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津波からの復興

2012年2月の寒いある日、被災地である仙台市は雪に覆われていた。一見すると、冬の眠りについている農地のようだ。この場所に住宅が立ち並んでいたことを思い出させるものは、四角い形に並んだ灰色のコンクリート塊だけである。

至るところに破壊の痕跡が見てとれるが、いずれも奇妙な具合に整頓されている。ある空き家は、1階の壁がなくなっていたが、棚の上にはきれいに重ねた皿が置いてあった。救助隊員の思いやりだろうか。津波に流されたり、壊されたりした自動車は24万台にものぼるという。こうした自動車は、ほかの金属ごみと一緒にブロック状に圧縮され、整然と積み重ねられている。その近くには、根こそぎ流された木が積んである。これらは津波による被害を防ぐ防潮林として海岸に植えられていたものだが、激しい濁流に乗って内陸に侵入し、城門を打ち壊す大槌のような役割を果たしてしまった。浜辺の近くの地面には、津波の危険を警告する標識が1本横たわっている。

標識は、この場所が、津波の危険があるときには退避しなければならない津波警戒区域であることを示していた。しかし、地図上に示された警戒区域は、2011年3月11日に仙台を襲った津波による浸水域のごく一部にすぎなかった(『危険地帯』参照)。東北大学(仙台)の津波研究者である今村文彦は、自身も制作にかかわったこの地図を、静かに吟味している。「我々のことを批判する人もいます。けれども、この地図を作ったときには、宮城県沖地震しか想定していなかったのです」と彼は言う。宮城県沖地震とは、100~150年ごとに仙台の沖で発生する地震で、高さ約4 mの津波が引き起こされる。けれども3月11日に、この場所に到達した津波の高さは10 m、もっと北のほうでは20 mもあった。津波は東北6県の500 km2以上の土地を水浸しにし、13万棟近くの建物を全半壊にし、24万5000棟を一部破壊した。死者の数は約1万5000人で、さらに数千人が行方不明もしくは死亡推定とされている。

日本政府は今、次の巨大津波から国民を守るためには、仙台をはじめとする都市をどのように再建すればよいかという難問に取り組んでいる。科学者、建築家、都市プランナーは、防潮堤や海岸林などの海岸の防潮施設にどこまで頼るべきかを議論している。防潮施設により津波の被害が軽減した地域もあったが、多くの地域は津波に対して無力だった。住民が防潮施設を過信したばかりに、犠牲者数が増えてしまった可能性さえある。それにもかかわらず、多くの自治体は、損傷した防潮施設の再建に着手している。

2012年4月には、東北大学に新しい研究所が設立される。ここでは、今回の震災から復興のための教訓を引き出し、よりよい防災教育活動を行うこと(専門家はこれを、市民を守るための最も効果的な手段の1つであると言う)を目的としている。2012年2月に設立されたばかりの復興庁の平野達男大臣は、東北地方の復興に着手するにあたり、高い目標を掲げたいと言う。「我々の目標は、次の津波がやってきたときに、死者の数をゼロにすることです」と彼は言う。

防潮施設と津波との戦い

日本は、歴史を通じて何度も津波に襲われてきたため、ほかのどの国よりもよく津波に備えてきた。人々は何百年も前から海岸に木を植えて防潮林としてきた。多くの市町村が定期的に防災訓練や避難訓練を行ってきた。防潮堤と防波堤は、日本の3万4500 kmの海岸線の半分を覆っている。これらを維持し、拡張するために、日本政府は毎年数十億円を費やしてきた。東北地方を含め、津波の危険が大きい地域では、74%の防潮堤が、予想される津波の高さより高くなるように設計されている。

しかし、これらの予想は、数十年から数百年に一度発生するマグニチュード8クラスの地震を想定したもので、東北地方で1000年に一度発生するマグニチュード9クラスの巨大地震を想定したものではなかった。ちなみに、マグニチュード9.0の地震のエネルギーは、マグニチュード8.0の地震の約32倍にもなる。今回の津波は、防潮堤のほとんどを破壊した。巨大な津波は市民に衝撃を与えたが、一部の研究者には、全くの予想外というものではなかった。今から10年ほど前、地質学者たちが、海岸から数kmも内陸に入ったところで西暦869年(貞観11年)の巨大津波により残された堆積物層を発見していたからである(K. Minoura et al. J. Natl. Disaster Sci. 23, 83-88; 2001)。

一部の科学者は、再びこのような出来事が起こるのではないかと懸念していた。「このクラスの津波が来るかもしれないとは思っていました。けれども、まだ正式に認められるほどのモデルにはなっていなかったのです」と今村は言う。2012年2月、仙台市の南に位置する岩沼市の井口経明市長は、今村との会談の際、東北地方を守るための彼の努力に感謝しつつも、研究者たちが869年の貞観津波に関するメッセージをもっと広く発信してくれていれば、と思わずにはいられないとも言った。「あの研究がもう少し早く行われていればと思ってしまうのです」。

日本は現在、巨大津波に備えるための基礎づくりをしている。「津波に強いまち」の建設を推進するため、2011年12月には国会で「津波防災地域づくりに関する法律」が可決された。平野復興大臣は、防潮堤およびその他の津波防護施設は、「200~300年おきに襲来するクラスの津波」から国民を完全に保護できるものでなければならないと言う。最大クラスの津波に対しては、地方自治体が土地利用規制を通じて市民が低地に居住することを防ぐと同時に、避難計画を改良して、防波堤による防護効果を高めていくことになる。

地域を守る方法についての議論は、時に激しいものになった。建設に多額の費用を要する防潮堤の価値を疑う人々もいた。平野によると、東北地方の300 kmの防潮堤のうち180 kmが、今回の震災で流されたり、破壊されたりした。その中には、1200億円を投じて建設され、3年前に完成したばかりだった釜石港湾口防波堤の一部も含まれていた。日本政府は、昨年、その修復に550億円を割り当てると発表した。

釜石港湾口防波堤の修復を支持する人々は、防波堤のおかげで津波による被害が小さくなったと主張する。港湾空港技術研究所(横須賀)のシミュレーションによると、釜石港湾口防波堤により、津波が陸地に到達するときの高さは13.7 mから8.0 mまで低減し、内陸での最大の高さも50%低くなり、浸水が6分遅れ、その分住民が避難できる時間が長くなったという。

しかし、オタワ大学(カナダ)で津波を専門にする海岸工学者で、震災直後に釜石を訪れたIoan Nistorは、このシミュレーションはあまり信頼できないかもしれないと指摘する。彼によると、この分析は、津波の襲来中に防波堤が損壊していなかったと仮定している点で不適切であるという。「この防波堤があったことで、確かに一定の効果は得られたとは思います。しかし、津波の衝撃で防波堤の多くの区画がなぎ倒されたことを考えると、その効果をこのように詳しく数量化できるものなのか、私は疑問に思います」。

津波を食い止められなかった防潮林

費用の点で防潮堤や防波堤の対極にあるのが海岸林である、と東北大学の今井健太郎は言う。この数百年間、津波の多い東北地方をはじめとして、日本中の海岸に海岸林がつくられてきた。しかし、2011年の津波で、230 kmに及ぶ海岸林の3分の2が壊滅的な被害を受けてしまった。

ジョージア工科大学(米国アトランタ)で自然災害における流体力学の研究を行っているHermann Fritzは、基本的に、海岸林は今回の津波に対して有害無益だったと言う。Fritzは、日本在住の同僚とともに、陸前高田市の調査を行った。ここでは、津波の高さが15 mに達し、幅200 mの海岸林をなぎ倒しながら内陸に向かい、倒木が市内の広い範囲に拡散した。海岸林の7万本の松のうち、津波に耐えて残ったのは1本だけで、後に「希望の松」と名付けられた。

「『防潮林』では、津波を食い止められなかったのです」とFritzは言う。「防潮林は、漂流する7万本の槌となり、内陸の建物に襲いかかりました」。彼は、このような結果になってしまったのは意外ではないと言う。彼のチームが震災後に近くの気仙沼湾で行った調査から、気仙沼市内を通過した津波の速度は秒速約10 mであったことが明らかになったからだ(H. M. Fritz et al. J. Geophys. Res. 39, L00G23; 2012)。「これだけの津波に防潮林が耐えられるわけがないのです」とFritzは言う。

それでも日本政府は、590億円を投じて東北地方の海岸に再び木を植えることを決めた。これを支持する人々は、海岸林には、防潮林としての機能だけでなく、風に飛ばされた砂が内陸に侵入するのを防ぐなどの機能もあると主張する。また、防潮林は規模の小さい地震による津波の速度を遅くしたという証拠もある。今回の震災でも、防潮林が役に立った事例はいくつかあった。例えば八戸では、高さ6 m以上の津波に襲われたが、防潮林は持ちこたえて20隻以上の船を捕捉し、船が内陸に侵入するのを食い止め、被害の拡大を防いだ。

研究者らは、2011年の震災から得た教訓が、海岸林の機能向上に役立つことを願っている。東北学院大学(仙台)で地球と環境の相互作用を研究している宮城豊彦は、防潮林から運ばれてきた流木の調査を行い、市街地に特に大きな被害を与えた流木は根がある状態で漂流していたことを見つけた。「流木は折れていませんでした。根こそぎ引き抜かれたのです」と宮城は言う。それに対し、根の深さが3 m以上ある木の多くは、津波の力に耐えることができた。「盛土によって地盤を高くし、そこに木を植えることを推奨します」と宮城は言う。地盤を高くすることで、木は根を下向きに長く伸ばすことができるため、内陸地域を保護する壁の1つになる。

津波に耐えた木々のおかげで、人命が救われた事例はほかにもある。避難の呼びかけを聞き逃した人々の一部は、木に登ることで、安全に救出を待つことができたのだ。今村は仙台周辺を車で回り、人々が津波をしのいだ木々を指さした。彼はまた、パニック状態になった人々が逃げ込んだ橋や学校や河川の築堤も案内してくれた。指定の避難場所の多くが津波に押し流された。海抜が低すぎたのだ。人々の安全を確保できる高さというものを見直す必要があることは明らかだった。

地域の再建にあたっては、それが最大の難関になると平野復興大臣は言う。「もっと高い土地に家を建てなければならないという点では意見が一致していても、具体的にどこに建てるかという話になると、なかなかまとまらないのです」。

安全地帯

津波に強いまちづくりを推進する新しい法律に従い、全国の海岸地域の地方自治体は、巨大津波が襲来した場合に地域に及ぼす影響のシミュレーションを行い、その結果に基づいて独自に土地利用規制の方針を決定することになった。津波により浸水した場合の水深が4 m以上に達するおそれのある区域は、最も危険な津波災害特別警戒区域(レッドゾーン)である。レッドゾーンは、特に夜間の避難が困難になるため、住宅や病院の建設は禁止される。しかし、事務所や工場であれば、従業員を避難させるのは容易なため、建設は許可される。浸水した場合の水深が2~4 mになるおそれのある津波災害警戒区域(イエローゾーン)では、脚柱の上に建設する場合や、鉄筋コンクリート製にする場合などに限り、住宅の建設を許可する(『津波に強いまちづくり』参照)。

今村は、仙台市当局と協力して、海岸の防潮堤の高さや築堤としても機能する海岸道路の位置など、パラメーターをさまざま変えながら約200回のシミュレーションを行い、仙台市の地域区分計画を立案した。今村が考える最も費用効果の高いシナリオは、以下のようになる。まず、現在ある高さ6 mの断続的な防潮堤の代わりに、高さ7.2 mの1つの長い防潮堤を建設する。これが第一の津波防護施設となる。その後ろの海岸には、幅200~400 m、長さ20~30 kmの津波防潮林を復元する。さらに内陸では、現在海抜2 mの高さにある海岸道路を、高さ6 mまでかさ上げするのだ。

海岸と道路の間の区域はレッドゾーンとし、あちこちに人工の丘を作り、そこで働く人々のための避難場所とする。ほかの避難場所は、もっと内陸寄りに建設する。今村は、このシナリオでは、予想される浸水域が東日本大震災時の浸水域より60%少なくなり、適切な避難訓練を行うことによって、死者を出さずにすむかもしれないと言う。

この提案は仙台市当局に感銘を与えたが、多くの市民が、約1214ヘクタールの土地と約2000件の住宅が安全に居住できないと評価されることを不満に感じた。なかには提訴すると脅す人もいた。それでも、仙台市震災復興本部長の山田文雄は、政府の地域区分法に賛成し、それを推進したいと言う。仙台では、1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波により街が破壊された後、生き残った人々は高台に移住した。だが、後の世代の人々は再び低地に戻ってしまったのだ。「法律で規制せずに、警告だけにとどめていたら、人々は再び低地に戻ってしまうでしょう」と山田は言う。

けれども、岩沼市長の井口は、市民を自分の土地から追い立てるようなことはしないと言う。「私は彼らに、危険な場所には住まないでほしいと思っています。けれども、彼らには自分の土地に住む権利があり、すでに訴訟も起きているのです」。

一部の研究者は、地域区分の決定に使用されたシミュレーション結果に頼りすぎだと心配している。東北大学のリスク・コミュニケーションと防災都市計画の専門家である増田聡は、地域区分を行った当局は、シミュレーションに不確実な側面もあることに十分な配慮をしていないと指摘する。

今村は、海岸地域のすべての地方自治体が津波被害のシミュレーションを行い、それに基づいて土地利用規制に着手すると、議論はもっと大きくなるだろうと言う。彼は、西日本の太平洋沖に位置する南海トラフで巨大地震が起きた場合に津波が発生する可能性を再評価する委員会のメンバーとして、2012年4月までに報告を行うことになっている。日本全体では、おそらく数百万人の住居がレッドゾーンに入ってしまい、移転を命じられてしまう可能性がある、と彼は言う。「震災を経験した東北地方でさえ、一部の人々は移転に抵抗しています。当然、津波が起こらなかった場所では、たいへんな議論になるでしょう。解決には時間がかかります」。

今村は、2012年4月1日に東北大学に新たにオープンする災害科学国際研究所(IRIDeS)が、津波に強い地域づくりの役に立つと考えている。IRIDeSには、今後10年間、毎年8億円の資金が提供される。今村は、その副所長に就任するが、彼によると、IRIDeSは約25の研究チームから構成され、災害軽減技術の効果の分析、よりよい被災者支援のあり方の提案、巨大地震や巨大津波の早期発見システムの研究、災害に対応した医療システムの確立、デジタル・アーカイブづくりなどを行うという。

無視された警告

何よりも重要なのは、津波の危険に人々の目を向けさせるにはどうすればよいかという点である。東北大学の認知心理学者で、4月からIRIDeSに所属することになる邑本俊亮は、災害時に人々が情報を処理する過程を研究しようと計画している。彼によると、870人の生存者を対象とする調査から、津波警報を聞いて直ちに避難したのは全体の60%で、それ以外の人々は待機していたことがわかった。待機していたと答えた人々の75%が、まずは「そのときにしていたことを終わらせた」という。「警報は聞いたが、自分は大丈夫だと思った人もいたようです」と邑本は言う。彼は、人間が危険を過小評価する傾向がある理由を解明し、その情報を、自然災害に関する啓発活動に利用していきたいと言う。「これにより大きな変化が生じるでしょう」。

同じく東北大学の研究者で、IRIDeSのメンバーになる予定の佐藤翔輔は、同研究所のデジタル・アーカイブに保管される津波の画像と記録は、世界中の人々の教育と政策立案のための情報源として役立つだろうと言う。このデータベースは「災害に関するFacebookのようなもの」になる、と彼は考えている。

震災後の研究や計画の真価が問われるのは、日本が次の巨大津波に見舞われるときである。多くの意味で、それは人間の記憶力が試されている。情報が氾濫するこの時代に、人間の生活がどんなに脆弱な基礎の上に成り立っているかというメッセージを発信し、未来の世代にしっかりと受け止めさせるには、どうすればよいのだろうか?

今村をはじめとする約50人の科学者集団は、震災の記憶を風化させないためには、人々の感情を揺さぶるシンボルが必要だと指摘する。彼らは、住宅に入り込んでしまったボートや、避難所や、海岸のねじ曲がった避難標識などを保存することを提案している。「我々はこれらを、震災の記憶を伝える場所にしたいのです」と今村は言う。「人々が忘れてしまわないように」。

翻訳:三枝小夜子

Nature ダイジェスト Vol. 9 No. 5

DOI: 10.1038/ndigest.2012.1205s09

原文

Rebuilding Japan: After the deluge
  • Nature (2012-03-08) | DOI: 10.1038/483141a
  • David Cyranoski
  • David Cyranoskiは、Natureのアジア太平洋地域の特派員。