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「ジャネリア・ファーム」の優雅な生活

米国バージニア州アシュバーン近郊、ポトマック川渓谷を見渡せる一角に、ひときわ目を引く建物がある。ガラスでできたリボンのような小洒落た建造物、ジャネリア・ファームの研究棟だ。ジャネリア・ファームは、ハワード・ヒューズ医学研究所(HHMI)が、5年前に5億ドル(約400億円)をかけて創設した研究機関である。案内人のジャネリア・ファーム所長Gerald Rubinは、メイン研究棟の食堂エリア近くまで来ると、3台の巨大なコーヒーサーバーを指差してこう言った。「このコーヒーサーバーには年間2万ドル(約160万円)かかっています。しかし我々は、高品質のコーヒーを無料で提供することに費用対効果が十分あると考えました。だって、そうすれば、みんな自分の研究室でコーヒーをいれなくてすみますからね」。そのコーヒーは確かにおいしかった。

こんなところからも、HHMIの潤沢な資金力が十分うかがい知れる。HHMIは、米国メリーランド州チェビーチェイス近郊に本部を置く非営利の研究費提供組織であり、大学などの研究機関に在籍したままで研究員を雇用している。ジャネリア・ファームは、HHMIにとって自前の建物を持った初めての研究所なのだ。

さらに重要なのは、Rubinが「科学文化の実験」と呼ぶものを、この研究所が具現化していることだ1。それは、世界一流の研究者たちを、分野の壁を越えてたやすく交流できる環境に置いて研究に専念させるとどうなるかという実験だ。具体的に言えば、研究者たちに、コーヒーサーバー付近で出会うチャンスを作り、そして、少数の大きな科学的難問に取り組ませる。それらは神経科学の最大級の難問のいくつかで、長期の研究を要し、リスクも大きいが成功すれば見返りも大きい。さらに、そこへHHMIの豊富な資金を投入し、研究者を大学などでの従来の研究生活につきものの雑用から解放する。管理業務や学生の指導もなく、テニュア(大学の終身雇用資格)の取得に励む必要も助成金申請書を書く必要もない。「俗世から解放された、まさに『象牙の塔』なのです」とRubinは語る。

ジャネリア・ファーム創設の前提には、この年間1億ドル(約80億円)を費やす試みが、すばらしく偉大な科学的成果を生み出すだろうという考えがある。しかし、Rubinにとっては、単に「優れている」というレベルにとどまらない。「もし20年後にここに戻ってきて、『我々はソーク研究所を再現したんだ』と口にするようなら、この計画は失敗だと思っています」。ソーク研究所は、米国カリフォルニア州ラホヤにある世界屈指の独立した研究機関だ。「要は、ソーク研究所と同じ研究機関を作るために、わざわざジャネリア・ファームを建設する必要はなかったということです」とRubinは言う。

生粋の遺伝学者であるRubinは、ジャネリア・ファームが最終的には、遺伝学でいう「欠失テスト」をパスできると考えている。遺伝学で使われる欠失テストは、1個の遺伝子を欠損させることで、その遺伝子の機能を明らかにする手法である。つまり、将来、ジャネリア・ファームなくして生物学研究はこうまで進展しなかった、という状況になるはずだというのだ。

始まりの日々

ジャネリア・ファームが始まって5年。この非常に壮大なテストにパスできるという確証はまだ何も得られていない。それはRubinも認めている。ジャネリア・ファームの研究が長期重点化方式であること、そして、農地だった場所に新設の研究所を一から作り上げる難しさを考えると、今後5年、もしくは10年で大発見が出始めるとは思われないとRubinは言う。ジャネリア・ファームでこれまでに実証されたのは、資金が豊かで、拘束されない学問の自由を約束すれば、優れた研究者を新設の研究所に呼び寄せることが可能であるということくらいだ。

G. RUBIN

ただし、こうした優秀な研究者が集まった意義は、ジャネリア・ファームの研究室が発表した論文数が右肩上がりに増加しているという形で現れている(グラフ参照)。また、研究所の野望に当初は懐疑的だった研究者たちが、ジャネリア・ファームに一目置くようになってきたことも事実だ。

かつてそうした懐疑派の1人だったコロンビア大学(米国ニューヨーク州)の神経科学者Eric Kandelは、それだけでも大きな成果だと話す。「まだホームランはありませんが、いつ出てもおかしくありません」。

ジャネリア・ファームの土台となるアイデアは1999年に生まれた。HHMIの所長になることを承諾したばかりのコロラド大学(米国ボールダー)の生化学者Thomas Cechは、何か新しいことにトライしたいと考えていた。当時、HHMIはすでに、世界各地の大学に所属する何百人もの研究者に資金提供をしていた。そこでCechは、さらに数百人に資金を提供するよりも、HHMIが科学にもっと大きな影響力を発揮する道があるはずだと考えた。彼は、これをやり遂げるための助っ人として、当時カリフォルニア大学バークレー校(米国)にいた遺伝学者Rubinを、HHMIの生物医学研究部門の部長に据えた。

就任したRubinはまず、自身が体験したさまざまなすばらしい研究生活を思い出すことから始めた。学部生のとき過ごしたコールド・スプリング・ハーバー研究所(米国ニューヨーク州)での夏、博士課程を過ごしたケンブリッジ大学(英国)の医学研究会議・分子生物学研究所(LMB)、そしてスタッフとして研究に従事したカーネギー研究所発生学部門(米国メリーランド州ボルティモア)での3年間。Rubinはこんな疑問を持った。「これらの研究所をすばらしいところだと感じさせるのは、いったい何なのだろうか」。

Rubinは、多くの研究者、特にベル研究所(米国ニュージャージー州マレーヒル)といった生物学以外の研究所の経験豊かな研究員にその疑問をぶつけてみた(ベル研究所は、親会社のAT&Tが1984年に分割されるまで、技術革新の牽引役となった研究所の1つだった)。得られた回答は、驚くほど一致していたとRubinは話す。研究者がすばらしいと感じる研究所では、研究グループは少人数で、そのためコミュニケーションを取りやすく、指導・助言が円滑に行われていた。グループのリーダーは、運営管理や資金収集に追われることなく、自ら実験にかかわる熱心な研究者だった。資金は組織内部から提供され、研究助成金を得ようと四苦八苦する必要がないのだ。また、ポジションは終身ではなく、そのため、研究者が絶えず入れ替わり、アイデアの鮮度を保つことができた。ベル研究所とLMBは、応用物理学と分子生物学という大きく離れた分野にもかかわらず、こうした主義をすべて実現していた。しかし、Rubinが疑問を持った当時、そうした研究所は1つもなく、とりわけ、組織内部の資金提供の部分が欠落していたと彼は言う。「そこにHHMIの勝機があったのです」。

CechやHHMIの理事たちは最初からこのアイデアに乗り気だったが、そうでない人々もいた。「私には、LMBのコピーを作ることがそこまですばらしいとは思えませんでした」と、懐疑派だったKandelは当時を振り返る。「ジャネリア・ファームで、どんな疑問を解明しようというのか、あるいはどんな分野の研究をしようというのか、私にはピンとこなかったのです」と彼は話す。また、HHMIから資金提供を受けていた多くの研究者は、この新しい計画のせいで、自分たちの研究助成金が削減されてしまうのではないかと危惧した。さらに、トップクラスの研究者がHHMIの説得によって、名の通った研究機関での終身職を捨て、ワシントンD.C.から車で1時間もかかる住宅地アシュバーン郊外の研究施設に移ることなどありえない、と多くの人が思っていた。

また、計画で想定されている戦略が、幅広いさまざまな生物医学の問題ではなく、少数の大きな難問を集中的に研究することである点も、議論を呼んだ。2004年、HHMIは取り組むべき課題を決定するため、5回のワークショップを開いた。真っ先に決まったテーマは、生物イメージング技術だった。「これは我々にとって重大な課題の1つでした」とRubinは言う。「生物イメージング技術は、物理学や化学、生物学といった基礎分野だけでなく、さまざまな分野の集約であり、非常に広い範囲で役立つ技術になると思われたからです。DNAシーケンシング技術と同じようにね」と彼は話す。

2つ目の大きなテーマは、神経回路自体の仕組みと神経回路が行動を生じさせる仕組みを解明することだった。この解明によって神経科学の大きな空白部分が埋まることが期待されたと、Kandelは話す。「もちろん当時でも、神経細胞のことはかなりわかってきていましたし、脳の大きな領域がどのように相互連結しているかを知るためのイメージング技術もすでにありました。しかし、両者を結びつける技術が全くなかったのです」と彼は説明する。一方で、新世代の技術が、この要求に応えられそうな段階にさしかかっていた。特に際立っていたのが光遺伝学の技術である。これは、光学を使って特定の神経細胞の活動を追跡したり操作したりできる技術で、神経細胞の機能や結合について解明するのに役立つ。

当時、光遺伝学の神経科学への応用はまだ始まったばかりだった。しかも、ジャネリア・ファームの研究者が、キイロショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)の神経回路を解明することですら20年かかるかもしれないという可能性や、もし解明できたとしても、キイロショウジョウバエとヒトの脳に何の関連性も見つけられずに終わるおそれもあった。神経回路の基盤にある原理や論理は進化を通じて保存されているだろうと一般に考えられてはいたが、当時としては「かなり思い切った決断だった」とKandelは言う。

ジャネリア・ファームのメイン研究棟には、ガラス張りの研究室が並んでいる。

M. STALEY/JANELIA FARM

研究をつちかう環境

2006年10月、ジャネリア・ファームのメイン研究棟が正式にオープン。巨大なS字カーブを描く丘陵斜面に沿って約300mも続く建物は、「ランドスケープ棟」と名付けられた。上層の2つの階は、ガラス張りの壁に囲まれた広い廊下が長く伸びて光に満ちあふれ、まるで空港のコンコースのようである。だが、必ずしも暖かくて居心地がいいわけではない。外からも廊下からも研究室に並ぶ実験台が丸見えなのだ。また、カーブした廊下は先のようすが見えず、無限の空間に足を踏み入れたような不思議な感覚に襲われる。

しかし、こうしたちょっとした不都合は、Julie Simpsonにとって、別段苦にもならなかった。ウィスコンシン大学マディソン校(米国)で神経科学のポスドクだったJulie Simpsonは、2006年の夏、ジャネリア・ファームにグループリーダーとして赴任した。彼女は、ジャネリア・ファームの哲学を語るCechの話を聞いて以来、何としてもここで研究したいと思っていた。はやる気持ちを抑えられず、とにかくジャネリア・ファームにやってきた彼女は、到着した当時をこう振り返る。「研究室ではヘルメットを着用しないといけなかったの。だって、床がまだ仕上がっていなかったんですもの!」

だが、彼女が失望を感じることはなかった。「特定の1つのテーマに集中して取り組む研究共同体の一員でいることに、本当に満足しています」と彼女は話す。「ここで交わされるすべての会話には関連性があり、さまざまな分野のすべての同僚が、同じ基礎科学のテーマを探求して、数多くの生産的な討論をしているのです」。Simpsonの率いるグループは、キイロショウジョウバエで光遺伝学を使い、例えば、身繕い行動などの特定の生得的反応を生じる神経回路を追跡している。そうしたさまざまな回路の詳細な構造を比較することで、土台にある一般原理を明らかにする足がかりができるはずだ2と、彼女は話す。

物理学者Eric Betzigも、Simpson同様、ジャネリア・ファームの開設後まもなくグループリーダーに採用された1人だ。Betzigは1980年代後半にベル研究所で研究生活を始めたが、その頃のベル研究所はまだ、神経科学から反物質まであらゆるものを研究対象にしていた。しかし、ベル研究所の基礎研究分野はしだいに力を失って衰退し、とうとう耐えきれなくなったBetzigは、1994年に父親の工作機械の会社に転職した。だが、研究への情熱を捨てきれず、研究に戻ろうと決心してまもない2006年、ジャネリア・ファームに入る機会を得た。彼は現在、各種のイメージング技術について研究している。

「ジャネリア・ファームが私を惹き付けたものは、ベル研究所が私を惹き付けたものと同じでした。必要なリソースがすべてそろっていて、論文発表のプレッシャーもありません。そうした条件の下で研究できないなら、科学をする気はありません」とBetzigは話す。彼はジャネリア・ファームにやってくる前にすでに、光活性化局在性顕微鏡法(PALM)というイメージング技術を開発し、物理学者Harald Hessと共同で装置を作製していた。Hessも、今はジャネリア・ファームのグループリーダーだ。PALMは、天文学者が開発した画像処理アルゴリズムを使って、単一の蛍光分子の位置をナノメートル単位の高精度で検出する技術である3。ジャネリア・ファームで研究を始めてから、Betzigはさらに3種類のイメージング技術を開発した。これらは、生きた細胞からなる層を従来よりも深部まで観察できるよう設計されており、解像度もより高く、観察過程で細胞に及ぼす損傷も少ない。

ジャネリア・ファームは万人向けの研究所ではないと、Rubinは言う。「私は、ごく一部の研究者だけが魅力を感じるような研究所にしようと思いました」と彼は言う。つまりターゲットは、終身雇用でなくても十分な自信があり、都会から離れた立地やグループは6人までという人数制限を気にせず、自らの手で実験を行いたいと思っている研究者たちである。

この条件にぴったり合いそうな研究者は大勢いそうである。現在、ジャネリア・ファームにはグループリーダーが20人おり、彼らは皆、5年のサイクルで入れ替えのための評価を受ける。1回目の評価は2012年の春に始まるが、Simpsonはこの評価過程を「怖い」と言っている。評価法がまだ新しくて、それがどう機能するか、誰もちゃんとわかっていないからだ。それ以外にも、5年契約で追加更新のない、さまざまな年次の特別研究員(フェロー)が26人働いており、客員研究員も100人以上いる。ほかのグループメンバーや補助スタッフも入れると、ジャネリア・ファームの非正規雇用者の総数は424人にもなる。

創造的であり続けるには

こんなに働いている人間が多いにもかかわらず、研究所内はほとんど空っぽに感じられる。「最初に、みんな気づきますね」と言うのは、Rubinのバークレー時代の同僚で、Cechの後任として2009年にHHMIの所長になった生化学者Robert Tjianである。「おそらくさらに100〜150人の研究者を詰め込めば、満員に近くなるでしょう」。

建物内ががらんとしている理由の1つは、Rubinの当初の予想よりも、研究者集めに時間がかかっていることにある。今後の採用にあたって頻繁に問題となるのは、研究グループの定員が6人までという点だと彼は言う。

都会から遠いことも、心配していたよりはハードルが低かったが、それでも要因の1つにはなっている。Rubinは同僚たちと、隔絶された環境による研究の孤立を防ぐために、最善を尽くしてきた。例えば、1回につき数週間か数か月間、研究者を滞在させる見学プログラムを実施したり、研究所内で年に10回ほど、研究者会議を催したりしている。それにもかかわらず、都会からの遠さはいまだに大きな難問の1つだと、神経科学者Carla Shatzは話す。Shatzは、スタンフォード大学(米国カリフォルニア州)で学際的なBio-Xプログラムを指揮しており、ジャネリア・ファームの諮問委員会の一員でもある。「ジャネリア・ファームでは、大学のように医学部や工学部、生物学科や物理学科、化学科といった、さまざまな学科を訪れることも、学部生と触れ合うことも難しいのです。こうした環境下で、どうやれば知的刺激を受け続け、創造性や革新を生み出せるのかを考えねばなりません」と彼女は言う。

これに関連して、もう1つ難問がある。研究プログラムを知的な意味で新鮮な状態に保つことだ。イメージングや神経回路解析にテーマを絞り込むことは、最初の段階では有用だったとTjianは話す。「誰もがジャネリア・ファームがどんなものかを理解できましたから」。しかし、この先の長い道のりの中で、懐をもっと広げ、沸き上がる新しいチャンスを求める自由を研究者に与えることができなければ、ジャネリア・ファームは活気を失ってしまうだろうとも、彼は言う。

ジャネリア・ファームの空きスペースには、もう1つ理由ある。さらに研究分野を拡張しようというのだ。2011年初めに開催された一連の企画ワークショップの結果をもとに、Rubinは、細胞生物学、進化生物学、構造生物学、化学の分野のグループリーダーを採用し始めた。これらの分野はそれぞれ、神経回路解析と一部重なってはいるが、ジャネリア・ファームの研究プログラムを新しい方向へと拡張してくれることだろう。

Rubinは、ジャネリア・ファームの最初の5年間を振り返って、非常に満足していると話す。「我々は、空っぽのビルを、一流の研究者を集め興味深い問題に取り組めるような活動的な研究所へと変貌させたのです。『失敗するに決まっている』と言われたすべてのことを、我々は成し遂げたのです」と彼は言う。

だが、この後は何が起こるのだろうか。ジャネリア・ファームは、次の5年か10年の間に「偉大な科学的成果」を挙げられるのだろうか。また、Rubinの「欠失テスト」をパスし、生物学研究に欠かせない重要な研究所となっているのだろうか。生物学の入門書を書き換えたり(これはCechが好む「偉大な科学的成果」の定義である)、「2つのプログラムを育てて全く新しい1つの道筋を作り出したり」(こちらはTjianが好む定義)できるのだろうか。

これは、なかなか答えの出ない大きな問題である。Simpsonはこう語る。「策を弄しても偉大な科学的成果を得ることはできません。それを可能にする条件をそろえて、何が起こるかを見守るべきでしょう」。

翻訳:船田晶子

Nature ダイジェスト Vol. 9 No. 4

DOI: 10.1038/ndigest.2012.120412

原文

Life on the farm
  • Nature (2011-11-17) | DOI: 10.1038/479284a
  • M. Mitchell Waldrop
  • M. Mitchell Waldropは、ワシントンD.C.のNatureのNews Feature編集者。

参考文献

  1. Rubin, G. M. Cell 125, 209–212 (2006).
  2. Simpson, J. H. Adv. Genet. 65, 79–143 (2009).
  3. Betzig, E. et al. Science 313, 1642–1645 (2006).