「出逢いの演出家」に徹して脳の発生を再現
2010年12月、ロンドン大学ユニバーシティカレッジ(英国)の眼科医Robin Aliは、いつものように科学論文の査読をしていたところ、たちまち興奮を覚えた。「私は部屋の中を駆け回り、持っていた原稿を振り回しました」と彼は振り返る。その論文には、胚性幹細胞(ES細胞;着床前の胚に由来する、分化多能性を持つ幹細胞)の塊から、丸い盃状の網膜組織ができたことが報告されていたのだ。この構造は「眼杯」と呼ばれ、眼の後ろ側になるものだ。本来なら胎児で作られるその構造が、その論文では培養皿で作られていた。添えられた動画には、その構造がゆっくりと芽吹いて花開くように成長するようすが映っていた。視力回復の研究に20年間携わってきたAliにとって、その論文は自分の研究にも直接かかわるものだった。「画期的な論文であることは明白でした。彼は、この研究分野を一変させたのです」とAliは言う。
その「彼」とは、理化学研究所(以下、理研)発生・再生科学総合研究センター(神戸市)の幹細胞研究者、笹井芳樹である。笹井は、神経幹細胞を誘導して複雑な構造を作り上げる「神業の持ち主」として、多くの研究者に大きな影響を与えている。彼は眼杯1のほかにも、大脳皮質の繊細な多層組織2や、原基(器官のもとになる組織)の段階だがホルモンを産生できる下垂体3を、試験管内で発生させている。現在は、小脳を試験管内で作ろうとしている4。小脳は、運動と体のバランスを調整する脳構造である。ブリュッセル自由大学(ベルギー)の幹細胞研究者Luc Leynsはこう話す。「彼のこうした論文は、近年の幹細胞研究において、最も魅力的なものです」。
笹井たちは、組織工学の分野だけにとどまらず、発生生物学者が何十年も前から頭を悩ませてきた問題にも取り組んでいる。例えば、胚の中で増殖している幹細胞は、自己を体や脳などの複雑な構造へと組織化し続けるが、これはどのように行われるのかといったことや、組織形成は細胞に内在する遺伝的プログラムによって促進されるのか、それとも、近隣組織による外からの指示によって形作られるのか、といった問題だ。
笹井は、直観とそれに基づくたゆまない試行錯誤から、幹細胞が遺伝的プログラムと外部シグナルのバランスを絶妙に取っていることに気付いた。そこで彼は、必要な物理的シグナルや化学的シグナルを与えられるよう管理でき、かつ、細胞に「好きなように」振る舞わせて自己を組織化できる環境を作り出した。
彼は折りに触れて、自分のことを「出逢いの演出家」(仲人)だと言う。熟練の仲人は、初対面の男女が距離を縮めるには2人きりにしておくのがいちばんの良策であることをよく知っている。「2人とも、何をすべきかわかっていますよ。男女の付き合いはデリケートなものです。外野があまりにうるさいと、2人が交わすささやかな合図がかき消されてしまいます」と彼は説明する。
笹井の研究は医療への応用も期待できる。胚発生を三次元で立体的に再現する彼らの手法は、視細胞などの臨床的に有用な細胞を、二次元培養よりも大量に、かつ高効率で作り出すことができる。また、人体を模した構造にはめ込むこともできるだろう。笹井のチームは現在、試験管内で作り出した網膜をマウスやサル、ヒトに移植する研究をめぐって、ほかの研究チームと競い合っているところだ。幹細胞を二次元的に培養して成熟させる手法は、「次世代の再生医療」に結びつくものだが、今回の笹井たちの三次元的手法は、さらに進んだ「次々世代の再生医療」につながると期待される。
胚様体培養法の確立
理研主催の国際シンポジウム後の懇親会などで、笹井がたびたび演じる役がある。ほんの少し硬めの動きと控え目な物腰でカクテルシェーカーを操る彼は、「バーテンダーは、いわば私の副業のようなものです」と真顔で言う。確かに笹井は、96個の細かいくぼみのある実験用プレート上でミックスした「カクテル」によって、科学界から称賛を得たのだ。
笹井は親族の多くと同じ医学の道に進んだ。しかし彼はすぐ、医学の中でも特に神経疾患に関して基礎的解明がなされていないことに、もどかしさを感じるようになった。「脳のことを知らなければ、医者は患者に貢献できませんし、治療は対症療法に終始してしまうでしょう」と彼は当時の気持ちを思い返す。脳を知るには、胚の時期に、どのように脳が生まれて変形していくのかを調べるよりほかないと思えた。「脳は複雑です。普通、複雑な系は制御がやっかいで、結果、乱雑になりやすいものです。ところが脳は、体の中でも最も秩序立った構造なのです」。彼は、脳という精緻な系がどのように制御されているのか知りたいと思った。
パズルのピースのうち1個はわかっていた。それは、脊椎動物の胚にある「シュペーマン形成体」と呼ばれる領域で、周囲の細胞を神経組織に誘導する。この形成体は、1924年に存在が発見された以降もなお、その作用の仕組みがわかっていなかった。それを明らかにしようと、笹井はカリフォルニア大学ロサンゼルス校(米国)でのポストドクトラルの地位を受任したが、その船出は厳しいものだった。カリフォルニアに向かう途中の空港内で、所持金とパスポートを盗まれてしまったのだ。しかし、科学研究に対する彼の努力はすぐに報われた。「彼はすぐさまパスポートの再発行を受け、しかも、1か月もしないうちに、かの有名な『コーディン』遺伝子を作り出すクローンの発見を成し遂げたのです」と、彼の指導者だった発生生物学者Eddy De Robertisは振り返る。
笹井たちのチームは、コーディンが、シュペーマン形成体によって分泌される重要な発生シグナル物質であることを発見した5。また、コーディンは、近くの細胞を神経細胞(ニューロン)へ分化させるよう命令しているのではなく、むしろその細胞を神経以外の細胞種へと分化させるシグナルを阻害していることがわかった6,7。この発見は、発生期の神経誘導の基本モデルを確立するのに大きく役立った。そのモデルは、胚の細胞は、ほかに何もシグナルがないと、内在性のプログラムに従って神経系の細胞になるというものだ。
1990年代後期になると、ES細胞の研究者たちも、こうしたシグナルに注目し出した。彼らは、ES細胞を、治療に使えそうな成熟した細胞種、中でもニューロンまで分化させたいと考えていた。笹井は、「研究者が総じて、強引に進めて細胞培養系を乱してしまうことが問題なのです」と話す。胚の場合、培養系からシグナルを取り除き、系を乱さないことが大事だと笹井にはわかっていた。「我々が試みたのは、外部からの不要な指令を最小限にすることです」と彼は言う。
笹井は、自身の信じる方針に沿って実験系を組み立て、ES細胞の増殖に通常添加される血清をあえて加えなかった。血清には、性質の明らかでない増殖因子やほかのシグナル伝達分子などが含まれているからだ。彼はまた、培養皿のプラスチック表面など、物理的合図を与えるものも取り除いた。具体的には、ES細胞が自発的に、培養液中を浮遊する塊(胚様体)を形成できるようにした。
「こうした細胞凝集塊は、容器表面に接着すると、囚われたような状態になって、自分たちが思うようには振る舞えなくなります」と彼は説明する。支持するものがない状態で細胞塊を生きたままキープするのは難題だったが、笹井たちはその後5年かけて入念に実験し、無血清の胚様体培養法を完成させた8。その後、その特許も取得した。この培養法は、余計なものを削ぎ落として細胞が生存するための成分のみを混合した生命維持システムであり、その後の彼の「脳組織ファクトリー」でも中核の技術となる。
大脳皮質から網膜へ
笹井の培養系で、胚様体はすぐに、彼が「脳ボール」と呼ぶ細胞集合体になった。このボールには神経前駆細胞が含まれている。笹井は、外部からの刺激を完全に除いた条件で培養したボールから生じた細胞が、視床下部と呼ばれる脳領域が発生するときの細胞に似ていることを見つけた9。しかし、この細胞は、増殖因子の存在をちょっと感じ取っただけで、大脳皮質細胞へ分化し始めてしまう2。笹井がそのままこの細胞を2週間ほど培養したところ、意外な結果になった。皮質細胞が自発的に層構造を形成し始め、最終的には15日齢のマウスの大脳皮質にそっくりの多層構造になったのだ。また、この構造を生まれたばかりのマウスの脳に移植したところ、生着することができた。「我々がやったのは、適切な培養液と細胞数を選択し、増殖可能な環境条件を整えるところまでです。それ以降は何もしていません。細胞を増殖させ続け、彼らにやりたい仕事をさせただけです」。
しかし、試験管内でできた大脳皮質は完全ではなかった。例えば、本来の大脳皮質は6層だが、これには4層しかなかった。そこで笹井は、眼の網膜ならば大脳皮質よりも簡単に作れるのではないかと考えた。網膜は、胎児期の脳から袋状に突き出てできる多層組織で、その層の一部には光を受容する視細胞が存在する。また網膜は、大脳皮質と比べると薄く、胎児期の早い段階で形成されるうえ、複雑な血管系も必要としない。
笹井は、培養系を別の種類の組織に応用するとき、培養条件を少しだけ変化させて、細胞が特定の発生経路に入るのをそっと後押しする。また、ES細胞が目的の細胞種(この場合だと網膜前駆細胞)に分化すると光るよう、遺伝子操作で蛍光リポーター遺伝子を細胞に仕込み、システムがうまく作動しているかどうかを見る。「劇的な変化を起こさせるのに、どういった微調整が必要なのかを把握できるかどうかです。我々の成功はそれにかかっています」と彼は話す。
最終的には、網膜を形成させるには、2、3の微調整で十分だとわかった。例えば、増殖因子の濃度を減らしたり、標準的な細胞培養材料「マトリゲル(Matrigel)」の添加量を増やしたりすることだ。その結果、胚での眼の発生をほぼ再現することに成功した(「眼の作り方」を参照)。培養6日目までに、脳ボールから、将来網膜になる細胞層が風船状に飛び出し、その風船は自発的に内側に陥入して、内外2つの細胞層からなる眼杯ができる。その眼杯を、笹井の言葉を借りれば「木からリンゴを収穫するみたいに」切り取り、別の培養液に移してそのままにしておく。2週間後、眼杯には網膜の6層すべてができる。これは8日齢のマウスの眼と同じ構成である(この日齢ではまだ眼が見えない)。周囲に支持組織がない状態にもかかわらず、細胞塊が自発的に大きく変化するという生物力学的な過程を目にしたとき1、笹井もほかの研究者も驚いた。「それを見たとき、『まさか、こんなことが!』と思いましたよ。形状や各部位のつながり、そして大きさまでもが、すべて本物と同じなのですから」と彼は話し、さらにこんな語呂合わせも付け加えた。「英語だと、驚いたときに『目玉が飛び出る(eye-popping)』と言いますよね。この結果は、まさに目玉が飛び出る出来事だった訳です」。
次のステップは当然、この結果をヒトのES細胞でも再現することだが、事はそう簡単ではなかった。ロンドン大学ユニバーシティカレッジの眼科医で神経科学者のPeter Coffeyは、笹井の「レシピ」に従ってヒトES細胞で眼杯を作ってみたが、「悲惨な結果」に終わっていた。しかし笹井たちは今年、この偉業を成し遂げ、Cell Stem Cell誌に報告10した。笹井によれば、ヒトES細胞の敏感さに対応するために、注意深く微調整したのだという。例えば、ヒトのES細胞はマウスに比べて増殖に3倍の時間がかかる。そこで、細胞の数をマウスのように3000個ではなく9000個から始めた。Coffeyは失敗した経験から、笹井の研究室で蓄積された専門的な技術や知識がいかに大きいものかを実感させられたと話す。「彼らは長い間試行錯誤し、経験を積み重ねてきたのです。さすがと言いたいですね」と、彼は少しうらやましそうに語った。
視力回復への道
こうした技術のすべてを駆使しても、電球を照明器具にはめ込むように、眼を眼窩(眼球の入るくぼみ)にすっぽり入れることはできないだろう。笹井が眼杯を成熟した網膜に完成させたとしても、現状では、移植した網膜と脳の神経を接続する方法についてはほとんど案がない。
笹井の研究成果によって、高純度・高密度で十分に組織化された視細胞の層を大量に供給できることになる。また、標準的な二次元培養では達成が難しかった「発生段階を高精度で選択する」ということも可能だ。最終的には、作った眼杯から視細胞をシート状で取り出し、それを、網膜色素変性症や黄斑変性症などで損傷した網膜に組み込めるのではないかと笹井は考えている。笹井は一連の論文で、細胞シートを網膜細胞層の代わりにしたり、ほかの層の間にシートをすべり込ませたりする手法を示している。
しかし、「移植した視細胞を、網膜の残り部分や脳と接続するのは簡単ではないだろう」というのが、眼の幹細胞技術に携わる研究者たちの認識だ。幹細胞療法を試みるアドバンスド・セル・テクノロジー社(米国カリフォルニア州サンタモニカ)の最高科学責任者Robert Lanzaは、神経接続の実現について懐疑的である。「こうした細胞を意味のある形で接続する方法が実現に近い段階にあるとは、とても思えません」と彼は話す。
一方、Aliはもっと期待を持っている。彼のチームは4月に、生後2、3日のマウスから採った視細胞の前駆細胞を移植することで、夜盲症マウス(暗闇で目が見えない)の視力を改善させたと報告した11。Aliは、笹井のもう1人の共同研究者である理研発生・再生科学総合研究センターの高橋政代とともに、笹井の手法を使って発生させた視細胞のシートを取り出してマウスに移植する研究に着手した。Aliも高橋も、これまでに得た結果について話したがらないが、高橋によれば、移植した視細胞は「十分に生着した」という。高橋は、視細胞シートを今年末までにはサルに移植する予定だ。
脳全体を網羅する
笹井が今、狙いを定めているのは、網膜よりも複雑な神経組織だ。2011年11月、彼はマウス下垂体の一部の人為的形成を報告した3。これは彼が今まで作り出した中で「最も込み入った」組織である。下垂体は、胎児期に2種類の組織が相互作用することで袋状構造として発生する。笹井はこれを試験管内でうまく再現できたが、その際、開始時に使ったES細胞の数は、マウスの網膜を作るのに使った数の3倍以上だった。どうやら、細胞数を調整することで、細胞がやり取りするシグナルの量を変化させられるらしい。下垂体を摘出したマウスに、試験管内で作った下垂体を移植すると、下垂体の内分泌系が回復し、摘出で死に至るはずのマウスを救済できた。この研究がうまく進めば、特殊化した細胞を高純度で供給できる見込みが高まり、最終的には内分泌疾患治療への利用も期待できる。
笹井は今、これまでの研究成果をさらに拡充し、血液供給系を備えた改良型の下垂体や、6層すべてを持つ大脳皮質、成熟して光を検知できる視細胞などを作りたいと考えている。しかし、彼が抱えている当面の大きな仕事は、小脳を人為的に作ることだ。それには、発生学的な起源が異なる3種類の組織を成長させて統合させる必要があるだろう。「出逢いの演出家」はすでに縁結びを進めており、「いい雰囲気作り」を試みているところだ。「若い男女が出逢うと2人だけの恋物語を始めるものです。しかし、彼らが満員の大きなホールの中で出逢ったら、そこに居続けても、うまくはいきません」と彼は解説する。「2人を浜辺やディスコに行かせる必要があります。我々の培養系はこうした環境を作り出そうとした結果にすぎないのです」。
笹井は、小脳の後に何を作ろうとしているか教えてくれない。しかし彼は、いずれは脳全体を網羅したいという。脳を丸ごと1個作ると言っている訳ではない。脳の各部分は、自発的に発生・成長して自己組織化するすばらしい能力を持っている。彼が追求しているのは、脳の各部分がどうやって組み合わさるのか、またどうやってこれほど高度に複雑な構造を作り上げるのか、それを明らかにすることだ。「組織をどんどん作り出すパーツ製作者になりたい訳ではありません。私は、まだ知られていないコンセプトで脳発生を説明したいのです」。
翻訳:船田晶子
Nature ダイジェスト Vol. 9 No. 11
DOI: 10.1038/ndigest.2012.121104
原文
Tissue engineering: The brainmaker- Nature (2012-08-23) | DOI: 10.1038/488444a
- David Cyranoski
- David Cyranoskiは、Natureのアジア太平洋地域の特派員。
参考文献
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- Eiraku, M. et al. Cell Stem Cell 3, 519–532 (2008).
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