Editorial

南極条約に迫りくる脅威

「すべての空想は捨て去らねばならない。つらい帰り路になるだろう」。今からほぼ1世紀前、南極探検中の英国海軍将校ロバート・スコットは、日記にこう記した。これは、南極点一番乗りの勝負がついたことを認めた言葉だとされる。その後、スコットは帰らぬ人となる。ライバルだったノルウェーのロアルド・アムンゼンに先を越され、帰路には、想像を超える結末が待ち受けていた。スコットと残った2人の隊員は、食料補給地点までわずか18kmのところで、1912年3月末までに全員死亡したことがわかっている。

この悲劇の南極探検には科学の側面もあった。スコットのそばで死を迎えた動物学者エドワード・ウィルソンは、南極点に初めて到達した科学者となった。ウィルソンが人生最後の数か月を過ごした厳しい環境の土地は、今では史上最大の科学協力の場となっている。

世界各地で領土紛争が起こり、関係する国や地域が対立している中で、1959年の南極条約は、「全人類の利益のために、南極地域がもっぱら平和的目的のため恒久的に利用され、かつ、国際的不和の舞台又は対象とならない」ようにするという目的を明示して、南極大陸を世界の研究者の手にゆだねた。現在、南極大陸では、約30か国が研究拠点を運営しており、イラン学生通信(ISNA)の1月中旬の報道によれば、イランも3年以内に研究施設を開設する計画になっている。

科学の名の下に世界各国が南極大陸へ殺到していることには、研究以外の利益を求める人々もすでに気づいている。12月31日の日刊紙「オーストラリアン」によれば、キャンベラにあるオーストラリア戦略政策研究所(ASPI)のSam BatemanとAnthony Berginが、中国、インドなどの諸国が、南極大陸に最近開設された研究拠点を利用して、宇宙インフラへの依存を高める軍隊の衛星通信を改善しようとする可能性がある、という刺激的な見通しを示した。BatemanとBerginは、「こうした動きは南極条約に抵触するが、同条約による検査制度があまり実施されていないため、こうした活動が見落とされる可能性がある。もし南極大陸に設置された拠点が軍事的意味を持つと、平和地帯としての南極が不安定化する可能性がある」と述べた。

これほど劇的な事態の展開ではなくとも、南極条約をむしばみ、科学が南極大陸を独占する現在の状態を弱体化させる可能性は考えられる。ジョージタウン大学政治学部(米国ワシントンDC)の故Christopher Joynerは、南極条約の協調の精神が脅かされる3つのシナリオを提示した。エネルギー資源の獲得をめざす国家が南極水域の自国の大陸棚に対する権利を行使するという第1のシナリオ、南極水域での捕鯨をめぐって日本・オーストラリア間の緊張がエスカレートするという第2のシナリオ、そして、広範囲にわたって無秩序に行われる生物資源調査というのが第3のシナリオだ。この生物資源調査については、すでに南極条約の締約国が問題視し、2011年夏にブエノスアイレスで開催された南極条約協議国会議で議題となった。Joynerによれば、南極では、27か国のおよそ200の研究組織が商業目的の研究を進めており、南極の植物と動物を精査して、有益な遺伝資源や生化学資源を発見することが1つの大きな目標となっているのだ。

今のところ、南極条約に差し迫った脅威があるとは思われないが、北極の政治的重要性が高まっていることを考えれば、南極での変化の可能性は理解できるだろう。1月下旬には、北極評議会の加盟国が、中国とインドの公式オブザーバーとしての加盟申請を討議することになっている。南極条約には厳しい条件が定められているにもかかわらず、新たな鉱物資源やエネルギー資源を探索する一部の国々にとって、南極の魅力はその表面に限定されている。

南極条約を維持し、ユニークな科学者の遊び場である南極を守り、研究への期待に応えるために、科学者は役割を果たさねばならない。現在、南北の極点には高い関心が寄せられており、BBC制作の“Frozen Planet(氷の惑星)”シリーズも好評だという。科学者が、南極での研究を宣伝することも重要だ。科学者と南極のつながりがさらに強固なものになっていることを一般市民に印象付けられるからだ。科学者には探検家としての一面もあり、それは、スコット南極探検隊の心意気にも通じている。

翻訳:菊川 要

Nature ダイジェスト Vol. 9 No. 4

DOI: 10.1038/ndigest.2012.120432

原文

Antarctic Treaty is cold comfort
  • Nature (2012-01-19) | DOI: 10.1038/481237a