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エール大学の実験室で学生死亡事故

エール大学の学部生Michele Dufaultの通夜に集まった学友たち Credit: THE YALE DAILY NEWS

4月13日未明、エール大学(米国コネチカット州ニューヘイヴン)のスターリング化学研究所に所属する学部生数人が、機械工作室でショッキングな光景を目撃した。同じ学部生Michele Dufault(22歳)の髪が旋盤に絡みつき、そこに横たわっていたのだ。死因は窒息死とされ、Richard Levin学長は「正真正銘の悲劇」と述べた。

事故の数日後、連邦政府の安全衛生担当官が調査を始めた。細かな情報が不足しているものの、Dufaultが旋盤の取り扱いに不慣れだったという事情はなかったことが判明している。物理学を専攻する学友のJoe O'Rourkeによれば、彼女は研修を受けており、何度も安全に旋盤を操作していた。しかし、当日の彼女は、夜遅くまで実習を行っており、おそらく1人で作業していたと思われる(エール大学側は、この推論を積極的には確認していない)。機械工作室ではこうした状況は珍しくない、とO'Rourkeは話す。

事故の報を受けて、米国全土の研究所長や安全管理者は、直ちに、機械工作室での作業手順に関する方針の再点検に着手した。その過程で、今まで表立ってこなかった重要な懸念が浮かび上がった。それは、研究の自由と安全な作業環境との間に絶えず存在する緊張関係だ。2年半ほど前も、別の大学の実験室で死亡事故が起こり、注目を集めた。今回と似た反省が行われたのだが、改革は遅々として進んでおらず、その裏側にも、今回と同じ緊張関係が存在している。

2008年も押し詰まった12月29日、研究助手Sheharbano Sangji(23歳)は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA;米国)の実験室で発火事故に遭った。ひどいやけどを負い、それがもとで18日後に死亡した。Sangjiの死は、Dufaultの場合と事情が大きく異なっていたが、同大学には連邦法に基づいて罰金が科せられ、学内での安全対策が大幅に強化された。UCLAは、2011年3月30日に安全に関する新しい取り組みを発表し、「実験室安全センター」も新設した。この機関は、米国で初めて安全対策の有効性を測定し、安全への取り組み方を改善するものと呼び声が高い。このように、Sangjiの事故は、米国全土で安全基準の向上を求める動きの象徴となった。

しかし安全衛生の専門家によれば、これほどの注目を集めたにもかかわらず、実験科学者やラボヘッドの行動や姿勢には、さほどの変化は見られないという。彼らこそ、安全風土を向上させる上で最も良い位置にいるはずなのに、である。UCLAのJames Gibson環境衛生安全部長は、研究代表者の態度を変えさせるのは非常に難しい、と打ち明ける。米国には、単独で作業を行い、適切な監督を受けず、適切な保護具も用いない研究者が非常に多いのだ。「安全よりも学問の自由を優先させる場合の方が多いのです」とLaboratory Safety Institute(米国マサチューセッツ州ナティック)のJim Kaufman所長は話している。

化学実験室に集まる注目

以上の懸念はすべての学問分野にいえる話だが、化学実験室での事故については、近年、非常に厳しく精査されている。Sangjiの死から1年後、テキサス工科大学(米国テキサス州ラボック)で化学専攻の大学院生Preston Brownが、危険度の高い実験で左手の3本の指を失った。推奨量の100倍のニッケルヒドラジン過塩素酸塩の塊を粉砕していたところ、突然爆発したのだった。

この事故では、通常は精油所の爆発など大規模な産業事故を調査している化学物質安全性調査委員会(CSB)が乗り出すという異例の展開となった。CSBは、史上初めて、大学実験室の安全性審査を行うことを表明したのだ。CSBのRafael Moure-Eraso委員長は、2010年8月にマサチューセッツ州ボストンで開催された米国化学会の会議で、CSBが、2001年以降の約120大学の化学実験室における事故に関するマスコミ報道を収集し、「米国の大学における安全対策には、大いに改善の余地がある」という結論に達したと発表した。

懸念が特に化学実験室に集まっている理由は、ほかの科学分野であれば、危険な実験手順にはもっと詳細な安全プロトコルが定められているからだ、とエール大学のPeter Reinhardt環境衛生安全部長は説明する。「放射性物質や生体材料を用いる実験は、もっと厳しく規制されています。そうした規制が大きく欠落しているのが実験室内の有害化学物質なのです」。Dufaultの事故が起こる前のインタビューで、Reinhardtは、このようにNatureに語った。

マサチューセッツ工科大学(米国ケンブリッジ)の化学科で安全衛生委員会の委員長を務める有機化学者Rick Danheiserも同じ考えで、一部の実験室における安全基準は緩すぎると指摘する。しかし、「その一方で、非常に強力な安全管理計画を定めた化学科もあり、その両極端の間に、さまざまな程度の安全基準を定めた研究室が存在しているのです」と話している。

コンサルタント会社Advanced Chemical Safety(米国カリフォルニア州サンディエゴ)のNeal Langerman社長は、この問題をもっと深刻にとらえている。彼は、2009年にJournal of Chemical Health and Safetyに掲載された意見記事の中で、「ほとんどの大学の実験室は、実習や研究の場としては安全でない、という結論に達した」と述べている。今、彼は、最近の複数の事故にもかかわらず、安全に対する化学者の姿勢に有意な変化が見られないと話す。

米国では1970年代に多くの労働衛生関連法規が定められ、また連邦政府の新しい監視機関「職業安全衛生管理局(OSHA)」が設置されて、研究者はそれまでより格段に安全な環境で研究が進められるようになった。1991年には、OSHAが各化学実験室における「化学衛生計画」の策定、すなわち安全プロトコルと緊急時対応手順を詳しく定めたハンドブックの作成を推奨する規則を定めたことで、安全度はさらにアップした。ただし、こうした規則の遵守を強制する検査は、まれにしか行われていない。

労働統計局によると、科学研究開発業務における記録可能な事故発生率は、2003年には常勤従業員100人当たり2.1人だったのが、2009年には1.2人に減った。しかし、政府は、大学実験室に絞って、重大事故やヒヤリハット事例の追跡調査を行っていない。「特に裏付けはないのですが、大学実験室の方が産業界よりも事故の発生頻度が高く、重大事故の発生頻度も高いとほとんどの人が考えています」。こう説明するのは、全米アカデミー化学技術委員会のDorothy Zolandz部長だ。

産業界には権力の階層が明確に存在し、経験不足の学生は少なく、経営部門に対する説明責任を負っているため、産業界の方が、学界よりも高い安全基準を維持しやすい立場にある。このことは多くの研究者によって指摘されている。学界と産業界で最も異なっているのは、単独で作業するかどうかだ。昨年、米国化学会が実施したアンケート調査によれば、実験室で単独で作業することが多い、あるいは時々単独で作業すると回答した割合は、教員で70.5%、大学院生で52.1%だった。産業界ではこうした単独作業は禁じられている。

実験室の安全性は、定期的な検査以外の要素にはるかに大きく依存していることが、安全管理者と経験豊富な化学者によって指摘されている。重要なのは、グループの研究リーダーが実験室内で科学研究を行う者全員に対して、その安全に明確な責任を負うことであり、研究者が本能的に安全を第一と考える風土を築きあげることだ、とインペリアル・カレッジ・ロンドンのTom Weltonは語る。

2010年11月には、実験室の安全性に関する米国学術研究会議が開催されたが、そこで示された証拠は、Weltonの指摘を裏付けている。世界有数の化学品メーカーArkema社(本社フランス・コロンブ)の労働安全部のマネジャーRon Zanoniは、2004年の調査によって、同社の米国内の事業所でのけがの発生率が年間0.8~7.8件の範囲内にあったことを明らかにした。この発生率の差は、それぞれの事業所における作業上の関係とトップダウンによる経営者の関与とよく相関していた、とZanoniは説明した。また、成績不良の実験室で安全確保のためのリーダーシップを改善したところ、2007年までにけがの発生率が減った。

大学自らが安全への見方を変えるべき

UCLAでの事故で明らかになったように、キャンパス内では死者が出ても、研究者の物の見方を変えるのは難しい。この2年間にUCLAでは、実験室の安全に関する規則が強化され、研修と検査を充実させた。しかし、新設された実験室安全センターの理事会メンバーの1人であるNancy Wayne教授(生理学)は、「UCLAの研究者は、管理体制の強化を必ずしも評価しているわけではありません。環境検査担当者のことを安全水準の向上を目指すパートナーではなく、『警察』ととらえていることがあるのです」と説明する。また、Gibsonは「風土を変えるのは、本当に長期的な課題になると思います」と話している。難燃性の実験用白衣の必要性に疑問を挟む教授さえいる、とGibsonは嘆く。Sangjiの事故における状況を考えれば、実に皮肉なことだ。

事故当時、Sangjiは、反応しやすいt‐ブチルリチウムをボトルから注射器で吸い出そうとしており、t‐ブチルリチウムが突然発火して、Sangjiの衣服に引火した。その時、彼女は実験用白衣を着ていなかったのだ。その後、労働安全衛生局のカリフォルニア支部は、UCLAに安全基準違反があったとして、約7万ドル(約560万円)の罰金を科した。Sangjiの上司だったPatrick Harranは、Natureのインタビュー要請に応じていない。ロサンゼルスの地方検事は、現在もSangjiの事案を検討中で、HarranやUCLAを起訴するかどうかは決まっていない。もし起訴されて有罪判決が下れば、「直ちに規則が塗り替わります。誰かに大けがを負わせれば、重罪で起訴される可能性が生じるのです」とLangermanは話す。

英国では、起訴される可能性が、変化をもたらす強力な誘因となった。今から約25年前にサセックス大学(英国ブライトン)の化学実験室で爆発が起こり、金属片が学生の腹部に命中した。この学生は、のちに回復したが、英国政府の安全衛生局が、サセックス大学に過失があったとして、同大学を告訴した。この事故が、英国での安全基準に大きな影響を与えた、とWeltonは説明する。今日では、英国の研究者は、それぞれの実験を行う前にリスク評価書を作成しなければならない。これは、米国では義務づけられていない。

「やや公正さに欠けると思われても、教授を1人処罰すれば、本当に学界全体を変えることができると私は思います」。こう語るのは、米国の産業界の合成有機化学者で、化学物質の安全性に関するブログを主宰するChemjobberという名のブロガーだ。これに対しては、研究助成機関も何らかの役割を果たしうる。例えば、CSBは、研究助成金交付申請において、特定の安全研修の受講を要件とするような勧告を検討している。

「長期的にみれば、こうしたCSBの勧告、OSHAが新たに制定する可能性のある実験室基準や米国化学会からの情報提供が、規制環境を変えていくと考えられます」とLangermanは言う。しかし、科学者は、こうした変化を待たずに、自ら安全に関する取り組みを行うべきだと彼は付け加える。

「学術機関の研究者には、企業の研究者に認められていない独自の自由があります。学術機関の研究者は、この独自の自由を維持するために行動する『独自の責任』を負っているのです」。

翻訳:菊川要

Nature ダイジェスト Vol. 8 No. 7

DOI: 10.1038/ndigest.2011.110721

原文

A death in the lab
  • Nature (2011-04-21) | DOI: 10.1038/472270a
  • Richard Van Noorden