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ローレンツの電子論から120年

エレクトロニクス文明を生み出した電子も、100年少し前までは単なる概念にすぎなかった。その電子に明確なイメージを与えたのが、オランダの物理学者H.A.ローレンツである。2012年6月は、彼の卓越した「電子論」が誕生して120周年にあたる。ローレンツの電子は単なる仮想粒子ではなく、その後展開された理論物理学の、まさに要石(かなめいし)となるものであった。現在の物理学者は単純で美しい方程式によって自然を完璧に記述できるという考え方に慣れているが、ローレンツ以前は、そんな考え方は神秘的で怪しいものとされていた。

大半の物理学者にとって、19世紀物理学の記念碑的な成果といえば、J.C.マクスウェルが1854年に作り上げた電場と磁場に関する数学的な理論であろう。その後しばらく停滞の時期があったが、その霧が晴れて、相対性理論と量子論という20世紀の二大巨峰が目の前に姿を現した。しかし、このよく語られる歴史物語は、2つの世紀を結ぶ架け橋を見えにくくしている。実際には、この架け橋自体が、壮烈な努力によって成し遂げられたすばらしい業績だったのだ。

マクスウェルの混乱を純化

話を整理するには、マクスウェルをあえて冒涜する必要がある。マクスウェル方程式に関する本人自身による注解は、どうしようもないゴミだった。現在の学生が「マクスウェル方程式」として学ぶ鮮やかで簡潔でエレガントな構造は、彼の著作の中には見つからない。あるのは、記号の山と、だらしなく連なる言葉と数式でしかない。マクスウェルはたいへん謙虚な人で、19世紀物理学の記念碑としてふさわしい詩を彼自身が生み出しつつあるなどとは、考えてもいなかった。彼は単に、電気と磁気について当時わかっていたことすべてを、数学的な形で要約しようと考えていた。彼の著作では、基礎方程式と間に合わせの現象学とがごちゃ混ぜになっている。

ローレンツの功績は、マクスウェル方程式群が語るメッセージを、純粋な形にして提示したことにある。ノイズからシグナルを分離したのだ。シグナルとは、電場と磁場が電荷とその運動にどう反応するかを記述する4本の方程式と、これらの場が電荷に及ぼす力を特定する1本の方程式である。そして、ノイズはその他すべてだった。

これによって、特定の質量と電荷を持つ小物体の振る舞いを明確に記述・説明する方程式が手に入った。では、これらの方程式を使って、理想化された電荷の“原子”という新たな基礎の上に立ち、物質を記述し直すことができるのだろうか? これこそが、ローレンツ電子論が負った課題だった。

1892年の論文を皮切りに、ローレンツとその後継者たちは、電子論を用いて、電気伝導と熱伝導、誘電体の振る舞い、光の反射と屈折など、物質の特性を次々に説明していった。こうして、エレクトロニクスや物質科学と現在呼ばれている学問の基礎を築いたのだ。その一方で、J.J.トムソンは1897年、電子が実際に存在することを実験で示したのだった。つまり、電子は1892年にその存在が想定され、1897年に実際にそれが提示されたといえる。

現代物理学につながるアイデア

ローレンツの1892年の論文の大半は、電子の質量はその電荷がもたらしている可能性があるという、問題含みではあるが魅力的なアイデアを扱っている。運動する電荷は電場と磁場の両方を生じ、これらの場が変化に抵抗するため、電子の運動を妨げるような影響が生じる。これが電子の慣性、つまりは質量の原因ではないのか? この手の論理手順は実は昔からあって、例えばアリストテレスは、物質の慣性を空気からの抵抗として説明しようとしている。それはともかく、ローレンツの電磁気的質量という考え方は、物理学に大きな影響を与えた。これがきっかけとなって、特にローレンツ自身とH.ポアンカレによる技術的に難しい研究が進展し、アインシュタインの特殊相対性理論の主要部分へと結実していった。

その後、量子力学によってゲームのルールが一変し、電磁気的な抵抗のみが電子の質量の原因であるという考え方は、完全に見込みがなくなった。しかし重要なことを忘れてはいけない。私は、まさにこれと直接関連する考え方を用いて、共同研究者たちとともに、陽子や中性子など「強い力」で相互作用する粒子の質量を説明することに成功したのだ。これらの粒子の慣性は、電磁気学の兄弟分である量子色力学におけるグルーオン場からの抵抗によって生じる。物質に質量を与えているのはヒッグス粒子であるといわれることが多いが、通常の物質の質量の大部分は、ローレンツの美しい考え方の現代版で説明されるのだ。

ローレンツの電子論は、相対論と量子論、そして現在の物理学へとつながる道を準備した。アインシュタインは晩年、ローレンツの顕著な功績についてこう記している。「私個人にとって、彼は、人生でこれまでに出会った他の人々すべてをしのぐ意味を持っている」。

翻訳:日経サイエンス編集部

Nature ダイジェスト Vol. 9 No. 7

DOI: 10.1038/ndigest.2012.120706