、より多くのデータが集まって確かな事実となれば、標準模型を超える物理現象の発見につながるかもしれない。

例えば、今回検出された粒子が実は複合粒子で、より小さな粒子から構成されているかもしれない。あるいは、ヒッグス粒子ファミリーという新しいグループの、最初の粒子を発見したのかもしれない。ATLAS検出器グループのFabiola Gianotti代表は、発表後の記者会見で「もし、この新しい粒子がヒッグス粒子ではあるものの、標準模型のヒッグス粒子ではないらしいということになったら、私はとてもうれしいです」と話した。Incandelaは、2012年の末までには十分なデータが得られ、このヒッグス粒子が標準模型の予言と完全に合うのか合わないのか、わかるはずだと考えている。

たとえ今回のヒッグス粒子が標準模型の予測どおりに振る舞うとしても、その質量が難しい問題を引き起こす。ラトガース大学ピスカタウェイ校(米国ニュージャージー州)の理論物理学者Matthew Strasslerは、「物理学者の多くが超対称性理論と呼ばれる理論を支持していますが、この理論はもっと軽いヒッグス粒子を予言しているのです」と指摘する。今回報告された約125GeVという質量は、最も単純な超対称性モデルが正しいとすれば重すぎるのだ。また、今のところ、超対称性理論が予言する粒子の存在を示す徴候は、LHCでの実験では現れていない。

スイスとフランスにまたがる丘陵地帯の地下の加速器では、今後も陽子同士が衝突し続ける。物理学者たちは、ここで挙げた難問に対する答えのヒントが、実験で得られるペタバイト(1015バイト)にのぼるデータから得られることを期待している。Incandelaは言う。「私たちは、既存の理論では扱うことのできない問題を探っているのです。この粒子を発見して何がすごいかと言えば、問題のタネそのものを、ついに実験室の中で手に入れたことなのです」。

(翻訳:新庄直樹)

ヒッグスとは何か

ヒッグス粒子の発見は大ニュースとなったが、本当に大きな意味を持つのは、粒子に対応しているヒッグス場だ。ヒッグス場は現代物理学の基本的な構成要素であり、鉄粉を整列させる磁場と同じように、空間にくまなく行き渡り、ヒッグス場の中を運動する粒子と相互作用している。

しかし、1964年にヒッグス機構を最初に提案した6人の理論物理学者の1人Tom Kibbleは、「ヒッグス場は、電磁場などと比べると確かに少し奇妙です」と認める。ヒッグス場は、どこにでもあって向きがない。空気の流れのない静かな洞穴の中の、どこでも一定の気温のようなものだ。ヒッグス場と相互作用すると、粒子は質量を得る。より強く相互作用するとより重くなる。

KibbleやPeter Higgsらは、その当時、最も困難だった物理学の問題を解決するために、ヒッグス場の存在を提案した。1960年代初め、粒子の振る舞いを支配する4つの基本的な力のうち、2つは数学的にほとんど同一であることに理論家たちは気付いていた。2つの力の主な違いは、一方の力を伝える粒子は質量を持ち、もう一方の力を伝える粒子は質量を持たないことだった。

ヒッグス場がこの相違点を説明した。理論によると、ごく初期の宇宙では、ヒッグス場はゼロだった。そして2つの力は1つだった。しかし、ビッグバンからまもなく、ヒッグス場はゼロではない値をとり、この力は分裂した。1つは電磁気力になり、質量のない光の粒子、つまり光子によって媒介される。光子はヒッグス場と相互作用しない。もう1つの力は弱い核力になった。これはある種の放射性崩壊を起こすもので、W粒子とZ粒子と呼ばれる重い粒子を介して働く。W粒子とZ粒子はヒッグス場と相互作用し、質量を得る。ただし、通常の物質は、原子核の中に含まれているクォークなどの粒子間の相互作用から、その質量の大半を得ている。

ヒッグス粒子自身は、ヒッグス場の励起したさざ波と考えることができる。大型ハドロン衝突型加速器でのヒッグス粒子の研究を通して、ヒッグス場が予測どおりに振る舞うのかどうかもわかってくるはずだ。

G.B.

Nature ダイジェスト Vol. 9 No. 9

DOI: 10.1038/ndigest.2012.120909

原文

Higgs triumph opens up field of dreams
  • Nature (2012-07-12) | DOI: 10.1038/487147a
  • Geoff Brumfiel