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フランシス・クリックの手紙(上)

Nature ダイジェスト Vol. 8 No. 1 | doi : 10.1038/ndigest.2011.110114

原文:Nature (2010-09-29) | doi: 10.1038/467519a | The lost correspondence of Francis Crick

Alexander Gann, Jan Witkowski

DNAの二重らせんモデルで名高い、フランシス・クリック。彼がワトソンと共に、このモデルを構築するまでの経緯については、既に多くの書籍が出版されている。このほど、そうした経緯を新たに彩るクリックの書簡が発見された。そこからは、『二重らせんの物語』に秘められた登場人物たちの個性と緊迫した微妙な人間関係が、鮮明に浮かび上がってくる。Nature ダイジェストでは、今回初公開となるこれらの書簡について、3号にわたって掲載する。

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COLD SPRING HARBOR LABORATORY ARCHIVES

1975年の夏、ジェームス・ワトソンはフランシス・クリックに、「RNAタイクラブ」についての本を出版しようともちかけた。RNAタイクラブは、RNAと遺伝暗号の謎に挑む24人のメンバーからなる非公式なグループだった。これに対してクリックは、7月16日付で「残念ながら、私の昔の書簡のほとんどすべてが、“有能すぎる”秘書の手で、知らないうちに捨てられてしまったのです」と答えた。2001年にクリックから研究に関する書類の大半を譲り受けたロンドンのウェルカム図書館も、この一文を引用して、「初期の書簡の一部が失われている点にご注意ください」と警告している。

ところが、この「失われた書簡」は実際には捨てられてはいなかった。シドニー・ブレナーの書類に紛れ込んでしまっていたのだ。ブレナーとクリックは、1956年から1977年までケンブリッジ大学で1つのオフィスを共有し、また何度もオフィスの引っ越しをしている。2人は、キャヴェンディッシュ研究所から、彼らのいうところの「小屋」を経て、英国医学研究会議(MRC)の新しい分子生物学研究所(LMB)に移っていたし、LMBの中でも移動していた。だから、クリックの書簡の一部がブレナーの書類に紛れ込んでいても、なんら不思議なことではなかった。実際、クリックが1961年に著名なファージ遺伝学者ヴァツワフ・シバルスキに送った手紙には、こんな一節がある。「12月15日付のお手紙への返信が遅れたことをお詫びします。実はお手紙はクリスマスシーズンに到着したため、シドニー・ブレナーの書類に紛れ込んでしまっていたのです」。

2010年初頭、我々は、ブレナーがコールド・スプリング・ハーバー研究所図書館の資料室に寄贈した書類の中から、クリックの書類を発見した。書類は、写真、論文のプレプリントやリプリント、学会のプログラム、メモ、新聞の切り抜きなど、さまざまなものがあり、9箱に及んだ。その中に、「失われた書簡」が含まれていたのだ。日付は1950年から1976年にわたっており、多くは1950年代中ごろから60年代中ごろに書かれていた。

最も興味深いのは、クリックとモーリス・ウィルキンズがそれぞれDNAの構造を模索していた時期に交わされた書簡だ。これらの書簡には、ライバル関係にある研究グループの間でのやりとりが詳細に記され、かかわった人々の性格がまざまざと映し出されている。ほかにも、分子生物学の発展に多大な貢献をしたさまざまな研究者とのやりとりから、今回初めて明らかになった事実がある。冒頭のワトソンの提案と最も関係が深いのは、RNAタイクラブの創設者ジョージ・ガモフと交わされた30通の書簡だ。このほか、アレクサンダー・リッチ、レオ・シラード、ガンサー・ステント、ソル・スピーゲルマン、シーモア・ベンザー、チャールズ・ヤノフスキー、ポール・バーグ、マリアン・グルンベルグ=マナゴ、マーロン・ホーグランドなどとも交流があった。

コレクションの中には、一般的な話題に関する書簡も含まれていた。1963年から始まるC. P.スノウとのやりとりでは、『二重らせんの物語』を一般の人々に知ってもらうために本にするべきだ、とスノウが提案している。ワトソンが『Double Helix(邦題:二重らせん)』1を出版する5年も前の話である。J.ロバート・オッペンハイマーとの書簡には、プリンストン高等研究所(米国ニュージャージー州)への分子生物学者の招聘について書かれている。Natureも1973年に、ジョン・マドックス編集長の1回目の辞職の際に、後任について助言を求めている。また、オックスフォード英語辞典の編集長R. W.バーチフィールドは、1964年の手紙で「codon(コドン)」という単語について訊いている。こうしたまじめな手紙以外にも、友人からのふざけた個人的な葉書や、クリックが「狂人」というタイトルでファイルするよう印をつけた手紙、回想録『Spycatcher(邦題:スパイキャッチャー)』で有名な英国情報部の元スパイ、ピーター・ライトが、1962年10月にある「極秘事項」について話し合うための会見を求める手紙(クリックはこれに応じている)もあった。

なかでも、クリックが1967年9月22日に英国学士院の事務局長D. C.マーティンに書いた手紙は、彼のウィットに富んだ人柄を表している。

親愛なるマーティン

「こんな人には英国学士院を訪問してほしくない」というテーマでパロディーを制作しなければならなかったら、「畑違いの研究をしている人」、「興味をもっていないテーマについて講演をしたいと申し出る人」、「英語を話せない人」が適任でしょう。残念ながら、P×××教授は、すべてを満たしています。もう、おわかりですね。彼が訪問しても、ほとんど無意味だと我々は感じています。 敬具

F.H.C.クリック

ウィルキンズとの書簡

今回新たに、1951~64年にクリックとウィルキンズの間で交わされた手紙34通と葉書3枚が発見された。うち手紙11通は、とロザリンド・フランクリンがロンドン大学キングスカレッジで、ワトソンとクリックがケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研究所でDNAの構造を研究していた1951~53年に書かれている。そのうち1通だけが、これまでに引用されたり印刷物の中で言及されたりしており、ウィルキンズ著『The Third Man of the Double Helix(邦題:二重らせん 第三の男)』2 の中でも、ごく短く引用されている。

この時期の手紙の大半は手書きで、おそらく写しは存在しない。今回我々は、『二重らせんの物語』と関係の深い部分だけを選び出して引用した。その際、本人が挿入した文字は文中に入れたが、削除された文章を再現することは控えた。また、原文で下線が引かれた箇所には同様に下線を引き、つづりも原文のままとした。例えば、フランクリンは「Rosy」とも「Rosie」とも表記されている。

新たな書簡により、科学史上最も有名な『二重らせんの物語』の主要登場人物の人間模様が鮮やかによみがえり、現代の我々に語りかけてくるようだ。かつてブレンダ・マドックスが著書『Rosalind Franklin(邦題:ダークレディと呼ばれて)』3の中で、「歴史のあやとは見事なものだ。ウィルキンズは生々しい手紙をもう1通したためていたのだ」と記しているが、今回の発見はまさにぴったり当てはまる。

DNAの構造の発見から発表に至る『二重らせんの物語』。新発見の書簡は、その第一幕から第四幕までのいずれかに関係している。さあ、物語を始めよう。

1951年12月:最初のモデルの大失敗

1951年11月21日、フランクリンはキングスカレッジの討論会で、最新の実験結果を発表した。ワトソンはこれを聞きに行っていたが、DNAの構造中の水分含有量を間違って記憶してしまい、パディントン駅で落ち合ったクリックにその数字を伝えてしまった。2人はそれからオックスフォードに向かった。クリックが、ドロシー・ホジキンとらせん分子の回折理論について話し合いたがったからである。

ワトソンが伝えた水分含有量は、実際の値よりも1桁小さかった。そのためクリックは、DNAがとりうる構造の種類は非常に少ないと考え、分子模型を組み立てるだけで正解に到達できるかもしれないと考えた。1週間後、彼らは見たところ制約を満たしていると思われる分子模型を組み立て、キングスカレッジの人々を招いて、自分たちの「巧みな作品」を見せた。それは、塩基が外側に突き出ている三重らせんで、3本の鎖はナトリウムイオンとリン酸基の間の静電相互作用によって束ねられていた。フランクリンは、分子模型を見た瞬間、それが間違っていることに気付いた。

大失敗をしたワトソンとクリックは、DNAの研究を一時中断した。そもそも彼らは、自分たちの手で実験をしていなかった。一般に、キングスカレッジのMRCユニットを率いるジョン・ランドールと、キャヴェンディッシュ研究所のウィリアム・ローレンス・ブラッグ所長が内密に話し合った結果、研究の中断を決定したといわれている3-5。しかし、今回発見された書簡から、ランドールとブラッグによる直接の話し合いと並行して(あるいはそれに取り代わって)、ウィルキンズとクリックの間でやりとりがあったことが明らかになった。ここに、ウィルキンズがクリックに宛てて書いた1951年12月11日付の手紙(一部)を記載する。この手紙は、手書きではなくタイプされており、書き出しこそ、「親愛なるフランシス」と親しげだが、内容は形式張った堅苦しいものである。

非常に申し上げにくく、誠に遺憾なのですが、我々の意見を統括しますと、ケンブリッジで核酸の研究を続けるというあなたのご提案には反対させていただくことになります。我々が申し上げたいのは、あなたのアイデアは先日の討論会での議論から直接導かれたものであり、あなたがご自分の意見を確信しておられるのと同じくらい、私にはあなたのアプローチが唐突なものに思われるということです。

……我々の研究室のメンバー全員が、過去においてそうであったように、未来においても、自分たちの研究についてあなたがたと安心して議論しアイデアを交換できるように、折り合いをつけることが非常に大切だと、私は考えます。我々は、MRCの2つの研究室であり2つの物理学部門であり、多くの接点があります。個人的には、自分の研究についてあなたと議論することは非常に有益だと感じています。ただ、土曜日のあなたの態度を拝見すると、一抹の不安を感じます。

ウィルキンズは、ワトソンとクリックがキングスカレッジから遠く離れて研究しているなら事情は異なるのだがといい、もしキャヴェンディッシュ研究所の人々がキングスカレッジのこうしたやり方をフェアでないと感じるのなら知らせて欲しいと告げた。さらにウィルキンズは、この手紙をマックス・ペルツに見せることを提案し(そうすれば、おそらくブラッグも見ることになるだろう)、また、ランドールの要請により手紙の写しを保管しているとも説明した。ウィルキンズは、自分はランドールとキャヴェンディッシュ研究所の仲裁をしているのだと信じていた。このことは、同じ日に投函された、もっと私的な手書きの手紙、明らかにランドールの監視を受けていない手紙からもうかがえる。

親愛なるフランシス

あなたにこの手紙を書くのは、私が今回の騒ぎにどんなにうんざりしているか、どれほど不快に感じているか、それでもあなたに対してどんなに深い友情を抱いているかをわかってほしいからです(そのようには見えないかもしれませんが)。我々は今、強大な軍勢のはざまにいます。へたに動けば粉砕されてしまうでしょう……。私は、ランドールがブラッグにあなたがたの行為に対する抗議の手紙を書かないように説得しなければなりませんでした。もちろん、彼は思いとどまってくれましたが、あなたが今後もブラッグの下で研究を続けていくのなら、他人の厚意を踏み台にした一流のアイデアで手柄を立てようとせずに、黙々と着実に仕事をしてアイデアを積み重ね、「騒動」を起こさないほうが、はるかに重要だと思いますね。

実際、あなたがたがあらゆる重要事項に興味をもちすぎると、私は、いささか混乱してしまうのですよ。「混乱してしまう」というのは言葉どおりの意味で、今の私は、ポリヌクレオチド鎖などに関して、ほとんど論理的に考えることができないのです。

それから、ジム、残念な人ですね。私は涙が出そうですよ。

ウィルキンズの手紙は友人のジョン・ケンドリューによろしくという言葉で終わっている。そして後から思いついたように、手紙のいちばん上に、「(これをジョンに見せるとよいかもしれない)」と書き添えてある。ウィルキンズは、キャヴェンディッシュ研究所の上級研究員であるケンドリューのことを、思いやりがあり、取りなしが上手な人物だと考えていた2。ウィルキンズは、ケンドリューが事態の収拾に手を貸してくれることを期待していたのかもしれない。あるいは単に、友人には自分の本当の気持ちと、この騒動における自分の立場をわかって欲しいと期待しただけかもしれない。

クリックとワトソンからの返信の手書きの草稿は、その2日後の1951年12月13日付になっていて、何度も修正を重ねた跡がある。手紙は次のように始まっている。

親愛なるモーリス

お手紙、どうもありがとうございました。短いながら励ましの手紙を書きます。この事態を収拾する最善策は、あなたに手紙を書いて、我々の考えを穏便に説明することだと思っています。そのために、1、2日、時間をいただきたいのです。遅れて申し訳ありません。ただ、ご心配にはおよびません。我々も、平和協定を結ぶ必要があることに全く異論はありませんので。

そしてクリックらは、ウィルキンズの研究室が近いうちに「生体分子の構造に関する重要問題」の1つを解決する可能性は「非常に高く」、まさに「幸運な位置」にいると指摘した。その後にはこんな一文があったが、削除されていた。「そうすることで、あなたが生物学の真に重要な問題の多くの扉を開くのです」。

しかしながら、こんな褒めそやした結びの代わりに、手紙は次のような言葉で終わっている。

……だから、元気を出して、我々を信じてください。そして、たとえ我々があなたにひどい仕打ちをしたとしても、友情に免じて許してくださいね。今回の我々の泥棒行為がきっかけとなって、あなたがたの研究グループに統一戦線が形成されることを願っています! 敬具

フランシス

ジム

慌ただしく発送されたこの3通の書簡では、2つの陣営の雰囲気とスタイルの違いが際立っている。ウィルキンズの手紙からは苦悩がにじみ出ている一方、ケンブリッジのチームにとっては最悪の時期であるはずなのに、ワトソンとクリックの返信は無頓着とも高慢ともいえるものだ。クリックらが指摘しているように、キングスカレッジのグループは、既に分裂し、機能不全に陥っていたのだ。 (次号へ続く)

『二重らせんの物語』の主要登場人物『二重らせんの物語』の主要登場人物

キャヴェンディッシュ研究所(ケンブリッジ)

ウィリアム・ローレンス・ブラッグ(1890–1971):
X線回折法の開発により、1915年に25歳の若さで父ウィリアム・ヘンリー・ブラッグとともにノーベル賞を受賞。彼が打ち立てたノーベル賞受賞の最年少記録は今日も破られていない。1951年にワトソンがケンブリッジ大学にやって来たときには、キャヴェンディッシュ研究所の所長として、ペルツ、ケンドリュー、クリックを統括していた。1954年に英国王立科学研究所に移動。1968年にはワトソンの『The Double Helix』の序文を書いた。この序文がなかったら、本は出版されなかったかもしれない。

マックス・ペルツ(1914–2002):
1936年にキャヴェンディッシュ研究所に来てから、25年の歳月をかけてヘモグロビンの構造を決定し、1962年にケンドリューとノーベル化学賞を共同受賞。クリックの博士論文指導教官として、しばしばクリックとブラッグの間をとりもった。1962年にMRCの分子生物学研究所(LMB)が設立されると、1979年に引退するまで、その所長を務めた。

ジョン・ ケンドリュー(1917–1997):
1945年にキャヴェンディッシュ研究所に入所後、ミオグロビンの構造を決定し、1962年にペルツとノーベル化学賞を共同受賞。後に、分子生物学の主要な擁護者となった。欧州分子生物学機構(EMBO)の設立者の1人であり、欧州分子生物学研究所(EMBL)の初代所長。

フランシス・クリック(1916–2004):
1949年に33歳でキャヴェンディッシュ研究所に来たときには、まだ博士号を取得していなかった。その後理論家としてめきめきと頭角を現し、DNAの二重らせん構造を発見した後は、遺伝暗号の解明において中心的な役割を果たした。1977年にソーク研究所(米国カリフォルニア州サンディエゴ)に移り、意識の研究に取り組んだ。

ジェームス D.ワトソン(1928–):
ウィルキンズが得ていたDNAの回折パターンを見て、結晶学こそは遺伝子に至る道であると確信し、1951年にキャヴェンディッシュ研究所に来ると、すぐにクリックと緊密な協力関係を築いた。1968年に出版してベストセラーとなった『The Double Helix』は、この時期の出来事を描いている。ハーバード大学で学部を築き上げた後、コールド・スプリング・ハーバー研究所の所長となり、ヒトゲノムプロジェクトの初代ディレクターに就任した。

ロンドン大学キングスカレッジ

ジョン・ランドール(1905–1984):
1941年から70年まで物理学教授。MRC生物物理学研究ユニットを設立して所長となり、そこにウィルキンズ、フランクリン、ゴズリングらが在籍していた。彼は、パリにいたフランクリンに手紙を書き、キングスカレッジに来たら、単独のリーダーとしてDNA研究に当たってほしいと説明していた。一方、ウィルキンズにはフランクリンと共同でDNA研究に取り組むと思わせてしまい、この行き違いから大きな亀裂が生じてしまった。

モーリス・ウィルキンズ(1916–2004):
ランドールに従って1941年にキングスカレッジにやって来た。1950年にDNAの研究を始め、大学院生ゴズリングとともに、当時としては最高のDNAのX線回折画像を得た。1946年にクリックと出会い、後に親友となった。1962年にワトソンとクリックとともにノーベル医学生理学賞を受賞。

ロザリンド・フランクリン(1920–1958):
1951年にキングスカレッジにやって来た。当初はタンパク質の研究のために雇用されたが、ランドールの指示によりDNA研究に転向することになった。ウィルキンズは彼女が自分のグループに加わると信じていたため、この誤解が彼らの関係を損なった。フランクリンは、ゴズリングとともに、DNAがA型とB型の間で構造を変えることを発見し、有名な51番写真を撮影した。1953年からロンドン大学バークベックカレッジに移り、タバコモザイクウイルスの構造に関して、めざましい業績を残した。1958年にがんで死去したため、1962年のノーベル賞の選考対象にはならなかった。

レイモンド・ゴズリング(1926–):
1949年から大学院生としてウィルキンズの指導を受け、1951年からはフランクリンの指導を受けた。

カリフォルニア工科大学

ライナス・ポーリング(1901–1994):
ノーベル化学賞(1954年)とノーベル平和賞(1962年)を受賞した。著書『The Nature of the Chemical Bond(邦題:化学結合論)』は、この分野の古典とされており、クリックは1951年のクリスマスにワトソンにこの本をプレゼントしている。分子模型の組み立てにより高分子の構造を解くアプローチの主要な擁護者で、1951年にはタンパク質の基本的な構造モチーフであるαへリックスとβシートを見事に導き出した。この成功はブラッグをいたく傷つけた。キャヴェンディッシュ研究所のグループは、半年前に誤った構造を発表したばかりだったからである。DNA構造の探究が行われていた間、息子ピーター・ ポーリングはキャヴェンディッシュ研究所で博士課程研究をしていた。

(翻訳:三枝小夜子)

Alexander Gannは、コールドスプリングハーバー研究所出版会の編集ディレクター。

Jan Witkowskiは、コールドスプリングハーバー研究所バンブリー・センター理事。

参考文献

  1. Watson, J. D. The Double Helix: A Personal Account of the Discovery of the Structure of DNA (Norton Critical Editions, ed. Stent, G. S.) (Norton, 1980).
    『二重らせん』 ジェームス・D・ワトソン著 江上不二夫/中村桂子訳 講談社
  2. Wilkins, M. The Third Man of the Double Helix: The Autobiography of Maurice Wilkins (Oxford University Press, 2003).
    『二重らせん 第三の男』 モーリス・ウィルキンズ著長野敬/丸山敬訳 岩波書店
  3. Maddox, B. Rosalind Franklin: The Dark Lady of DNA (HarperCollins, 2002).
    『ダークレディと呼ばれて 二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実』ブレンダ・マドックス著福岡伸一監訳 鹿田昌美訳 化学同人
  4. Olby, R. The Path to the Double Helix: The Discovery of DNA (Univ. Washington Press, 1974).
    『二重らせんへの道 分子生物学の成立』 ロバート・オルビー著 長野敬/石館三枝子/木原弘二/道家達将訳 紀伊國屋書店
  5. Judson, H. F. The Eighth Day of Creation: Makers of the Revolution in Biology, 25th Anniversary Edition (Cold Spring Harbor Lab. Press, 1996).
    『分子生物学の夜明け 生命の秘密に挑んだ人たち』H・F・ジャドソン著 野田春彦訳 東京化学同人
  6. Olby, R. Francis Crick, Hunter of Life's Secrets (Cold Spring Harbor Lab. press, 2009).

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Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

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