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影響が懸念されるメコン川のダム建設

2011年の夏、ラオス北部のメコン川流域にあるパクランという小さな村に、よそ者の一団が到着した。彼らは短パン姿で歩きまわり、図面を吟味してから、一帯の調査を始めた。河岸の高さや水田の広さを計測し、村で飼育されているブタの頭数まで数えていった。

この調査が行われたのは、パクラン村がまもなく姿を消す可能性があるからだ。ラオス政府は、パクラン村と近隣の18の村を移転させようとしている。これらの村は、現在、激しい論争が起きているサイヤブリ・ダムが建設された場合に、部分的または完全に水没する。35億ドル(約2700億円)を投じて進められるこのプロジェクトでは、長さ60kmの貯水池を建設し、1260メガワットの電力を発電する。開発を担うタイのチョーカンチャン社は、これにより毎年30億~40億ドル(約2300億〜3100億円)の収入を得ることになる。

パクラン村の村長で、ラオス人民革命党(共産主義を掲げるラオスの唯一の政党)の地域代表でもあるSomchit Tivalakは、水力発電ダムがどのようなもので、どんな仕組みで発電するのか、よくわかっていない。けれども彼は、近い将来、よいことが起こると確信している。自分たちの村は、道路も電気も、魚が豊富にいる貯水池もある場所に移転するのだ、と彼は言う。

しかし、多くの人々は深く憂慮している。メコン川は、下流ではラオス、タイ、カンボジア、ベトナムの4か国を蛇行しながら流れる国際河川で、世界でも数少ない、治水の進んでいない大河である。その豊かな漁場は、6000万人近い人々の命を支えている。サイヤブリ・ダムが建設されれば、それが先例となって、メコン川の主流で計画されているほかの10か所の水力発電ダムの建設が始まるだろう。すべての計画が実現すると、メコン川の55%近くが、流れのゆるやかな貯水池へと姿を変えることになる。

そのような巨大な変化がどんな影響を及ぼすのか、予測するのは不可能だ。そもそもメコン川について、よくわかっていないからである。実際、世界の主要河川の中で、メコン川ほど調査の進んでいない川も珍しい。例えば、分類学者はメコン川に生息する魚のことをほとんど知らないため、現在、異例のペースで新種の魚が発見されている。また、流域国政府は、メコン川の水や、上流から流れてくる土砂について、一貫したモニタリングを行っていない。

さらに、開発業者のために行われた環境影響評価(EIA)では、サイヤブリ・ダムが及ぼすであろう広い範囲の影響は考慮されておらず、重大な欠陥があると指摘されている。メコン川流域を数十年にわたって研究してきたウィスコンシン大学マディソン校(米国)の地理学教授Ian Bairdは、「サイヤブリ・ダムのEIAは、私がこれまで見てきたEIAの中で最悪のものです」と言う。

カンボジアとべトナムはダム建設に反対している。両国は、このダムにより不当に大きな悪影響を受けると予想されているからだ。メコン川下流の水資源開発については、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムの政府代表から構成されるメコン川委員会(MRC)という団体が調整を進めている。MRCの依頼を受けて調査した科学パネルは、2010年、必要となるデータを研究者が収集するために、ダム建設を10年延期するよう勧告した。しかし、ダム建設により国の歳入の30%近くが入ることを見込むラオス政府は、建設推進を明言している。

そこで科学者たちは、ダム建設がメコン川の漁場と広大なメコンデルタを維持する土砂の流れに及ぼす影響を、大急ぎで評価しようとしている。世界魚類センター(カンボジア・プノンペン)の水産研究者Eric Baranは、「問題は、ダム建設が急ピッチで進められ、非常に短い期間に、環境を大きく変えてしまう点にあります」と言う。「そして、流域の国々には、その変化に対処する力がまだないのです」。

水を鎮める

チベット高原に源を発し、南シナ海まで4800kmも蛇行しながら進むメコン川は、東南アジアで最長の川だ。この川を行き来する淡水魚は、少なくとも781種で、世界最大級の淡水魚も4種いる。その中で最も大きく、成魚になると自動車ほどの大きさになるのがメコンオオナマズ(Pangasianodon gigas)で、現在、絶滅の危機に瀕している。

長年にわたる戦争、投資の不足、雨季と乾季で劇的に変化する川の流れといった要因が、メコン川の水力発電開発をためらわせ、結果的に、下流域の野生状態を保つのに役立った。しかし、1990年代に、中国がメコン川上流域に8つのダムと貯水池を建設するプロジェクトに着手し、これにより川の流れが均一になった(右図「川の流れを管理する」参照)。

メコン川の流れが穏やかになり、流域の電力需要が増加したため、ラオス政府と民間の開発業者は、現在、ダム建設を急いでいる。そうしたダムの中で最も着工に近づいているのがサイヤブリ・ダムである。環境NGOのインターナショナル・リバーズ(米国カリフォルニア州バークレー)によれば、このダムが完成した後、ラオス国内とラオス–タイ国境沿いに、さらに8つのダムが相次いで建設されることになるという。

サイヤブリ・ダムに関するEIAでは、このダムによる魚や水流や浸食への影響はきわめて小さいとする結論が出た。サイヤブリ・ダムは、巨大なコンクリート壁の背後に水の流れのない大きな貯水池があるという従来型の構造ではなく、小さい壁の下を水が流れることができる、いわゆる「流れ込み式」の構造になっている。EIAによれば、このダムが建設されることで、「開発が行われる地域では、特に乾季に、メコン川流域の天然の魚の生産能力が全体として向上する」という。

しかし、研究者らはこの結論に異議を申し立てている。彼らは、サイヤブリ・ダムをはじめ、メコン川の主流に建設が計画されているほとんどのダムのコンクリート壁はそれほど低くないため、上流の水位は30~65mも上昇すると指摘する。従来の貯水池ダムよりは小さいとはいえ、こうした壁はまだ流れてくる土砂や回遊魚の移動をせき止めるだろうと、サイヤブリ・ダムのEIAを評価した国際環境管理センター(ベトナム・ハノイ)の水文学者Tarek Ketelsenは言う。

EIAでダム建設の影響を受ける可能性があるとされた範囲が「水をせき止める場所から下流に約10km」に限られていたことも、批判の対象となっている。研究者らは、この範囲は異常に狭いと指摘する。チョーカンチャン社のためにEIAを行ったのは、TEAMグループという、バンコクを本拠地とするコンサルティング会社のコングロマリット。NatureはTEAMにコンタクトをとったが、チョーカンチャン社との契約があるため、このEIAについて話をすることはできないと言われた。そしてチョーカンチャン社は、コメントを要請する電話にも電子メールにも応じなかった。

漁業への影響

52歳のToun Neangは毎朝4時に起床してトンレサップ湖に漁に出る。カンボジアにあるこの湖はメコン川とつながっている。湖に到着すると、彼は川の神のために香をたき、米とビールを供える。「川の神へのお供えを忘れると、その日は魚が1匹も獲れません」と彼は言う。

トンレサップ湖でトレイリエル漁をする漁師たち(左)。魚の耳石にある輪紋はメコン川を移動した記録である(右)。

GARRISON PHOTOGRAPHIC & MRC; M. FUKUSHIMA

子どもの頃から漁師をしているNeangは、鋭い目でメコン川とトンレサップ湖の間を行き来する回遊魚の移動サイクルを見ている。成魚はメコン川のもっと上流で産卵し、雨季に川が氾濫するときに卵や稚魚がトンレサップ湖に流れ込んでくる、と彼は言う。彼はダムの影響を心配している。「水がせき止められてしまったら、回遊魚はどうやって下流に移動してくるのでしょうか? 魚がいなくなってしまったら、我々漁師はどうやって生きていけばよいのでしょうか?」

この漁場の将来は大問題だ。トンレサップ湖はさほど大きな湖ではないが、世界で最も生産的な内水面漁場の1つであり、カンボジアで消費されるタンパク質の半分を提供しているからである。テキサスA&M大学(米国カレッジステーション)の水産研究者Kirk Winemillerは、「淡水魚漁がカンボジアの食糧安全保障、経済、文化に果たす役割を欧米人が想像するのは困難です」と言う。

サイヤブリなどのダムがこの漁場に及ぼす影響について、モデルを作るのも簡単ではない。メコン川のほとんどの魚について、ベースラインとなるデータがないからである。サイヤブリ・ダムの建設予定地の上流には約229種の魚が生息していて、そのうちの70種が回遊魚である。生物量の観点からは、トンレサップ湖の漁獲量の約60%を、長距離を移動する魚が占めている。なかには、1500km以上も上流のサイヤブリ地方から泳いでくる魚もいる。

多くのダムには、一部の回遊魚が通過できるように、魚梯と呼ばれる階段状の水路が設けられている。けれども研究者は、メコン川の回遊魚の数と多様性を考えると、サイヤブリ・ダムの設計に取り入れられている2つの魚梯は不十分であると言う。

回遊魚のメコンオオナマズは、メコン川の魚の中で最もよく研究されていて、最も遠くまで泳ぐ。ネバダ大学リノ校(米国)の水産研究者Zeb Hoganは、長年、この魚を捕まえて、その頭部から石灰化した硬組織(耳石)を取り出して調べている。耳石は日々新しい層が形成され、その際に水中の元素を取り込むため、魚の旅の化学記録になっているのだ。

耳石の調査から、アジアの熱帯地方に分布するナマズPangasius krempfiが非常に広い範囲を回遊していることが明らかになった(Z. Hogan et al. J.Fish Biol. 71, 818-832; 2007)。この魚はメコン川の上流で孵化し、モンスーンの季節に海岸近くの氾濫原まで流れ下ってくる。成魚はメコンデルタと南シナ海の汽水で暮らすが、毎年、雨季の初めに苦労して上流に戻り、そこで産卵する。

茨城県つくば市にある国立環境研究所の水産科学者の福島路生は、タイのウボンラチャタニ大学の研究者とともに、メコン川を回遊するほかの種類の魚でも耳石の調査を進めようとしている。これらの多くが商業的に重要な魚であるが、なかでも重要なのが、カンボジアでトレイリエルと呼ばれるコイ科の魚(Henicorhynchus属)である。この魚の体長は15cmほどで、より大きな肉食魚の主食となる。魚のすり身の原料や水産養殖の飼料としても重要であるため、その魚穫量はメコン川で最も多い。

福島は、これまでの研究により、トレイリエルの回遊ルートのいくつかをたどることに成功した。メコン川の支流であるタイのソンクラム川で彼が捕まえた魚は、メコン川の主流で成熟してから支流に戻ってくるようだった。

Bairdは、メコン川にダムが建設されるにつれて、トレイリエルの生存が脅される可能性があると言う。「ダムの建設が始まれば、魚は回遊できなくなります」と彼は言う。「トレイリエルが絶滅してしまうのか、減少するだけなのか、正確に予測するのは困難です。これほど個体数の多い種が、このような状況に直面した先例がないからです」。

メコン川のほかの魚については、トレイリエル以上によくわかっていない。福島とBaranは現在、魚の分布地図を作成している。Baranは、ほかの研究者とともに、ダムが漁場に及ぼす影響のモデルも作成している。予備的な計算からは、主流沿いで計画されているすべてのダムが建設された場合、流域の年間漁獲量は、現在の210万トンから60万~140万トンも減少する可能性がある。「60万トンといえば非常に大きな量で、西アフリカ全体での淡水魚の年間漁獲量と同じです」とBaranは言う。

土砂の移動

ダム建設は、メコンデルタの海との戦いでも不利になる。コロラド大学ボールダー校(米国)の地質学者James Syvitskiは、ベトナムの1700万人とカンボジアの240万人が暮らすメコンデルタは、海岸付近の土地を失いつつあると言う。

メコンデルタの海岸付近では、世界的な海洋の増大と局地的な変化が相まって、1年に6mmずつ海水面が上昇している。さらに、マングローブ林が破壊されて、メコンデルタは洪水や台風の直撃を受けるようになってしまった。全世界のデルタを調査したSyvitskiらは、メコンデルタは「危機的状況」にあり、2万1000 km2の土地がすでに海抜2m未満になっていると指摘する(J. Syvitski. et al. Nature Geosci. 2, 681-686; 2009)。

メコン川の土砂は氾濫原を肥沃にし、デルタに堆積する。しかし、ダムは土砂の流れを妨げ、土地の沈下を加速すると予測されている。カリフォルニア大学バークレー校(米国)の河川地理学者Mathias Kondolfは、中国とメコン川下流域に建設されるダムは、この川を流れる土砂の半分をせき止め、デルタに壊滅的な影響を及ぼすおそれがあるとする。

一部のダムは、土砂が通り抜けられるように、低い位置に、幅の広い流出口を取り入れた設計にすることで、この問題を軽減している。しかし、このような設計は発電を阻害するおそれがあるうえ、大量の土砂を通過させることができず、長さ60kmの貯水池の入口付近に土砂を堆積させてしまう可能性も残る、とKetelsenは言う。

メコン川委員会(MRC)が招集したコンサルタントチームが2010年にサイヤブリ・ダムの建設を10年延期することを要求し、ラオスに支流の小規模なダムから建設し始めるように推奨したのは、このような理由による。MRCは、提案されたモラトリアムについて明確な態度を示しておらず、それを強制する力もない。けれども科学者らは、MRCにはダムの設計に影響を与える力はあると言う。

「ラオスのような国が発展するためには、水力発電は重要です。ラオスには、発展する権利があります」とKetelsenは言う。「しかし、メコン川が地球の生物多様性にとって重要な川であることを考えると、最も影響の大きいプロジェクトから始める必要はないと言えます」。延期という案は、国際的にも支持を得ている。例えば、アジア開発銀行(フィリピン・マニラ)は、メコン川の主流にダムを建設することの環境コストや社会コストについてほとんどわかっていない今、着工は時期尚早であると言っている。

2011年4月、ラオス当局は、もう1つのプロジェクトレビューが終わるまでサイヤブリ・ダムの着工を延期することに同意した。その結果は11月上旬に提出され、12月上旬に開催される最終会合でMRCの4か国により議論されることになっている。しかし、ラオス当局はすでにメディアに対して、レビューは完了したので建設を進める予定であると報告している。MRCは沈黙を続け、メコン川流域国が会合を開くのを待っている。ラオス北部のサイヤブリ・ダム建設現場の近くの建設作業員たちは、最終ミーティングを待っているようには見えない。すでに泥道のアスファルト舗装を開始した。これはダム建設に欠かせない作業だ。

その下流のタイのウボンラチャタニ大学では、福島がモーターボートに乗り込んで、メコン川支流のダムから魚と水と土砂のサンプルを採取している。この2年間、彼は年に2度、ボートとオートバイでカンボジアとラオスとタイをまわり、データを集めてきた。魚を捕獲するときには、研究室に持ち帰って分析するため、その頭部を開いて耳石を取り出す。

福島は、ダムが現実のものになる前に環境と生態系の状態のベースラインを確定しておき、今後建設されるダムがなるべく悪影響を及ぼさないですむように開発業者と協力していきたいと言う。彼は、科学が未来を変えることを控えめに期待している。水面を眺めながら彼は言う。「よりよい未来に進める方法はあるはずです」。

翻訳:三枝小夜子

Nature ダイジェスト Vol. 9 No. 1

DOI: 10.1038/ndigest.2012.120118

原文

Remaking the Mekong
  • Nature (2011-10-20) | DOI: 10.1038/478305a
  • Gayathri Vaidyanathan
  • Gayathri Vaidyanathanは、環境ニュースサイトGreenwireの記者で、ワシントンD.C.在住。Natureの国際開発研究センターの元フェロー。