黒死病の原因菌のゲノム解読
14世紀半ば、ヨーロッパでは全土にわたって、凶悪な疫病、黒死病が猖獗を極めていた。そしていよいよロンドンまで到達しそうだという噂が広まると、ロンドン市民たちは急遽、墓穴を掘り始めた。1348年、ロンドン大司教のRalph Stratfordは、黒死病の犠牲者数が教会の墓地の収容能力を超えた場合に備え、すでに購入していた数エーカーの土地を埋葬用に回した。その後、2年で、ロンドン市民4万~10万人のうち3分の1~2分の1が死亡し、イースト・スミスフィールドとウェスト・スミスフィールドの2つの新しい墓地には何千人もの遺体が葬られた。流行のピーク時には毎日200人もの遺体が埋葬されたという(「黒死病の進路」参照)。
イースト・スミスフィールドは、黒死病の流行時にのみ使われていたいくつかの埋葬地の1つで、かつては「三位一体の教会墓地」と呼ばれていた。1980年代、墓地の発掘調査が行われ、この「疫病の墓穴(plague pit)」に埋められたと推定される2400遺体のうち3分の1が掘り起こされた。一部は5層にも積み重なっていた。驚いたことに、当時は埋葬に暇がなかったはずなのに、遺体はきちんと東西方向に安置されていた。また、遺体の多くはコインや生前と同じアクセサリーを身につけており、なかには木炭が添えられている遺体(おそらく腐敗中に流れ出す液体を吸収させるためだろう)もあった。ロンドンでは、このように埋葬場所をあらかじめ用意できたために、通りに死体が積み重ねられることもなく、一部の犠牲者は厳かな教会葬に処することもできたようである。
それだけではない。流行から6世紀半経った現在、この埋葬場所は、中世ヨーロッパを席巻した黒死病の科学的な解明に役立つことになった。2011年10月、イースト・スミスフィールドに埋葬されていた遺骨からペスト菌(Yersinia pestis)を回収し、そのゲノムを再構築したと、ある遺伝学者の研究チームが報告したのだ1。解読されたゲノム塩基配列は、古い時代の病原細菌としては初めてのものであり、1つの感染症があれほど甚大な被害を招いた経緯を説明するのに役立つと思われる。
今回の成果は、昔の感染症の遺伝学研究におけるルネサンスの始まりといえるだろう。この研究分野はかつて疑問視され、物議をかもしたが、今まさに復権をとげようとしている。「これからは、あらゆる古い病原体が競って研究されることでしょう」と話すのは、今回の研究チームの共同リーダー、マックマスター大学(カナダ・ハミルトン)の古遺伝学者Hendrik Poinarである。
黒死病の原因は本当にペスト菌か?
1894年、Alexandre Yersinは、ペスト菌(Y. pestis)を発見し、腺ペストと結びつけた。このとき多くの科学者は、この病原菌は中世の黒死病の原因になっただけでなく、それ以前に大量の犠牲者を出した数々の疫病の要因だったのではないかとも考えた。6世紀の「ユスティニアヌスのペスト」は、コンスタンティノープルに壊滅的被害をもたらし、ヨーロッパや中近東で数百万人もの死者を出した。ペストはその後2世紀にわたって周期的に姿を現した。一方、14世紀に蔓延した黒死病もその後数回流行し、19世紀に入っても見られた。
ペスト菌と黒死病の流行を関連付けるてがかりは主に、書物に記載された症状から得られた。例えば、1350年ごろにジョヴァンニ・ボッカチオが書いた『デカメロン』にはこんな記述がある。「それはまず、足の付け根や脇の下に特別な腫れ物という形で現れ、卵ほどの大きさにまで膨らみ、一部はリンゴほどにもなった」。
しかし、現代の歴史学者や科学者の中には、ペスト菌が黒死病の流行を引き起こしたとする説に疑いを持っている人々もいた。黒死病の原因がペスト菌であるとすると、ペスト菌が原因とわかっている過去100年の腺ペストの流行は、黒死病に比べて死者数が少なく、広がり方も遅く、被害が軽すぎるように思えたからだ。一部の「ペスト菌説修正主義者」は、黒死病が流行した時代は寒冷期であり、ペスト菌をヒトに伝播するノミがその時代を生き抜こうと必死になったのだろうと主張した。また、黒死病では死亡までの期間が短く、ボッカチオの記録によれば、多くの場合、最初の症状が出て3日以内に死亡したとある。そこで懐疑派は、ペストよりも炭疽菌やエボラに似た出血熱ウイルスのほうが、そうした短時間での死亡を引き起こす可能性が高いのではないかと主張している。
近年、遺体の細菌のDNA解析が行われ、明確な答えが得られたかに思われた。2000年、地中海大学(フランス・マルセイユ)の微生物学者Didier Raoultの研究チームにより、ペスト菌と黒死病の関連性が証明されたと発表されたのだ。彼らは、フランス・モンペリエで14世紀に大量の死者が埋葬された場所から掘り出された子ども1体と成人2体の遺体の歯から、ペスト菌のDNAを回収したと報告した2。研究チームは、ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)と呼ばれる高感度の手法を使って、遺体の細菌からペスト菌のplaという遺伝子の一部を増幅することに成功し、原因細菌がペスト菌であることを突き止めた。論文の中で研究チームは、「我々はこの議論に決着をつけることができると考える。中世の黒死病はペストだった」と述べている2。
しかし、一部の懐疑派からDNA混入の懸念が表明された。PCR法で増幅されたのは、以前にRaoultの研究室で扱っていた現代のペスト菌由来のDNAか、もしくは土壌に生息する近縁な細菌に由来する塩基配列ではないかというのだ。「私は一度もこの結果を再現できませんでした」と、コペンハーゲン大学(デンマーク)の進化遺伝学者Thomas Gilbertは話す。Gilbertの研究チームは、2004年、フランス、デンマーク、イングランド(イースト・スミスフィールドを含む)の「疫病の墓穴」で見つかった61遺体から回収した108本の歯で、ペスト菌DNAの痕跡が全く見つからなかったと報告している3。
一方、Raoultは、混入は一切なかったし、Gilbertのやり方では自分たちの結果4を正確に再現できないと主張した。それでも、ペスト菌が黒死病の原因だったとする見解に疑いを抱いていた人々は、Gilbertの研究結果に肩入れした。
こうした動きは、黒死病だけにとどまらなかった。昔のヒトの遺体(結核や梅毒、マラリアの患者など)から回収した微生物DNAを調べたほかの研究も、粗探しの対象になった。実際、いくつかのケースでは、研究結果を再現することができなかったり、方法論的に欠陥が見つかったりした。懐疑派は、こうした遺体標本に由来するDNAは熱や湿気、時間経過によって劣化しすぎていて検出できなかったとし、まもなくこの分野は肯定派と否定派に二分されてしまった。
「完全に分裂状態でした」と、ロンドン大学ロイヤルホロウェイ校(英国)の古遺伝学者Ian Barnesは話す。彼は、19世紀と20世紀初頭の遺骨で梅毒もしくは結核のDNAの証拠を見つけようと2年半を費やしたが、うまくいかなかった5。「肯定派と否定派はお互いをほとんど無視していました」と彼は振り返る。
答えを掘り出す
イースト・スミスフィールドで発掘された遺骨のほぼすべては黒死病の犠牲者のもので、多くは働き盛りの年齢に死亡していた。これら数百人の遺骨は、黒死病が流行していたころのロンドンの生と死のありさまをとらえたものといえる。この埋葬地が掘り起こされると、研究者たちは情報を探し出そうと、発掘された遺骨に殺到した。
イースト・スミスフィールドのすぐ近くには、ロンドン博物館がある。骨考古学者のJelena Bekvalacは、黒の地に白い骸骨模様が散らばったスカーフをかぶり、その1階のぴかぴか光る床で、「疫病の墓穴」に埋葬されていた1人のほぼ全身の骨を調べた。Bekvalacは、骨盤を調べ、骨の持ち主が10代後半から20代前半の男性のものだと判定した。歯には少量のプラークがあり、頭蓋骨には治癒した深い傷跡が認められる。それ以外にこれといった傷はなく、骨格から黒死病を示す外見上の特徴は見られない。
一方Poinarは、古い微生物DNAに基づく説を疑っていた。だが、イースト・スミスフィールドから掘り出された人骨には興味をそそられた。1990年代後半にPoinarは、当時ペンシルベニア州立大学(米国ステートカレッジ)の大学院生だったSharon DeWitteに出会った(現在は〈米国コロンビア州サウスカロライナ大学〉に所属)。DeWitteは、遺体の人口学的解析に取り組んでおり、黒死病はすでに体が弱っていた人々を選択的に死に追いやったと考えていた。2人は、ペスト菌のDNAを見つけるために遺体の歯や骨に穴を開けることを検討したが、Poinarは、当時利用できる検出ツールは解析に十分ではないと思っていた。当時はまだPCR法を使っていたのだ。「そこで我々は、標本に手をつけず、DNA塩基配列をもっと正確に解析できる優れた方法が出てくるのを待つことにしました」とDeWitteは振り返る。
やがて、短いDNA断片を読み取る次世代DNAシーケンサーが登場した。この技術は、地中に何百年も埋もれて損傷したDNAの塩基配列を読み取るのにぴったりだった。
実際、こうしたシーケンサーのおかげで、マックス・プランク進化人類学研究所(ドイツ・ライプチヒ)の古遺伝学者Svante Pääboの研究チームは、ネアンデルタール人の概要ゲノム塩基配列の解読に成功した6。しかしながら、人骨内にある古い病原体を見つけて塩基配列を解読することはそれよりもはるかに難しい。「まるでサッカー場で針を見つけるようなものです」とPoinarは言う。そうした病原体のゲノムは、ネアンデルタール人のゲノムの1000分の1という短さで、しかも、骨に入り込んだ土壌微生物のゲノムによく似ているのだ。
このゲノム探索の作業には、もう1つの新しい技術が役立った。Pääboのチームが開発した「targeted capture」という手法である。Pääboたちは、研究室で合成した「おとりDNA」を使って、骨の標本から、土壌微生物などのおとりに反応しないDNA断片はそのまま残し、ネアンデルタール人由来の古いDNA鎖だけを素早く拾い上げた7。「ちょうど池で釣りをするようなものです」と、テュービンゲン大学(ドイツ)の古遺伝学者Johannes Krauseは説明する。KrauseはPääboとともにネアンデルタール人のゲノムを研究しており、今回の「黒死病プロジェクト」でもPoinarとともに中心となった人物だ。
KrauseとPoinarの研究チームは原理証明実験として、現在のペスト菌株から得た塩基配列を使って、イースト・スミスフィールドに埋葬された犠牲者の歯からDNAを「釣り上げ」、そのDNAから短いDNAループの塩基配列を解読した。それは、pPCP1プラスミドと呼ばれる配列であり、腺ペストをヒトに伝播させる能力の一端を担っている。この成果は今年8月に発表された8。すでに昨年、さまざまな黒死病の人骨標本でペスト菌塩基配列を見つけたという別の報告9もあり、この結果と合わせて、大部分の科学者は中世に大流行した黒死病には腺ペストが関係していたと考えるようになった。
さらにKrauseと Poinarは、今年10月に発表した論文1で、この中世ペスト菌の全ゲノム塩基配列を解読し、ペスト菌の現在の17菌株を含む進化系統樹の根元に、この中世ペスト菌が位置することを示した。つまり、14世紀の黒死病の菌株から、現在ヒトに感染するペスト菌株の多くが生じたことを意味する。
Krauseによれば、14世紀のアジア西部やヨーロッパの各地で黒死病が猛威を振るったのは、おそらく、この菌株が出現してまもなくのことだっただろうという。「これは私にとって最大の驚きでした」とKrause。つまり、中世黒死病の菌株が出現する以前のペストは、現在は絶滅してしまったペスト菌株か、完全に別の病原体かのどちらかによって起こったことになるからだ。
しかしながら、アイルランド国立大学コーク校のペスト進化の専門家であるMark Achtmanは、この解釈を「全くナンセンス」だとしている。KrauseとPoinarの研究チームは、現在の多くのペスト菌株がアジア中央部や東部で見つかっていることを考慮していない、と言うのだ。そうしたアジア産菌株は、イースト・スミスフィールド菌株よりも起源が古いと考えられる。これに対しKrauseは、今回、アジア菌株のゲノム配列は入手できなかったが、これらがどの程度近縁かをぜひ知りたいと語った。
謎の多い惨禍
ここで、1つ、不思議なことが浮かび上がる。ペスト菌は過去660年の間にほとんど変化してこなかったようなのだ。中世の黒死病菌株のゲノムは、現在のペスト菌の標準的な「参照用」菌株のゲノムと約100塩基違っているが、こうした遺伝的差異は、現在の菌株でも見つかる。「黒死病が特に凶悪だった理由が見つからないのです」とKrauseは話す。
研究チームは今、黒死病の凶暴性を説明できそうなほかの遺伝的変化を探しているところだ。例えばゲノムの再編成が考えられるが、入手可能な短いDNA断片から突き止めるのは難しい。黒死病がどのように猛威を振るったかをもっとよく解明するため、現在のペスト菌株のゲノムを変化させて、黒死病の原因菌株をよみがえらせることもできるだろう。この方法は物騒に思えるかもしれないが、ペスト菌に関する研究は厳しく統制されており、たとえそうした菌株に誤って感染しても、現在では抗生物質で簡単に治すことができる。
さらに、Poinarによれば、中世の黒死病流行はペスト菌だけの問題ではなかったのだという。環境や疫学上の要因も、黒死病の嵐がヨーロッパ全土に吹き荒れるのを助長したに違いない。黒海の港町カッファがアジアからのペストの侵入口となり、そこから罹患した兵士がヨーロッパに戻って、栄養不良や数年にわたる寒くじめじめした気候によって弱っていた集団に、この病をまき散らしたのだと彼は話す。
Achtmanによれば、中世黒死病は、現在のペスト菌のようにネズミに付いたノミによってではなく、より効果的に伝播するほかの動物によって広がった可能性もあるという。もしくは、「スペイン風邪」大流行の場合のように別の血中病原体が関与していた可能性もある。1918~19年のスペイン風邪では世界中で1億人もの死者が出たが、これには細菌性肺炎が絡んでいた場合も多かった。
中世黒死病についてはまだ疑問も残っているが、科学者たちは現在、今回使われた最新の塩基配列解読の手法を昔のほかの感染症流行に適用したいと考えている。あの懐疑派、Gilbertでさえ、「私は今では完全に、古代の病原体がでっち上げだという考えを捨て、こうした研究には脈がありそうだという気持ちになっています」と話す。Gilbertの研究チームは、昔の作物に感染した病原体からDNAを回収して配列解読することを始めている。こうした研究によって、過去の微生物を見つけ出し、それらの伝播のようすや現在の菌株との進化的な類縁関係を明らかにすることができるだろう。例えば、新世界を旅したヨーロッパ人は、それまでなかった型の結核を北米に持ち込んだり、逆に梅毒をヨーロッパに持ち帰ったりしたといわれていることなどだ。
古い時代の病原体は、現在や将来の感染症流行を理解し予測するのにも役立つのではないかと、マンチェスター大学(英国)の生物分子考古学者Terry Brownは言う。Brownとダラム大学(英国)のCharlotte Robertsは、ブリテン島とヨーロッパでの結核菌株の進化をチャート化しているところだ。「過去1000年にわたる英国の都市での感染症流行をとらえることで、都市部に人口が集中し続けている第三世界で生じている諸問題を理解することができます」と彼は話す。同様に、1918年のスペイン風邪の原因になったインフルエンザウイルス株のDNA配列を解読して復元した成果10は、現在のインフルエンザウイルス株の塩基配列を解釈するのに役立った。
黒死病は、その凶悪性にもかかわらず、ロンドンに目に見える痕跡をほとんど残さなかった。現在、イースト・スミスフィールドの「疫病の墓穴」はロンドンの金融街のど真ん中にあり、現代的なオフィスビルと旧王立造幣局ビルの下に埋まっている。唯一、1350年にこの埋葬場所の近くに立てられた、シトー会のセント・メアリー・グレース修道院の崩れた遺跡だけが、ひっそりと残されている。
ロンドンにはもはや腺ペスト大流行は起こらないかもしれないが、壊滅的被害をもたらす感染症の大流行は人類の歴史において、至極当然の出来事である。今後数世紀の間に、どのような厄災が訪れてどんな爪痕を残すのだろうか。未来の考古学者たちは、記念碑や墓、そしておそらく犠牲者の遺体をも見つけ出し、流行の歴史を記録することだろう。だが、古い病原体のDNAにも考古学的な歴史とは異なる別の「物語」が隠されており、読み解かれる日を待っているのだ。
翻訳:船田晶子
Nature ダイジェスト Vol. 9 No. 1
DOI: 10.1038/ndigest.2012.120110
原文
The Black Death decoded- Nature (2011-10-27) | DOI: 10.1038/478444a
- Ewen Callaway
- Ewen Callawayはロンドン在住のNatureのライター。
参考文献
- Bos, K. I. et al. Nature 478, 506–510 (2011).
- Raoult, D. et al. Proc. Natl Acad. Sci. USA 97, 12800–12803 (2000).
- Gilbert, M. T. P. et al. Microbiology 150, 341–354 (2004).
- Drancourt, M. & Raoult, D. Microbiology 150, 263–264 (2004).
- Barnes, I. & Thomas, M. G. Proc. R. Soc. B 273, 645–653 (2006).
- Green, R. E. et al. Science 328, 710–722 (2010).
- Briggs, A. W. et al. Science 325, 318–321 (2009).
- Schuenemann, V. J. et al. Proc. Natl Acad. Sci. USA 108, E746–E752 (2011).
- Haensch, S. et al. PLoS Pathog. 6, e1001134 (2010).
- Taubenberger, J. K. et al. Nature 437, 889-893 (2005).