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カイメン由来の乳がん治療薬が承認へ

Nature ダイジェスト Vol. 8 No. 3 | doi : 10.1038/ndigest.2011.110306

原文:Nature (2010-12-02) | doi: 10.1038/468608a | Complex synthesis yields breast-cancer therapy

Heidi Ledford

海綿動物から抗がん物質ハリコンドリンBが見つかって二十余年。その鏡像異性体の多さのゆえ実用化が困難であったが、研究者のたゆみない努力により、ようやく新薬として承認にこぎつけた。

エリブリン(差し込みの化学構造)は、海綿動物のクロイソカイメン(Halichondria okadai)から単離された化合物をヒントに作り出された。 | 拡大する

YASUNORI SAITO

2010年11月15日、米国食品医薬品局(FDA)は「ハラヴェン(Halaven:エリブリンメシル酸塩)」を乳がん治療薬として承認した。どんな抗がん剤でも、新しい薬剤が承認・販売されることは、切実な患者にとって希望の光となるが、今回の場合、格別な意味を持つ。エリブリンは、海綿動物のクロイソカイメン(Halichondria okadai)で見つかったハリコンドリンBという分子の構造の一部を模倣した合成化合物であり、非常に複雑な分子である。研究者らは約25年にわたる奮闘の末、ようやくこれを作り出したのだ。今回の承認は、「天然物の全合成」という化学分野が、苦労を重ねて勝ち取った成果である。残念ながらこの分野は、学術的には今でも人気があるが、製薬業界ではほとんど廃れてしまっている。

ハリコンドリンBは1986年に見つかり、その後すぐに、強力な抗腫瘍活性があることがわかった。しかし存在濃度が非常に低いため、単離が難しかった。さらに構造がものすごく複雑で、発見当時の化学の力では、ゼロから生成することは不可能に近かった。

しかし、数年後、ハーバード大学(米国マサチューセッツ州ケンブリッジ)の有機化学者、岸義人がハリコンドリンBの構造に着目し、試しにその合成をやってみることにした。ただ、岸によれば、彼らはハリコンドリンBのもつ抗がん特性にはほとんど関心を持っていなかったという。単に、ある化学反応を試すための材料が欲しかっただけだったのだ。それは「野崎・檜山・岸反応」と呼ばれる化学反応で、これを使うと炭素原子どうしを結合させることができる。

きっかけは何であれ、岸らはハリコンドリンBの合成という難題に取り組んだ。天然有機物質では炭素原子がキラル中心となることが多く、互いに鏡像的な立体配置をとる鏡像異性体を生じる。「キラル中心に結合する原子を完璧に配置しなければ、立体構造の異なる分子の混合物ができてしまい、目的の分子の単離がものすごくやっかいになります」と、ケンブリッジ大学(英国)で天然物の合成研究に携わるIan Patersonは話す。鏡像異性体どうしは、大半の化学反応に違いはないが、生物学的活性は全く異なる。

驚いたことにハリコンドリンBには32か所ものキラル中心があり、計算上、232通り(40億通り以上)の鏡像異性体が存在することになる。「とんでもない数ですよ」と、ケース・ウエスタン・リザーブ大学(米国オハイオ州クリーヴランド)の有機化学者Robert Salomonは話す。彼の研究室では1990年代初めにハリコンドリンBを合成しようとしたが、4年を費やした末に不成功に終わっている。

そうした難しさにもかかわらず、岸らはハリコンドリンBの合成に成功し、1992年に合成法を発表した(T. D. Aicher et al. J. Am. Chem. Soc. 114, 3162–3164; 1992)。その頃までには、米国立がん研究所(NCI;米国メリーランド州フレデリック)の天然物研究部門の研究チームにより、ハリコンドリンBが細胞骨格を構成するタンパク質の合成を阻害して、がん細胞を退治することが見つけられていた。細胞骨格は、細胞内部に張り巡らされた微小な管や繊維からなる骨組み構造で、細胞の形状を保つ働きをしている。ハリコンドリンBが阻害するタンパク質はチューブリンと呼ばれ、がん細胞が急速に増殖するために必要なもので、タキソール(パクリタキセル)など数種類のがん化学療法薬の標的にもなっている。

深海で作られる薬

しかし、岸らの合成法は、少量のハリコンドリンBを生成する場合に限られたため、前臨床試験や臨床試験で使うのに十分な量を合成できる見込みは低かった。そう語るのは、NCI天然物研究部門で現在部長を務めるDavid Newmanである。彼は、ハリコンドリンBを天然試料から単離すればいいだけの話だと考え、この貴重な化合物を得るため海に向かった。

Newmanの研究チームは、ニュージーランド沖の深海から、クロイソカイメンではないが、同じくハリコンドリンBを含む海綿の一種(Lissodendoryx)を1t以上採集した。彼は、海綿をもっと増やすための研究チームも立ち上げ、水上飛行機を飛ばして、沖合に養殖場を作った。そこでブイの下40mに定着用の装置をぶら下げて、海綿を育てた。しかし、この努力で得られたハリコンドリンBはわずか300mg。コメ数粒分の重量しかなかった。「ハリコンドリンBのせいで白髪になってしまったよ」。Newmanからは、そんな冗談すら飛び出す。

一方、エーザイ株式会社(東京都文京区;以下、エーザイ)は、すでに岸の製法の特許ライセンスを取得し、ハリコンドリンBの数百種類に上る構造類似体の合成に着手していた。Newmanがニュージーランドで収穫した量は、これらの類似体の一部と比較解析するのに十分だった。そうした類似体の1つがエリブリンだった。エリブリンは、ハリコンドリンBよりも効き目が強いが、分子はハリコンドリンBよりも実質的に小さく、合成が容易である。とはいえ、エリブリンでもキラル中心は19個あり(上図の化学構造を参照)、商業規模での生産はとても無理だと思われた。

エーザイによると、エリブリンの合成工程は62段階あるという。これは市場向け薬剤としては驚くほど長い工程だ。同社は最初、この合成プロジェクトについて不安を持っていたようだ。だが、第I相臨床試験からエリブリンの安全性が示され、また、臨床での有効性を示す手がかりが得られたことで、「不安材料はすべて消えました」と岸は言う。

その後の臨床試験で、同じく天然物類似体のタキソールなど、ほかの化学療法薬では効果が得られなかった乳がん後期患者において、エリブリンによって生存期間が平均2.5か月延びることが示された。解析によれば、エリブリンが乳がん以外の各種がんの治療薬として承認された場合、10億ドル(約830億円)規模の市場が見込まれるという。

複雑な構造の天然物の合成に、敢えて賭けた製薬会社はエーザイ以外にほとんどない。1990年代に、多くの企業は天然物の化学合成からほとんど手を引いてしまい、合成化学物質の巨大ライブラリーから薬剤候補をスクリーニングで探すことに軸足を移してしまったと、Michael Jirousekは話す。彼は、かつてハリコンドリンBの合成を研究していたが、バイオテクノロジー企業Catabasis社(米国マサチューセッツ州ケンブリッジ)を共同設立して、現在はその科学部門最高責任者となっている。「天然物のスクリーニングとその活性成分の単離は、忘れ去られた技術になりつつあります」とJirousek。

全合成の支持派は、エリブリンこそ、化合物の全合成というやり方が、困難ではあるが成功すれば戦果は大きいことを示す証拠だと息巻く。スクリプス研究所(米国カリフォルニア州ラホヤ)の合成化学者Phil Baranによれば、以前より多くの若い研究者が全合成研究に参入してきており、また、化学的手法の改良のおかげで、商業的に成り立つ工程でもっと複雑な分子を合成することも可能になりつつあるという。「有機化学はますます進歩し、製薬企業が求めるような、より複雑な化合物がいろいろ作れるようになると思いますよ」とBaranは語った。

(翻訳:船田晶子)

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Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

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