Editorial

研究が諸刃の剣であることを、再認識しよう

科学者の多くは研究に没頭するあまり、自身の研究がかかわる倫理問題について深く考える余裕がない。また、こうした問題を徹底的に追求したいと考える研究者も、残念ながら非常に少ない。しかし、H5N1鳥インフルエンザウイルス株の遺伝子改変に関する論文公表の問題は、こうした議論の重要性を再認識させてくれた。多くの科学や技術は、人道的な目的にも非倫理的な目的にも利用可能であり、諸刃の剣、あるいは二重用途(デュアルユース)という形をとる(Nature 2012年4月26日号432ページ参照)。

もちろん二重用途技術は科学と同義ではない。例えばナイフは道具にも武器にもなるが、カメの進路決定に関する研究から長距離ミサイル技術は生まれない。しかし、善悪両面の用途に使える基礎科学は、明らかに存在する。そのような研究の中には、非常に少数の専門家だけが関与し、限られた研究者のみが、研究によって生じる危険性を理解しているケースも多い。

外部からの調査が実施できるような仕組みを持った研究分野も一部あるが、研究者の多くは、厄介な問題の提起には消極的だ。理由は、危険性について率直に語ると世間の注目を浴びてしまい、所属研究室に迷惑がかかるからである。また、この場合の危険性はあくまでも仮説であり、架空話にかかわるのは時間のむだだと思ってしまう。そしてもう1つの理由が、楽観主義だ。大部分の研究者は、心底自らの研究が何らかの形で役立っていると考えており、欠点について考えたいと思う研究者は非常に少ない。

しかし、研究の危険性・利益・倫理性についての議論を、外部の人間にゆだねるのは非常に危険だ。第1に、一般国民(市民)が参加する議論の場合、脅威について過小ないしは過大な評価がまぎれ込んでしまう。ナイフの危険は誰でもわかるが、レーザー同位体濃縮技術の危険性を認識できる人間は非常に少ない。しかも、馬鹿げた誤解が横行しており、神経科学研究によって読心術がすでに実現した、と大多数の国民が考えている国さえあるのだ。

議論を外にゆだねる第2の危険性は、「研究がもたらす価値や利益についての懸念」という形で議論が行われる場合、科学者以外の人間が議論の主導権を握るおそれがあることだ。この形が最前面に出てきた例が、特にヨーロッパで、環境保護団体が遺伝子組み換え食品に強く反対したケースだ。組み換え食品の危険性を調べた科学者の大部分は、無視できる程度のわずかな危険性しかないという見解を表明していたのに、聞く耳持たずであった。

第3の危険性は、研究に関する決定が、知識も権限もない規制当局者に最終的にゆだねられてしまう可能性だ。今回のH5N1ウイルス論文は、米国バイオセキュリティー科学諮問委員会(NSABB)が、事実上の査読者となってしまった。またオランダでは、インフルエンザウイルスの変異に関するデータの国外持ち出しに関して、輸出管理当局が権限を持つのかどうか法律論争が起こり、混乱に拍車がかかった。

今回のH5N1論文をめぐる論争への対応として、米国政府は、研究助成機関に対し、研究提案書の審査において、危害をもたらす可能性にもっと注意するよう要請した。しかし、この問題については、研究に関する開かれた議論を奨励することで対応することもできる。これは、個々の研究者が、自分自身の研究に対して警告を発することにもなりかねないが、むしろ、多くの科学者が、そのコミュニティーの一員として、生じる危険性について時間をかけて考える機会となる可能性のほうが高い。研究者は、学会、査読審査、研究助成金交付決定などの場で、同僚研究者による研究が何らかの脅威になっているのかどうか、そして、もしそうであれば、その研究による脅威と利益のバランスについて、公式に問題提起すべきだ。その上で、問題となる論点を整理し、いかなる決定をすべきか議論を重ねていけばよい。

多くの研究助成機関は、米国にならって、初期段階から研究を監視する仕組みについて検討すべきだ。国民が関心を持ちうる問題点があれば、あらかじめ十分に警告する必要がある。科学者であれば、危険と有害性に関する議論を、現実に基づいた形で進行させることができるはずだ。

翻訳:菊川 要

Nature ダイジェスト Vol. 9 No. 7

DOI: 10.1038/ndigest.2012.120732

原文

For better or worse
  • Nature (2012-04-26) | DOI: 10.1038/484415a