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フランシス・クリックの手紙(下)

Nature ダイジェスト Vol. 8 No. 3 | doi : 10.1038/ndigest.2011.110312

原文:Nature (2010-09-29) | doi: 10.1038/467519a | The lost correspondence of Francis Crick

Alexander Gann, Jan Witkowski

「クリックの手紙」と題してお伝えしてきたこのシリーズも、今回が最終回。DNAの二重らせんモデルを発表し、一躍生物学界の大スターとなったフランシス・クリック。彼にとって、二重らせんモデルはどういうものだったのだろうか。今回見つかった書簡から、皆さんは何を感じるだろうか。

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COLD SPRING HARBOR LABORATORY ARCHIVES

1953年6月:論文発表後

論文がNatureに掲載される日が間近に迫った4月20日、ウィルキンズはクリックに、いかにもうれしそうな葉書を書いている。「Natureに祝杯を挙げる日は、もうすぐだ!」。新たに発見されたウィルキンズからクリックへの手書きの書簡は、1952年6月3日という日付が入っているが、内容から推察すると、書かれたのは1953年である。以下に全文を示す。

親愛なるフランシス

あなたのモデルの座標は、ある程度、明らかになっているものと思います。できれば、あなたがもっているデータの写しをもらえないでしょうか?

結晶データは順調にきれいになってきています。ロージー(Rosie)は、これだけの三次元データを9か月も前からもっていたにもかかわらず、らせん構造を当てはめてみようとはしなかったのです。そして私も、「このデータはらせん構造を示唆していない」という彼女の言葉を鵜呑みにしていたのです。なんてことでしょうか!

我々はマウスを使って多くの測定をやり直し、高精度の三次元データを得ました。細かい点を解明するには、さらに高い精度で測定する必要があります。

どうぞよろしくお願いします。それからオディール(訳注:クリックの妻)にもよろしくお伝えください。 敬具

M

追伸  私はフラットを買おうと思っています。

二重らせんの「第三の男」こと、モーリス・ウィルキンズ。 | 拡大する

GEORGE SILK/TIME & LIFE PICTURES/GETTY IMAGES

この手紙の調子からすると、二重らせんモデルの発表後に書かれたもののように思われる。また、ウィルキンズがクリックにモデルの座標を教えてほしいと頼んでいること、「結晶データ」がきれいになってきたと言っていること、マウスのDNAを使っていることなどの詳細を見ても、1953年と考えたほうがつじつまが合う。ウィルキンズがDNAの構造を詳細に明らかにする最初の論文をNatureに発表したのは1953年10月であるし、このとき初めてマウスのDNAを使ってデータを得ているからである。また、ワトソンの『The Double Helix』には、ウィルキンズが1953年1月末に新しい住居を探していたことが書かれている。以下、そのくだりである。「しかし、シャブリを1本飲んでいるうちに厳密な話を聞きたいという気持ちはしだいに薄れてしまい、ソーホーを出てオックスフォード通りを横切って行くときに、モーリスが、もっと静かな地区の明るいフラットを見つけたいという話をしただけで終わってしまった」。

1953年6月の初頭、ワトソンは、コールド・スプリング・ハーバー研究所(米国ニューヨーク州)で毎年開かれるシンポジウムで、二重らせんモデルを初めて発表した。そのシンポジウムの紀要に掲載されたワトソンとクリックの論文には、ウィルキンズが提供したA型(結晶型)DNAのX線回折パターンの写真も含まれていた。今回、このシンポジウムが始まった1953年6月5日にクリックがウィルキンズに書いた手紙が発見され、このX線写真に対するクリックの本心が明らかになった。

私は、今回初めて、A型構造の写真の詳細な分析結果を見ました。これを先に見ていなくて本当によかったと言わざるを得ません。もし先に見ていたら、私はひどく悩んでしまったに違いないからです。

フランシス・クリックとモーリス・ウィルキンズの間で交わされた書簡には、両者の対照的な性格が表れている。 | 拡大する

COLD SPRING HARBOR LABORATORY ARCHIVES

この回折パターンこそ、ロザリンドに、少なくとも結晶型のA型では、DNAの構造はらせんではないと確信させたX線回折パターンだった。彼女はすでに、B型DNAがらせん構造をとることを強く示唆する写真(その中には51番写真もあった)を持っていたにもかかわらず、である。結晶型のA型DNAからは質のよい回折データが得られていたし、ロザリンドの綿密かつ定量的なアプローチはそれに適していた。そこで彼女は、1952年はもっぱらA型DNAを調べていた。そして、ゴズリングとともに、よく知られている「『DNAへリックス(結晶型)氏』の死去を告げる黒縁の死亡通知」を作ったのだった。

1954~64年:「二重らせん」騒動の後

ウィルキンズとクリックの新発見の書簡の残り22通は、1954~64年の10年間に書かれたものだった。その多くは、ウィルキンズがどんどん解明していったDNAの構造に関する結晶学的詳細に関するやりとりであり、後年の手紙には、学術機関での雇用の問題やその他の事務方の問題に関する助言も見られる。なかでも、次の2つのテーマは、皆さんの興味を引くのではないだろうか。

1つ目は、1954年10月29日付のウィルキンズからクリックへの手書きのメモだ。そこには、クリックとワトソンが何の実験もせずに二重らせんモデルに到達したという事実に対する厭味も読み取れる。

あなたの手紙を読み、あなたが計画している出版物のリストを見ると、つくづく感心してしまいます。あなたが実験を回避するために考えついた新しい計画、もとい、あなたの本に興味を持ちましたといっても、悪く思わないでください。

本とは何のことだろう? 今回新たに発見された書簡が、この疑問に答えてくれる。ニューヨークのアカデミック・プレス社からクリックへ送られた1954年6月28日付の手紙は、『The Central Problems in Molecular Biology』という本を出版したいというクリックの提案を熱烈に歓迎している。本の大要も決まり、タイトルも、もっとインパクトのある『Genes and Proteins』に変更された。けれども残念ながら、この本が執筆されることはなかった。その後、6年間、出版社からのお願いが悲壮感を増していくのに対し、クリックの返事は逃げ口上と弁解だらけになっていく。その一連のやりとりのすべてが、今回見つかった書簡に記録されている。出版社から送付された契約書まであったが、クリックは署名していなかった。

クリックがこの本を書いていたら、どうなっていただろうか? おそらく、現在第6版となっている、ワトソンが1965年に執筆した『Molecular Biology of The Gene(邦題:遺伝子の分子生物学)』は出版されることはなかっただろう。今回この書簡を見たワトソン自身もそう語っている。

2つ目のテーマは、「頭脳流出」に関する新事実についてだ。これで、この記事を締めくくるとしよう。「頭脳流出」という言葉は、1960年代初頭に英国人研究者が主として米国に脱出してしまうことへの懸念から生まれた造語である。まずは、ウィルキンズからクリックへの1959年5月9日付の手書きの書簡だ。クリックは当時、サバティカルでハーバード大学化学科にいた。当時結婚したばかりのウィルキンズは、クリックからの祝福の言葉に感謝し、そして「もっと重要な話」に入った。

あなたは英国に戻って来ないのではないかと皆が噂をしています。もし戻って来なかったら、MRCの研究ユニットが回復不可能な打撃を受けるのは確実で、ひょっとすると崩壊してしまうかもしれません。そうなれば、英国における分子生物学の発展は止まるでしょう……そして、もし分子生物学が衰退してしまったら、生物学全般にどのような影響を及ぼすのでしょうか?

……あなたを英国に引き留めるために我々にできることがあるなら、知らせてください。ここが、いろいろな意味で腐っていることはわかっています。けれども、まだ絶望的と言うほどではありません。我々には誇るべきものがたくさんあります。フランシス、どうか私や、ほかの人々に教えてほしい。私にも、できることがあるかもしれない。……あなたが本当に行ってしまうのなら、大いに騒ぎ、物議を醸してほしい。人々の目が覚めるように!

実際、多くの英国人研究者が、クリックを失うことを危惧していたようだ。新しい資料からは、ネビル・モットからの手紙も見つかっている。モットは、ブラッグが英国王立科学研究所に移った後にケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所の所長に就任した人物である。以下は、1959年3月6日付の手紙の全文だ。

親愛なるフランシス

あなたから手紙をもらえるとは、とてもうれしいことです。

あなたのMRCの研究棟を建設する計画は順調に進んでいます。ですからどうか、誘惑に負けないでください……。

ネビル・モット

人々が感じていた脅威は現実のものだった。当時、クリックの最も親しい同僚はブレナーだった。コールド・スプリング・ハーバーのブレナー・コレクションの中には、クリックとブレナーの間で交わされた書簡が多数含まれているが、我々はその中から当時の事情がよくわかる2通の手紙を発見した。1959年3月17日付の手紙の追伸には、「仕事のオファーが複数来ていますが、これについては6月に話し合いましょう」と書かれている。けれどもクリックはそんなに長く待てなかったとみえて、4月11日に再度ブレナーに手紙を書いている。

誘惑に関しては、新しい研究室(LMB)の計画が通るなら、そして、もしあなたがケンブリッジにとどまると言うのなら、私もケンブリッジに残ろうと決心しました。でも、どうか当面は他言しないでください。

英国の分子生物学の発展にとって幸運なことに、クリックは米国から戻って来た。彼はブレナーと共にケンブリッジに残ったのだ。だが、その後、1977年にソーク研究所(米国カリフォルニア州サンディエゴ)に移ると、それきり戻って来なかった。この貴重な私的書類を残して。 (終)

(翻訳:三枝小夜子)

Alexander Gannは、コールド・スプリング・ハーバー研究所出版会の編集ディレクター。

Jan Witkowskiは、コールド・スプリング・ハーバー研究所バンブリー・センター理事。

謝辞:
寛大にも書類をCSHL資料室に寄贈してくださったSydney Brenner氏と、今回の寄贈に尽力してくださったMila Pollock氏(CSHL図書館および資料室理事)に感謝いたします。

参考文献

  1. Watson, J. D. The Double Helix: A Personal Account of the Discovery of the Structure of DNA (Norton Critical Editions, ed. Stent, G. S.) (Norton, 1980).
    『二重らせん』 ジェームス・D・ワトソン著 江上不二夫/中村桂子訳 講談社
  2. Wilkins, M. The Third Man of the Double Helix: The Autobiography of Maurice Wilkins (Oxford University Press, 2003).
    『二重らせん 第三の男』 モーリス・ウィルキンズ著 長野敬/丸山敬訳 岩波書店
  3. Maddox, B. Rosalind Franklin: The Dark Lady of DNA (HarperCollins, 2002).
    『ダークレディと呼ばれて 二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実』ブレンダ・マドックス著 福岡伸一監訳 鹿田昌美訳 化学同人
  4. Olby, R. The Path to the Double Helix: The Discovery of DNA (Univ. Washington Press, 1974).
    『二重らせんへの道 分子生物学の成立』 ロバート・オルビー著 長野敬/石館康平/石館三枝子/木原弘二/道家達将訳 紀伊國屋書店
  5. Judson, H. F. The eighth Day of Creation: Makers of the Revolution in Biology, 25th Anniversary Edition (Cold Spring Harbor Lab. Press, 1996).
    『分子生物学の夜明け 生命の秘密に挑んだ人たち』H・F・ジャドソン著 野田春彦訳 東京化学同人
  6. Olby, R. Francis Crick, Hunter of Life's Secrets (Cold Spring Harbor Lab. press, 2009).

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Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

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