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疑惑のがん転移理論

Nature ダイジェスト Vol. 8 No. 7 | doi : 10.1038/ndigest.2011.110728

原文:Nature (2011-04-21) | doi: 10.1038/472273a | Cancer theory faces doubts

Heidi Ledford

がん転移の仕組みについて主流となっている仮説には、臨床上の証拠が不十分との指摘が。

眼前の数百人もの研究者に向かい、研究界が数十年にわたって間違った方向に進んできたと述べるのは、容易にできることではない。だが、2011年4月上旬に開催された米国がん学会の年次総会で、それは起こった。カリフォルニア大学サンディエゴ校(米国)の病理学者David Tarinが、がんが転移する仕組みを説明する主要な仮説の1つに異議を唱えたのである。

転移は死亡したがん患者の90%に見られる。つまり、転移がんが最終的に命を奪っているといえ、その機構の解明は重要である。現在主流となっている説では、がん細胞が、発生中の胚の移動可能な細胞と似た状態に戻ることで自由になって、体内の新たな部位へ移動するとされている。この仮説は基礎実験で示された証拠によって支持されており、これに基づいた治療法により、いずれは転移を阻止できるだろうという期待がある。だが、Tarinはこの説に疑問を抱いた。ほかの数名のがん生物学者とともに、ヒトのがんでこうした過程が進んでいるのを実際に観察した例はまだないと主張しているのだ。

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大半のがんは、臓器の内壁などを覆う上皮細胞層で生じる。上皮細胞は、正常時は移動性がないが、胚発生の最中には、一部の上皮細胞が細胞移動に関係するタンパク質群を産生し始め、さらに細胞どうしを接着させるタンパク質群の産生を停止させる。これによって上皮細胞は、より移動能のある間葉細胞へ転換して、胚内の適切な位置へと移動する。この「上皮間葉転換(EMT)」と呼ばれる現象ががんでも起こっていると考えれば、腫瘍細胞が隣接する細胞群から離脱して血流中へ入り、新しい腫瘍の「タネ」となる仕組みを説明できる(右図参照)。

「これは優れた仮説の1つです」と話すのは、モンペリエがん研究所(フランス)のがん研究者Pierre Savagnerである。「EMT仮説で、転移についてシンプルに理解できます」。

最初は異論もあった。だが、マウスでの実験からEMTの活性化ががん転移につながることが示され、EMT仮説は広く支持されている。学術研究機関はもとより、OSI ファーマシューティカルズ社(米国ニューヨーク州メルビル)もすでに、がん治療薬として使えるEMT阻害剤を探している。

「EMTは実際、人気のある研究テーマの1つになっています」と、ブリティッシュ・コロンビアがん研究センター(カナダ・バンクーバー)のがん研究者で、EMT仮説への転向者を自認するShoukat Dedharは話す。「EMTのがん転移への関与を示すデータは、次々と出てきていますよ」。

しかし、懐疑派も依然として存在する。なかでもTarinは、この仮説の根拠は培養細胞や動物モデルでの実験結果であり、ヒトでのがん転移にEMTが大きく関与していることを示す説得力のある証拠がないことを懸念している。病理学者たちが腫瘍から切り出した数百万枚もの組織切片を徹底的に探しているが、EMT細胞は観察されていないのだ、と彼は話す。

対立する意見

ホワイトヘッド生物医学研究所(米国マサチューセッツ州ケンブリッジ)の著名ながん生物学者Robert Weinbergなど、EMT−がん転移仮説の擁護派は、EMTが観察されないのは、これがごく一時的なものだからだろうと言っている。つまり、がん転移細胞が新しい組織に侵入すると、その間葉細胞的な特徴は消えてしまうというのだ。「患者由来の組織片を調べても、その時の“ワンシーン”しかとらえられません」と、バーリ大学医学系大学院(イタリア)のがん研究者Gianluigi Giannelliは擁護派に賛同する。「最初から最後まで完全な“映画”として見ることはできないのです」。

しかしTarinはこれを否定している。彼は米国がん学会総会でこう訴えた。「この理論は、『この会場にエイリアンが座っていますが、適切なツールを持っていないので、皆さんには見えません』と言うのと同じことです」。

Tarinの考えに同調する研究者もいる。Savagnerは、EMTの活性化を示す可能性のあるタンパク質が、プログラム細胞死など、がん転移とは関連性のない過程の最中にも存在していることを指摘する。「がん転移細胞がEMTを行っていてほしいと強く願う人々が、EMT仮説をゴリ押しするような形になっています」。

Dedharでさえ、主張の行き過ぎを心配している。例えば、多くの論文は培養細胞での実験結果の報告であり、動物生体内でそれらの細胞が転移性を持つことを確認したものはない、という。

Tarinは、実際のがん転移には細胞種の転換はかかわっていないのではないかと話す。転移が起こるのは、がん細胞が変異によって細胞間接着に支障をきたしたときだと、Tarinをはじめ、懐疑派の研究者たちは考えている。また、腫瘍から細胞が塊状に離脱して移動していくのだと考える研究者もいる。

この議論に決着をつけるには、実験によって、個々のがん細胞が腫瘍から離れる時点から新しい臓器に定着する時点までを追跡することが重要だろうとWeinbergは話す。だが、そうした実験は、ヒトでは技術的にかなりハードルが高いだろうとも言う。「原発腫瘍やそこから血流中へ送り出される腫瘍細胞を調べることは可能ですが、血流中を循環してどこかにとどまった後、これらの腫瘍細胞に何が起こるのかを見つけることは容易ではありません」。

MDアンダーソンがんセンター(米国テキサス州ヒューストン)のがん生物学者Isaiah Fidlerは、「転移が起こるために、EMT過程が不可欠なのかどうかはまだはっきりしません。しかし、EMTを否定すべきではありません。がん研究の現状では、いかなるものも否定できないのです」と語っている。

(翻訳:船田晶子)

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Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

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