Editorial

領有権争いを科学に持ち込ませるな

戦い方を心得ていた元プロボクサー、モハメド・アリは、戦争は国家間の地図を塗り替えるために行われている、と喝破した。しかし、もっと巧妙に地図を塗り替える方法がある。南シナ海がその一例だ。中国当局は、海域の大部分が中国の領海だと主張しており、中国製の地図の多くでは、当局の主張に沿って、南シナ海の部分に点線を勝手に印刷しているのだ。もちろん、そんな領有権を認める国際協定など存在しないし、同海域の領有権を主張する国はほかにいくつもある。

こんな話は、科学やNatureとは基本的に何の関係もない。ところが、数々の領有権問題が、Natureのような科学ジャーナルの誌面に紛れ込んでしまう現実が間違いなくあるのだ。特に気がかりなことに、中国人研究者の科学論文に使われる地図に、南シナ海の大部分を包み込んだ点線が印刷される事例が最近増えている(Nature 2011年10月20日号293ページ参照)。

こうした地図は、ほとんどの場合、掲載論文のテーマとは全く無関係なので、そのぶんタチが悪いともいえる。周辺諸国の科学者や国民がいらだちを覚えるのは当然であろう。点線を印刷するのは科学的声明でなく政治的声明であって、これは中国政府の命令によってなされているものと考えられる。しかし、科学論文はそうした主張の場ではないことを知るべきだ。

研究と政治が交わるところでは、科学は外交手段として用いるべきであって、領有権侵害の道具に使ってはならない。そもそも、政治的な敵対環境であっても、多くの科学的協力が生まれている。現に、中国政府と台湾政府の間には国家間関係をめぐる基本的な対立が続いているが、その一方で、中国の研究者との共同研究に参加する台湾の研究者が増えている。台湾行政院国家科学委員会の李羅權(Lou-Chuang Lee)主任委員から提供されたデータによれば、中台協力による研究論文の数は2005年の521編から2010年には1207編に増えた。

こうした協力関係は、共通利益の実現に向けた土台作りにつながり、政治的対立の解消への期待も高まる。そうでなくとも、少なくとも侵略の抑止には役立つ可能性が高い。

それでも、残念ながら政治が科学に介入する例は多い。2011年8月、国立清華大学脳科学研究センター(台湾・新竹市)の江安世(Ann-Shyn Chiang)センター長は、論文の共同著者である北京大学(中国)の神経科学者Yi Raoの要請に驚かされた。Raoは、江の所属を中国政府が好む呼称である“Taiwan, China”とすることを求めてきたのだ。これに対して、江は、“Taiwan”か“Taiwan ROC (Republic of China)”とするか、さもなければ、著者リストから自分の名前を外してほしいと回答した。結局、2人の間に妥協が成立し、“Taiwan, Republic of China”とすることで合意した。

しかし、南シナ海をめぐる紛争については、天然資源や地政学的重要性から容易には解決しないだろう。Natureは、こうした国際紛争に関して、科学者は科学に専念すべきだという立場をとっている。扇動的な論評、論争を起こすような記述、物議を醸す地図上の記載を避け、論文の政治色をできるかぎり薄める努力をすべきである。もしそれが不可避な場合、例えばある国の資源に関する研究で、その国が特定の島を領有しているかどうか考慮に入れる必要がある場合なら、地図に、「係争中」などの注記を加えるべきである。

Natureに掲載される論文の著者がそのような配慮を怠った場合、編集者が注記を加筆する権利を有している。科学研究が政治に汚染されないように努力し、共同研究の道を常に開いておくことは、研究者自身にとって有益であるだけでなく、副産物として、政治的緊張を和らげ、相互に利益が得られる道筋を示して、外交の一翼を担うことにつながる。

たとえ国家が対立関係にあっても、研究者の間には数多くの共通利益が存在する。科学と無関係な政治的駆け引きや領有権の主張によって、こうした連帯を弱体化させようとしても、残念ながらそれは無意味であることを知るべきである。

翻訳:菊川 要

Nature ダイジェスト Vol. 9 No. 1

DOI: 10.1038/ndigest.2012.120133

原文

Uncharted territory
  • Nature (2011-10-20) | DOI: 10.1038/478285a