Editorial

沖縄科学技術大学院大学の船出

日本は、国際化を達成するために長い間苦労を重ねてきた。1989年には世界に向けて、HFSP(ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム)を提供している。そして今年、沖縄科学技術大学院大学(OIST)がスタートする。11月に大学として認可される見込みだ(「いざ、沖縄へ!」参照)。

HFSP事務局長を務め(2000~2009年)、現在はOIST運営委員会共同議長を務めるノーベル賞受賞者Torsten Wieselは、かつてHFSPとOISTについて、「日本と国際社会のかけ橋を築き、日本が国際社会を受け入れ、国際社会に受け入れられるようにするための日本政府の英知を示すもの」と語ったが、それは正しかった。

HFSPは、数十年間続いた好景気が終わろうとする1989年に、国際社会とのかけ橋として創設された。しかし、国際化という点では国内にほとんど何の変化も起こすことができなかった。しかし、今や情勢は切迫している。日本の国内産業は後退期に入り、若手研究者は減少傾向にある。国内経済は低迷し、ハイテク製造分野でさえ、中国や韓国などに追いつかれ追い越されている。一方で、人口の高齢化が進み、留学して研鑽を積もうという大学院生やポスドクも減っている。

外国人が滞在できるような学術環境を日本国内に構築する歩みは遅い。理化学研究所には比較的多くの外国人が所属しているが、大学では、2004年に国立大学の法人化があったにもかかわらず、自由度、柔軟性、異文化環境を実現するための学内改革は、十分には進んでいない。

教員と学生の少なくとも半数が外国人で、すべてのやりとりを英語で行う大学を設立する、というのは野心的な考え方だった。この構想を後押ししたのが、HFSPの現会長である有馬朗人と当時の与党自由民主党の尾身幸次代議士だった。有馬は、1990年代前半に東京大学総長の職にあったとき学内改革に取り組んで失敗していた。一方、尾身は、当時の内閣における力関係の偶然の産物として、科学技術政策と沖縄という一見無関係な分野を担当する大臣に任命された。

これらの要素に加えて、在日米軍基地の見返りとして10億ドル(約800億円)を国家予算から沖縄に投入することで、OISTができあがった。OISTは、当時の情勢から生まれた気まぐれと思われた。早い時期から参加を決めていた科学者でさえ、実現には懐疑的だった。Wieselもそうだったし、キャンパス建設に起用された建築家Kenneth Kornbergも、Natureも同様だった(D. Cyranoski Nature 429, 220-221; 2004)。

しかし、いったん計画が決まれば、計画通りに事業を進めるのが政府というものだ。日本政府はOIST建設を進め、Kornbergの設計によるリゾート地のようなキャンパスが完成した。キャンパスは海岸沿いの山にまたがって建てられ、上席研究員の執務室は、海と森のすばらしい景色が見えるよう、注意深く配置されている。さまざまな設備や機器がそろい、今、優秀な新規採用者が大学に集まっている。これは、主として、OISTの学長に内定しているJonathan Dorfanの尽力に負うところが大きい。

懸念材料がなくなったわけではない。質の高いポスドクや大学院生が集まらなければ、あるいは、科学者が履歴書にOISTの名を記すのはまずいと思ったなら、OISTは失敗に終わる可能性がある。ただ、この1年間にDorfanが人材集めに成功したことから判断すると、課題は克服できると思われる。

一方で、OISTの教員数は50人に達しておらず、開学時の目標を大きく下回っている。勢いがついている今こそ、行動を加速すべきだ。例えば第三研究棟の建設を遅らせてはならず、建設予算を確保する必要がある。

OISTには、さらに大きな目標がある。それは、日本国内の大学のモデルとなることだ。この目標を達成するには、既存の大学がOISTを手本と認めるレベルまで、質を高めなければならない。OIST出身者が日本の他大学でキャリアを続けたり、OISTの研究者が他大学と共同研究を進めたりすることで、それは達成されていくだろう。OISTに注目していきたい。

翻訳:菊川要

Nature ダイジェスト Vol. 8 No. 9

DOI: 10.1038/ndigest.2011.110929

原文

Made in Japan
  • Nature (2011-06-30) | DOI: 10.1038/474541b