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幹細胞バンクの構築で治療法開発の道を開く山中教授

幹細胞治療の実現に向けた研究の歩みは、研究上の諸課題、倫理的・法的障壁と企業の不安感に阻まれ、イライラするほど遅くなっているが、幹細胞の先駆者である山中伸弥教授(京都大学)が、治療用幹細胞バンクを構築して、この研究に弾みを付ける計画を進めている。幹細胞バンクには、数十種の人工多能性幹細胞(iPS細胞)株が備蓄される予定だ。これによって、日本は、先駆的な生物医学技術を導入するための研究の最前線という未知の領域に踏み出すことになる。

この7月、山中の長年の夢である「iPS細胞ストック」プロジェクトに追い風が吹いた。厚生労働省が、国内に保存されている胎児臍帯血のサンプル数千点から幹細胞株を作製することを認めたのだ。医療に用いるための幹細胞を備蓄するという山中の計画は、「大胆な戦略」だとハーバード大学医学系大学院(米国マサチューセッツ州ボストン)の幹細胞生物学者George Daleyは話す。ただ、この動きに対し、現時点でのiPS細胞の臨床利用を疑問視する研究者もいる。

山中は、2006年に、成体マウスの皮膚細胞を誘導して、いかなる体内組織にも分化しうる幹細胞に逆戻りさせられることを初めて明らかにした1。この実験は、2007年に山中自身によってヒト細胞でも再現された2。この方法であれば、胚に由来する幹細胞を使うという倫理的問題を回避でき、また、それぞれの患者に合わせた幹細胞を作製できるため、免疫系の拒絶反応を避けることもできる。

日本は、iPS細胞治療の臨床応用をめざした8つの長期プロジェクトに毎年数千万ドル(数十億円)の予算を投入している。その1つが、京都大学iPS細胞研究所(CiRA、山中伸弥所長)で行われているパーキンソン病の症状緩和のための研究プロジェクトで、年間250万ドル(約2億円)の予算が与えられている。このプロジェクトでの臨床試験は少なくとも3年先の予定だ。iPS細胞を使ったヒトでの最初の臨床試験は、網膜疾患の治療法に関して行われることになっており、理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(神戸市)が2013年に実施を計画している。

これらの臨床試験では、山中のiPS細胞ストックの幹細胞は用いないものの、このプロジェクトの試験、あるいは、ほかのiPS細胞の臨床試験が成功した暁には、幹細胞に対する需要が爆発的に伸び、供給問題が生じる。個々の患者に合わせたiPS細胞の樹立と検査には、細胞株当たり6か月の期間と数万ドル(数百万円)の費用を要すると考えられている。

山中の計画では、2020年までに標準的な75種のiPS細胞株を作製する予定だ。これは、日本人の80%と適合させる(拒絶反応を避ける)ことができる数である。そのためには、免疫に関連する細胞表面タンパク質(ヒト白血球抗原、HLA)をコードする3つの主要遺伝子のそれぞれについて、両親から同じ型の遺伝子を引き継いでいるドナーを見つける必要がある。山中の計算によれば、約6万4000人から得られるサンプルについて選別作業を行えば、75人の該当ドナーが見つかるとされる。

この作業は、日本国内に8か所ある臍帯血バンクを用いることで、容易に進められる。臍帯血バンクには、HLA型が判定されたサンプルが合計で約2万9000点保存されており、山中は、ほかの医療処置に使えないことが判明した臍帯血を利用するために交渉を行っている。ただし、未解決の問題が1つある。臍帯血バンクのサンプルについて、ドナーから新たなインフォームドコンセントを得る必要があるかどうかという点だ。この場合のドナーの大部分は、白血病の治療、または研究に用いるという理解の下で臍帯血を提供している。さらなるインフォームドコンセントの要否の判断は、それぞれの臍帯血バンクに委ねられる。

CiRAの2階には、細胞プロセシング施設が付置されており、山中は、iPS細胞ストックの構築に関して、京都大学の倫理委員会に承認を申請した。CiRAの生物学者で、HLA解析の責任者である木村貴文教授は、日本人の8%に適合するHLAタンパク質群を有する最初の幹細胞株の作製を2013年3月までに完了させることをめざし、作業が進められていると話す。

山中のプロジェクトの1つの強みは、日本人の遺伝的多様性が比較的低いことだ。他国で治療用iPS細胞バンクを開設しようとすれば、もっと大規模なものとなり、多額の費用を要すると考えられる。また、日本以外のiPS細胞バンクの大部分は、特定の疾患の患者に由来する細胞に特化しており、その目的は治療ではなく研究だ。例えば、カリフォルニア再生医学研究所(CIRM、米国サンフランシスコ)は、研究者に配布する目的で、約3000種の細胞株を保存するiPS細胞バンクの構築を計画している。

CIRMのAlan Trounson所長は、iPS細胞に関しては未解決の研究課題があるため、治療試験を始めるのは「時期尚早」だと話す。さらに、「iPS細胞の効果に関しては全体像が得られていません」と話し、分化細胞から作られるiPS細胞には変異やそのほかの異常が蓄積される点を指摘する。また、スタンフォード大学(米国カリフォルニア州)の幹細胞学者Irving Weissmanは、血液細胞から樹立したiPS細胞が腫瘍を形成する3と警告している。

これに対して、木村は、幹細胞株を樹立する際に、腫瘍の原因となる白血球を注意深く避けることが解決法だと話し、すべての安全性に関する懸念に対応していく点を強調した。「私たちは、日本国の資源を構築しようとしているのです。したがって、それは、安全なものでなければならず、国民に信頼されるものでなければなりません」。

7月にCiRAを視察したDaleyは、「まさに壮観、完ぺき」と感想を述べた。彼も、幹細胞の安全性の証明が困難な作業になると考えているが、このプロジェクトを積極的に評価している。「ビッグプロジェクトの準備が進んでいるのは間違いありません」。

(翻訳:菊川 要)

山中伸弥教授にノーベル賞

10月8日、カロリンスカ医科大学(スウェーデン)は2012年のノーベル医学生理学賞をSir John B. Gurdon博士と山中伸弥教授に贈ると発表した。授賞理由は「成熟細胞が再プログラム化されて多能性になりうる事実の発見」だ。

いつ誰が作ったのか不明なドグマは、科学の世界にもいろいろある。その1つが「成熟して特殊化した細胞は、受精卵のような未分化の多能性幹細胞に戻ることはない」というものだった。今回の受賞者は、このドグマを覆し、成熟細胞の再プログラム化が可能であることを示した研究者たちだ。

Gurdon博士は1962年、古典的な実験において、カエルの卵細胞の中の未熟な核を、成熟した腸の細胞核で置き換えた。この改変された卵細胞は分化・成長して、オタマジャクシとなった。こうして、成熟細胞のDNAはなお、カエルのすべての細胞へと成長するために必要な全情報を保持していることが明らかになった。

一方、山中教授は、2006年、マウスの成熟細胞に、わずか数個の遺伝子を導入するだけで、多能性の幹細胞に再プログラム化できることを示した。このiPS細胞は、身体の中にあるあらゆるタイプの細胞に分化・成長することができる。

これらの発見は、発生や細胞の特殊化に関して、従来の見方を完全に変えた。今やドグマは覆り、教科書は完全に書き換えられた。科学者は、ヒト細胞の再プログラム化によって新たな細胞を作り出し、診断や治療につながる病気の解明をめざしている。

なお、今回の授賞に関して、「早すぎるのではないか」という声も上がっている。というのは、過去の授賞例をみると、すでに病気治療に実際に使われているテーマが多いからだ。その意味では、iPS細胞はまだまだ研究段階でしかなく、当の山中教授も記者会見で「責任、責務」という言葉で応えているほどだ。しかし、どうやら授賞委員会は、すでに難病などの研究実験手段としてiPS細胞が広く使われている事実を高く評価したようだ。

ノーベル賞各賞に関する記事は2012年12月号に掲載する予定だが、今号では、山中教授グループが進めている計画の最新の動きとともに、ES細胞(胚性幹細胞)を用いて脳の再生に挑んでいる笹井芳樹博士への取材記事を掲載した。再生医療がますます現実味を帯びていることがわかるであろう。

(編集部)

Nature ダイジェスト Vol. 9 No. 11

DOI: 10.1038/ndigest.2012.121102

原文

Stem-cell pioneer banks on future therapies
  • Nature (2012-08-09) | DOI: 10.1038/488139a
  • David Cyranoski

参考文献

  1. Takahashi, K. & Yamanaka, S. Cell 126, 663–676 (2006).
  2. Takahasi, K. et al. Cell 131, 861–872 (2007).
  3. Serwold, T. et al. Proc. Natl Acad. Sci. USA 107, 8939–18943 (2010).