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アスリートはどこまで超人化するか?

ドーピングなどの方法で運動能力を向上させることは、スポーツ界では違反行為とされている。しかし、それらの規制をすべて撤廃すれば、科学は人間の運動能力の限界を打ち破ってしまうかもしれない。

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Nature ダイジェスト Vol. 9 No. 10 | doi : 10.1038/ndigest.2012.121012

原文:Nature (2012-07-19) | doi: 10.1038/487287a | Superhuman athletes

Helen Thompson

2012年8月、英国の短距離走選手Dwain Chambersは、生涯で最も重要なレースに臨んだ。彼は、2012年ロンドンオリンピックでメダルを獲得することで、2003年のドーピングによる2年間の出場停止処分に始まった、長く不名誉な日々に決着をつけたいと願っていた(訳注:Chambersは100m走と400mリレーに出場したが、いずれもメダル獲得には至らなかった)。

ドーピング事件以降、Chambersは、運動能力を向上させる薬物に手を出さないよう人々に呼びかけることに、多くの時間を捧げてきた。彼は、スポーツ規制当局が禁止する6種類の物質を使用していたことを認めている。その内訳は、回復を早めるための2種類のアナボリック・ステロイド(1つは分子構造改変薬、もう1つはテストステロン・クリーム)、赤血球の産生量を増やしてトレーニングを何度も繰り返すことを可能にするエリスロポエチン(EPO)というホルモン、回復のためのヒト成長ホルモン、だるさを軽減するためのリオチロニンという甲状腺ホルモン、そして、覚醒を高めて反応時間を短くするためのモダフィニルというナルコレプシー治療薬である。

人類は運動競技とほぼ同じ長い歴史をかけて、運動能力を向上させる究極の方法を求め続けてきた。古代ギリシャの医師ガレノスは、剣闘士の医師として蓄積した知識をローマにもたらし、ハーブやキノコや動物の睾丸を食することの効果を称えた。Chambersの物語は、運動能力のさらなる向上をめざす現代のスポーツ選手の探求が、全く新しい段階に入ったことを示す実例の1つにすぎない。

生命倫理と公共政策の研究機関であるヘースティングズ・センター(米国ニューヨーク州ギャリソン)の前所長であるThomas Murrayは、「運動能力を向上させる技術の進歩には、軍拡競争のようなところがあります」と言う。

その結果、スポーツ界のドーピング騒動は跡を絶たず、そのたびに、Murray自身を含めた多くのスポーツファンを幻滅させている。アマチュアとして自転車競技を楽しむMurrayは言う。「私だって、EPOを摂取すれば、4マイルの上り坂をもっと速く走れるようになるかもしれません。けれども、自転車にモーターをつければ、ずっと速く走れるでしょう」。モーターの力を借りて速く走るのは自転車競技の本質を損なうことであり、薬物を使うのも同じだと彼は言う。国際オリンピック委員会を筆頭に、プロ・アマを問わず、すべてのスポーツ団体がこの姿勢をとっている。

しかし、中には、「運動能力を向上させる薬物は普及しすぎている。安全に使用するかぎり、スポーツ選手が望む薬物を好きなだけ使えるようにすることが、スポーツ規制当局にとって唯一の現実的な選択肢である」と言う人々もいる。

ウェストオブスコットランド大学(英国スコットランド州エアー)の生命倫理学者Andy Miahは、「ドーピングを規制する目的が選手の健康を守ることにあると言うなら、医師の監督の下でドーピングを行うようにしたほうがよいと言えるのではないでしょうか」と話す。「もっとよいのは、世界アンチドーピング機関と対をなす『世界プロドーピング機関』を設立して、より安全な形で運動能力の向上を追求することです」。

この論争が提起する倫理的問題は非常に難しく、科学だけでは解決できない。けれども科学は、「運動能力を向上させる技術を好きなだけ使ってよいとしたら、人間の運動能力はどこまで高めることができるか?」という純粋に技術的な問題なら、答えることができる。

魔法の薬

筋力を高める薬物として最も有名なのが、膨大な種類にのぼるアナボリック・ステロイドであろう。このグループの薬物は、薬物検査に引っかからないよう少しずつ構造が改変され続けており、その種類はコンスタントに増えている。カリフォルニア大学ロサンゼルス校の薬理学者Don Catlinは、「ステロイド分子には約2000種類の改変方法があり、いずれも、人間の体を大きく、強くすることができます」と言う。これらの化合物は、体内でテストステロン(男性ホルモン)と同じような働きをし、タンパク質合成を活発にして、筋組織を増大させる。ステロイドの摂取と運動を組み合わせることにより、男性では筋力を38%も高めることができ、女性ではそれ以上の効果が出る可能性がある。

ヒト成長ホルモンも、筋力を高める薬物としてよく知られている。ヒト成長ホルモンは、インスリン様成長因子1(IGF1)というタンパク質の濃度を高めることにより筋肉の成長を促すが、筋肉の成長が本当に筋力アップにつながるのかどうかについては、議論がある。ヒト成長ホルモンの有効性を示すために、余暇にスポーツを楽しむ人々を対象にして行われた唯一の研究では1、ヒト成長ホルモンを摂取した人々の短距離走の能力は4%向上していた。この数字は小さく見えるかもしれないが、クイーンズランド大学(オーストラリア・セントルシア)の内分泌学者で、この論文の共著者であるKenneth Hoは、50m自由形の水泳選手や100m走を専門とする短距離走選手にとっては大きな意味がある、と言う。「この種の競技は、0.01秒のレベルで競われているのですから」。

持久力がカギを握るスポーツでは、筋力を高めることよりスタミナをつけることのほうが重要であり、血液ドーピングにより酸素を運搬する赤血球の数を増やすことで劇的な効果が得られる。血液ドーピングは、血球輸血かEPOの投与の形で行われる。ある研究によると2、血液ドーピングは健常者のスタミナを34%高めることができ、別の研究によると3、トレッドミルで8km走るタイムを44秒短縮させたという。2012年6月にチューリッヒ大学(スイス)のMax Gassmannらが発表した研究によると4、EPOが脳に影響を及ぼして、スポーツ選手のトレーニングへの意欲を高めている兆候も見られるという。

現在、製薬会社が合法的に販売している薬物も、スポーツ選手によって違法な形で使用されるおそれがある。筋ジストロフィーなどの筋萎縮を引き起こす疾患の治療薬は、筋肉の発達を抑制するミオスタチンというタンパク質の活動を抑制する。また、貧血や腎疾患の治療に用いられるHIF安定薬は、EPO遺伝子など、赤血球の産生にかかわる遺伝子を活性化させるタンパク質を制御する。運動能力の向上に、向知性薬が役に立つ部分があるかもしれない。エセックス大学(英国コルチェスター)の生化学者Chris Cooperは、「疲労時にも明晰に思考できるようにする化合物が、いくつか提案されています」と言う。

運動能力の向上のために摂取される物質は、薬物だけではない。スポーツ選手は合法的な栄養補助食品にも強く依存している。「98.5%は誇大宣伝です」と、バース大学(英国)の運動生理学者Conrad Earnestは言う。しかし、クレアチンという栄養補助食品は、運動時にエネルギーを運搬するATPという分子の合成に関与する物質で、一部のスポーツ選手に効果があることが知られている。クレアチンを摂取しているスポーツ選手の成績は8%も向上することがあると、Earnestは見積もっている。

もう1つの効果的な栄養補助食品は、ビートルート(赤い色をした食用ビートの根)のジュースである。エセックス大学の研究者は、このジュースに含まれる硝酸塩が体内の一酸化窒素(NO)濃度を増加させ、筋肉が酸素を利用する効率を高めることを発見した。彼らの研究によると、ビートルートジュースを飲んだダイバーは、通常より11%も長い時間、息をとめていられたという5。これは、息継ぎの回数をできるだけ少なくしたい短距離泳者の役に立つだろう。

ただし、運動能力を向上させる物質の大半は、多くの副作用を持っている。ステロイドは、高血圧、心臓弁の肥厚、生殖力と性欲の低下、女性では胸毛の出現、男性では睾丸の萎縮などの変化を引き起こすことがある。また、赤血球の数を大幅に増やすと、血液が濃くなり、脳卒中の発症リスクが高くなる。

運動能力を向上させるという薬物の中には、がん、エイズ、筋ジストロフィーなどの重い病気の治療薬もあり、こうした薬物の臨床試験は、基本的に、成長因子やホルモンのレベルが正常値を下回る重症患者を対象に行われている。重症患者に関するデータをスポーツ選手に正しく当てはめる方法はわかっていないと、Cooperは言う。「一流のスポーツ選手は、競技能力の高さによって選抜されているうえ、多くのトレーニングを積んでいます。彼らは、遺伝的に強化されているという意味で、一般人とは大きく異なる生物なのです」。

さらに、スポーツ選手が摂取しているのと同じ組み合わせの薬物を同じ量だけ健常者に投与して試験を行うことは、倫理的に大いに問題がある。ペンシルベニア州立大学(米国ステートカレッジ)のスポーツ科学の名誉教授であるCharles Yesalisは、「ステロイドと栄養補助食品と特別食のいろいろな組み合わせにどのような長所があるのか、明らかにするのは不可能です。魔女が大釜で煮込んで作った薬の効果を解明しろ、と言うようなものです」と言う。

遺伝子ドーピング

スポーツ選手のロッカールームでは、10年ほど前から、遺伝子を追加したり改変したりすることで運動能力を向上させる「遺伝子ドーピング」の噂があった。自然に起こる突然変異のうち、スポーツ選手にとって好ましいものはたくさんある。フィンランドのクロスカントリースキー選手で、1960年代初頭に3個の金メダルを獲得したEero Mantyrantaの遺伝子には、体内のEPO受容体の効率を高めるような突然変異があった。2004年には、小さなボディービルダーのような体格の幼児に、ミオスタチンを働かなくする突然変異があることが明らかになり、話題になった。また、身体能力を高める遺伝子として注目されているアンギオテンシン変換酵素をコードする遺伝子には、酸素送達能力と毛細血管密度を高めて持久力を高める変異と、筋肉の発達や筋力と関連したもう1つの変異が見つかっている6,7

遺伝子治療の進歩により、いつの日か、どんなスポーツ選手でも自分のDNAを強化できるようになるかもしれない。例えば、高齢者の筋ジストロフィーの治療を目的とする実験では、ペンシルベニア大学(米国フィラデルフィア)の生理学者Lee Sweeneyが率いるグループが、マウスにIGF1の過剰発現を引き起こす遺伝子を導入した。この治療により若い成体マウスの筋力が14%も高まったため、このマウスには「マイティー・マウス」というニックネームがついた8

薬物を使って遺伝子をオンにしたりオフにしたりする研究者もいる。2008年には、ソーク研究所(カリフォルニア州ラホヤ)のRonald Evansらが、筋肉中の速筋線維に対する遅筋線維の割合を高める遺伝子を活性化する薬物GW1516を使った研究を行った。その名が示唆するとおり、遅筋線維は速筋線維に比べてゆっくり収縮するが、有酸素活動の効率がよい。Evansらは9、GW1516と運動を組み合わせることで、マウスの持久力を70%も向上させることができた。

とはいえ、EvansもSweenyも、スポーツ選手がこうした治療を受けた場合の効果については懐疑的だ。「マウスを使った実験では、最も大きな効果があったのは運動不足の個体でした。運動したのと同じ効果をもたらす薬物の効き目については、ヒトでもマウスでも基本的に同じ結果になると思います」とEvansは言う。「持久力を要するスポーツの選手は、優れた肉体を持っているため、最も効果が少なくなると思われます」。

遺伝子治療は、健康に害をなすおそれもある。その一例が、遺伝物質を細胞内に輸送するのに用いられるウイルスに対する激しい免疫反応だ。また、遺伝子治療の効果を制御するのも困難であるかもしれない。「EPOのようなホルモンをコードする遺伝子をオンにできるようにしたいなら、それをオフにすることもできたほうがよいでしょう」とCatlinは言う。「遺伝子ドーピングはよいアイディアではないと思いますが、どこかで誰かが挑戦していたとしても、私は驚きません」。

機械の体

薬物だけが、運動能力を向上させる方法ではない。外科手術や、最終的には工学的な強化も、表彰台に上がろうとするスポーツ選手に手を貸すことができる。損傷した肘靭帯の代わりに膝腱または前腕の腱の組織を移植する手術を受けた野球のピッチャーたちは、2年間のリハビリを終えた後、以前より強くボールを投げられるようになったと主張する。けれども、Hospital for Special Surgery(米国ニューヨーク市)の整形外科医Scott Rodeoは、ピッチャーたちの証言は科学的に裏付けられている訳ではないと警告する。「肘が本当によくなったと言うのは、やや誇張です」とRodeoは言う。

一流のスポーツ選手の場合、関節全体を人工関節に交換する手術により運動能力が向上する可能性はない。ねじが多すぎるとあちこちで緩む可能性があるし、人工関節は生身の関節の機構と完全には一致していないからだ。さらに、一流スポーツ選手に酷使されたら、人工関節の材料はわずか数年で摩耗してしまうだろう。それでも、研究室で人工の皮膚や腱などの交換パーツを作成する技術が大きく進歩すれば、こうした手術の評価も変わるかもしれないとRodeoは言う。

Miahは、もっと大胆な外科的強化も可能になるかもしれないと考えている。「例えば皮膚移植により、手や足の指の間にある『水かき』を大きくして泳力を高める手術です」と彼は言う。「ほかの選手より少しでも優位に立とうとする選手が、自分の肉体にこの程度の微調整をすることは大いに考えられます」。もう1つのフロンティアはナノテクであるとMiahは言う。研究者たちはすでに、緊急時に使用するための血液サプリメントの実験をしている。このサプリメントは、酸素を運搬するナノ粒子をベースにしているが、そこから、「体内に導入して、高い能力をずっと維持できるようにするようなナノ装置を製作することはできないかと、盛んに議論されています」と彼は言う。

機械的な競技用義肢は、すでに現実のものになっている。その一例が、2008年の北京パラリンピックの金メダリストで、2012年のロンドンオリンピックにも出場した南アフリカ共和国のOscar Pistoriusのような下肢切断者が使う「チーター・スタイル」の義足である。しかし、現段階の義足が生身の脚より有利になるかどうかについては、科学者たちの間でも意見が分かれている。

ボーンマス大学(英国)の義肢装具工学研究のBryce Dyerは、Pistoriusのばねのような義足は、レース終盤の加速を可能にするが、スタート時にかがんだ姿勢から走り出すときや曲線コースを走るときには不利になると説明する。「彼がまっすぐに走っているときには、最終的には、トランポリンの上で跳ねているような、自然に調和のとれた状態になります」とDyerは言う。「けれどもそうなると、進行方向を変えることができずに、走路からはずれてしまうことがあるのです」。

Pistoriusの義足には人間の足首のような剛性がないため、地面を蹴ったときに、地面から同じ大きさの上向きの力を受けることができない。この欠点を補うため、Pistoriusは脚の上げ下げを速くしている。マサチューセッツ工科大学(MIT、米国ケンブリッジ)の生体工学研究者Hugh Herrは、「生体力学的に見て、彼の走法は普通とは違っていますが、それが有利であるという証拠はありません」と言う。

これらの問題は、生体工学技術の進歩が解決するかもしれない。「数十年後には、生身の四肢の機能を完全に摸倣した、精巧な義肢が開発されて、オリンピック委員会に認可されているかもしれません」とHerrは言う。MITにある彼の研究室は、現在、競技用の義足の開発に取り組んでいる。「生身の脚の制約を受けない機械的な義足を装着した選手が競い合うパラリンピックのレースは、人間とマシンの一体化がカギを握る、自動車レースのようなスポーツになっていくのかもしれません」。

Herrは、人間の運動能力を向上させる技術は、人間の限界を超えることを可能にするだけでなく、独自のオリンピックが開催されるところまで行き着くだろうと考えている。「パワーランニング、パワースイミング、パワークライミングなど、それぞれの分野で新しいスポーツが誕生するでしょう」と彼は言う。「自転車の発明によってサイクリングというスポーツが生まれたように、さまざまな新しいスポーツが生まれてくるでしょう」。

(翻訳:三枝小夜子)

Helen Thompsonは、NatureワシントンD.C.オフィスのインターン。

参考文献

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Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

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