天然痘ウイルス株の保存は継続すべきだ
天然痘は地球上で過去の病気となった。最後に大流行したのは1977年のソマリアで、1980年には根絶宣言が出された。天然痘は、英国女王メアリー2世、ロシア皇帝ピョートル2世、フランス国王ルイ15世をはじめ、20世紀だけで数億人の命を奪った。天然痘はこの世から消え去ったが、その恐ろしい記憶は人々の中に生き続けており、テロの可能性も亡霊のように残っている。天然痘ウイルス株は今、セキュリティーの整った米国とロシアの研究所で生き続けており、研究が継続されている。
このウイルス株の運命が、再び議論の的になっている。2011年5月、世界保健機関(WHO)の最高意思決定機関である世界保健総会は、天然痘ウイルス株を破棄する日程を決めるかどうかについて採決する。しかし、現在保存されている天然痘ウイルス株のコレクションを完全に破棄することだけは避けるべきだ。
かつて本誌は、生きた天然痘ウイルス株を研究に利用し続ける利益が、保存に伴うリスクを上回ると主張し、その根拠として、別の天然痘ウイルス株がどこかで秘密裏に保存されている可能性を否定できない点を挙げた。そして、秘匿している人物や将来の発生地を特定できない以上、そのときに放つ反撃の矢を確保しておく方が、ウイルス株を破棄して運を天にまかせるよりもよいと記した(Nature 1999年4月29日号733ページ参照)。
その後、世界は変貌し、2001年9月の米国のテロ事件以降、バイオテロリズムの脅威が注目されるようになった。天然痘はバイオテロの有効な武器だ。感染を拡大させることが容易で、感染者の約1/3が死ぬからだ。さらに、1960年代から1970年代にかけて広範囲に及ぶワクチン接種が実施されたが、その後、天然痘が根絶されたために接種は縮小され、いまや世界人口の約40%が免疫をもっていない。
2011年1月初旬、安全保障の専門家Jonathan Tucker は論文で、WHOの天然痘研究プログラムに定められた目標の多く、例えば抗ウイルス薬や診断ツールの開発が達成され、生ウイルスを保存する必要性が低下していると主張した(J. B. Tucker Biosecur. Bioterror. doi:10.1089/bsp.2010.0065; 2011)。この主張は正しいかもしれないが、研究を続けることで、強い感染力の原因、ヒト免疫学やウイルスの病原性一般に関して、今後も多くの知見が得られる可能性は高い。
生きた天然痘ウイルス株の保存が公衆衛生の改善につながることについては、強力な科学的根拠がある。しかし、実際に保存することのリスクは、主として政治問題だ。セキュリティーが保たれた保存施設(米国ジョージア州アトランタの疾病管理予防センターとロシア・ノボシビルスクの国立ウイルス・生物工学研究所)からのウイルスの漏出や盗難のおそれは低いと考えられ、ウイルス株の破棄には、ほとんど象徴的な意味合いしかない。
アフリカやアジアの国々は、つい最近まで天然痘と闘い続けたこともあり、再来への恐怖とウイルス株を管理する機関に対する不信感から、天然痘ウイルス株の破棄を強く訴えている。これに対して、米国やロシアなどの諸国は、保存して防御研究を続けるよう強く主張している。最近、ニューヨークタイムズ紙の記事で、米国の元政府高官Kenneth BernardとRichard Danzigが、ウイルス株の破棄は得策ではなく、「我々は、孫の世代が心配しないように環境を整備する義務を負っている。今、残された天然痘ウイルス株の研究用試料を破棄すれば、この義務が果たせなくなる」と書いた。
一方、Tuckerは、安全保障や防衛関係の政府高官が公衆衛生事案に口をはさむことで、政治的対立が複雑化し、特に満場一致を求めている世界保健総会で「外交的正面衝突」が起こる可能性がある、と警告する。Tuckerは、米国とロシアが、ウイルスコレクションのうち、科学的に不必要なハイブリッドウイルスなどを破棄することに合意すべきだ、という妥協案を示している。これにより、両機関がわずかな量のウイルス株を保存し続け、短期的には研究のために利用され、その後は、参照用に用いられることとなる。これが賢明な解決法であろう。
翻訳:菊川要
Nature ダイジェスト Vol. 8 No. 4
DOI: 10.1038/ndigest.2011.110433
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