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周期表の発展を支えた女性科学者たちの物語

Nature ダイジェスト Vol. 16 No. 4 | doi : 10.1038/ndigest.2019.190418

原文:Nature (2019-01-28) | doi: 10.1038/d41586-019-00287-7 | Celebrate the women behind the periodic table

Brigitte Van Tiggelen & Annette Lykknes

新元素の発見から既知元素の特性評価まで、周期表を形作る上で重要な役割を果たしてきた女性科学者たちに、化学史学者のBrigitte Van TiggelenとAnnette Lykknesが光を当てる。

元素の周期表は、ロシアの化学者ドミトリ・メンデレーエフ(Dmitri Mendeleev)によって1869年に発表された。だが、この偉業は、1人の科学者の一時期の研究だけで語れるものではない。元素の分類と予測に勤しんだ科学者はメンデレーエフの前や後にも何人もおり、新たな物質の発見と特性評価に取り組んだ科学者に至ってはさらに多い。19世紀半ばのこの頃はまだ、希ガス、放射能、同位体、素粒子、量子力学は全て未知のものだった。

今回我々は、周期表の誕生150周年を記念して、元素の理解において革命をもたらした女性科学者たちを紹介する。中でも最も有名なのは、恐らくフランスの物理学者マリー・キュリー(Marie Curie)だろう。彼女は、放射能の研究、そしてポロニウムとラジウムの発見により2度ノーベル賞を受賞したことで知られている1。しかし、元素の研究で活躍した他の女性科学者たちの功績については十分に知られていない。そして、実験を行う際の粘り強さや不断の努力、データの精査、理論の再評価など、一連の研究で必要となる技能の重要さについても同様である。

化学において、新元素の発見を証明するのは決して容易なことではない。第一歩は、通常とは異なる挙動、すなわち既知の元素に帰属できない化学的振る舞いや物理的特性(原因不明の放射線やスペクトル線など)を見いだすことである。次に、計量や分析、さらには他の科学者を納得させるために、見つけた元素を単体や化合物の形で大量に単離しなければならない。

探索と分類

図1 フランスの物理学者マリー・キュリーに2つの新元素発見の機会をもたらした鉱物、ピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)。 | 拡大する

DEA/PHOTO 1/De Agostini Picture Library/Getty

マリー・キュリーは、1897年にパリ市立工業物理化学高等専門大学(ESPCI;フランス)で博士課程の研究を始めたが、その時のテーマは新元素の探索ではなかった。彼女は、フランスの物理学者アンリ・ベクレル(Henri Becquerel)が1896年に報告した謎めいた放射線「ウラン線」を調べようと考えていたのだ。物理学者である夫のピエール・キュリー(Pierre Curie)と共に研究を進めた彼女は、こうした放射線がウラン以外の元素からも出ていることを突き止め、放射線を出す能力を「放射能」と名付けた。そして彼女は、この研究の過程で「ピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)」と出合う(図1参照)。この鉱物の放射能はウラン単体よりもはるかに強く、彼女はその理由を、ウランの他にも放射線を出す未知の元素が含まれているためと考えた。ピエールもこれに興味を持ち、2人はさまざまな方法で謎の放射性元素の探索に取り組んだ。そして1898年7月、夫妻はついに、ビスマスによく似た性質を持つ「ポロニウム(Po)」の発見を、さらに同12月には、バリウムによく似た性質を持つ「ラジウム(Ra)」の発見を報告する。ところが、他の科学者たちを納得させるための新元素の単離は困難を極め、粉砕、溶解、煮沸、ろ過、結晶化の工程を経て何tもの鉱物からわずか0.1gの純粋な塩化ラジウムを抽出するのに、3年以上の年月を要したという(ポロニウムの単離は最後まで成功せず、その理由は後に半減期が約138日と極めて短いためであることが判明した)。マリーは、1903年に放射能の発見と研究の功績でピエールとベクレルと共同でノーベル物理学賞を受賞し、さらに1911年、ポロニウムとラジウムの発見ならびにラジウムの単離と研究の功績により単独でノーベル化学賞を受賞した。

元素の周期表上での位置は、その元素の質量(原子量)と化学的特性で決まる。例えばラジウムは、その化学的振る舞いはバリウムに非常によく似ているが、原子量はバリウムよりも大きいため、周期表ではバリウムの真下に収まる。原子量の決定は、純粋な物質を必要とするため困難である。

また、原子量や特徴が似た元素同士は区別が難しい。そんな難題に挑んだ科学者の1人に、ロシアの化学者ユリア・レルモントヴァ(Julia Lermontova)がいる。彼女は、ハイデルベルク大学(ドイツ)の化学者ロベルト・ブンゼン(Robert Bunsen)の下で化学を学んでいた時に、白金族金属(ルテニウム、ロジウム、パラジウム、オスミウム、イリジウム、白金)の分離プロセスを改良した2[ブンゼンは、同国の物理学者グスタフ・キルヒホフ(Gustav Kirchhoff)と分光器を開発し、それを用いて1860年にセシウムを、1861年にルビジウムを共同で発見していた]。これはメンデレーエフが周期表を作成した直後のことで、恐らくはメンデレーエフの要請を受けて進められた。彼女のこの研究は、後にこれらのよく似た元素を正しい順番に並べる上で非常に重要な役割を果たしたのだが、そのことに関する唯一の記述は、我々が知る限り、メンデレーエフの文書館に保管されている2人の書簡に残されているだけである。レルモントヴァはその後、ベルリン大学(ドイツ)へと移り、さらにゲッティンゲン大学(ドイツ)で研究を行い、1874年、世界で初めて化学の博士号を取得した女性となった。

原子量の確定は、放射性壊変系列の詳細を解き明かしたり、新元素を質量数が異なる既存元素と識別したりする上で極めて重要なものとなる。また、これによって、周期表には空欄がわずかしかないのに、そこに収まり切らないほど多くの新元素候補が次々に出現してしまう、という問題が解決された。「同じ元素に質量数の異なるものが存在する」という概念は、1913年に英国の化学者フレデリック・ソディ(Frederick Soddy)によって示されたものだが、これを表す「同位体(isotope;ギリシャ語で「同じ場所」を意味する)」という名称は、晩餐会の席でこの話を聞いたスコットランドの医師マーガレット・トッド(Margaret Todd)によって提案されたものだった。

この概念はその後間もなく、ユダヤ系ポーランド人の化学者ステファニー・ホロヴィッツ(Stefanie Horovitz)によって実験的に証明された。オーストリア・ウィーンのラジウム研究所で働いていた彼女は、鉛などの一般的な元素にも質量数の異なるもの(同位体)があり、その種類がウランの放射性壊変に由来するかトリウムの放射性壊変に由来するかによって決まることを示したのである3

当時、広く議論されていた別の問題に、ラジウムから放出される謎の放射性物質「エマネーション」があった。粒子のようでも気体のようでもあるこのエマネーションの正体は、一体何なのか? この問題を解決したのは、カナダのマギル大学(モントリオール)で物理学を専攻していた大学院生のハリエット・ブルックス(Harriet Brooks)と彼女の指導教員アーネスト・ラザフォード(Ernest Rutherford)だった4。1901年、ブルックスとラザフォードは、トリウムから放出されるエマネーションが重い気体のように空気の流れに乗って拡散すること、そしてこの気体が未知の元素であることを示した。これは、1つの元素の放射性壊変で別の元素が生成され得ることを示す、初めての証拠となった。この新元素は1907年、スコットランドの化学者ウィリアム・ラムゼー(William Ramsay)によって、ヘリウム族元素(現在の「希ガス」)に属することが示唆された5。この気体には、研究の過程でさまざまな名前が提案されたが、最終的には「ラドン(Rn)」が採用された。

1902年、ラザフォードとソディは、原子は放射線を放出しながら自発的に崩壊して新たな原子を生成する、とする「放射性変換説」を発表した。ラザフォードはこの研究により1908年にノーベル化学賞を受賞している。一連の研究の重要な第一歩であるラドンの発見と放射性壊変の手掛かりは、ブルックスの貢献なくしては語れないものだったが、彼女の功績が認められることはほとんどなかった。最初の論文こそブルックスとラザフォードの共著であったが6Natureに1901年に掲載された論文7に著者として記載されたのはラザフォードの名前だけで、ブルックスについては「一部の実験で助力があった」と一文で述べられているだけだった。ブルックスは、女性が科学の道で恒久的な地位を得て着実に研究を進めることは(特に結婚してしまうと)難しいと実感していたという。

原子の細分化

その後も、原子核の物理に関する発見は続く。1918年には、オーストリアの物理学者リーゼ・マイトナー(Lise Meitner)とドイツの化学者オットー・ハーン(Otto Hahn)によって、91番元素「プロトアクチニウム(Pa)」の発見が報告された8。マイトナーは、オーストリアで博士号を取得後、就職の機会を求めてドイツに渡った女性科学者である。1907年、彼女はベルリン大学の化学科でハーンの研究協力者の職を得るが、無給である上、女性は姿を見せてはいけないことになっていたため地下で働かなければならなかった。その後、マイトナーはハーンと共にカイザー・ウィルヘルム化学研究所(ベルリン)に移り、1913年に晴れてこの研究所の「研究員」となった。

マイトナーとハーンによる新元素プロトアクチニウムの発見は、放射性壊変によってアクチニウムを生じる「アクチニウムの親元素」を探すという激しい元素発見競争の中での成果だった。そのため、研究には優先権争いが付いて回ったが、マイトナーとハーンが見つけた同位体は半減期が長くて安定だったために、より多くの試料でより完全な特性評価が行えたことが功を奏し、最終的に第一発見者として認められた(図2参照)。

図2 オーストリアの物理学者リーゼ・マイトナー(右)とドイツの化学者オットー・ハーン(左)。
2人は激しい新元素発見競争を制して、プロトアクチニウムの発見者となった。 | 拡大する

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1925年には、75番元素「レニウム(Re)」が、ドイツの化学者イーダ・ノダック(Ida Noddack;旧姓タッケ)と夫のワルター・ノダック(Walter Noddack)、そして電気技術会社ジーメンス&ハルスケ社のオットー・ベルク(Otto Berg)によって、共同で発見された9。イーダ・タッケは博士号を取得後、AEG社の研究所で化学エンジニアとして働いていたが、帝国物理工学研究所(ベルリン)で新元素の探索を行っていたワルター・ノダックに触発され、彼のチームに加わることを決意する(図3参照)。彼女は、無給の客員研究員として迎えられた。2人は、存在が予測されていた新元素について、周期表の同族元素ではなく同一周期の元素に注目、これらの鉱物のX線分光分析をベルクの協力を得て行うことで75番元素を発見し、イーダ・タッケの故郷を流れるライン川にちなんでレニウムと名付けた(翌1926年、イーダはワルターと結婚する)。

図3 ドイツの化学者イーダ・ノダックは、工業界を離れて新元素の探索に挑み、共同でレニウムを発見した。 | 拡大する

KU LEUVEN UNIVERSITY ARCHIVES

その後、夫妻は計量可能な量のレニウムを得るため、膨大な種類の鉱物を調べる作業に取り掛かり、奮闘の末、1928年に600kgのモリブデナイトから1gのレニウムの抽出に成功する。レニウムは、今では地球上で最も希少な元素の1つであることが知られている。ノダック夫妻はまた、レニウムと同時期に43番元素も見つけたと主張し、ワルター・ノダックの故郷であるマズリア地方(現在のポーランド)にちなんでこれを「マスリウム」と呼んだ。しかし、夫妻がそのスペクトル線の再現や物質の単離に成功することはなかった。2人は、一連の研究で「湿式化学」と呼ばれる分析法を用いていたのだが、43番元素は非常に不安定な元素であり、この方法でこの元素を扱うことは実は不可能だったのである。43番元素はその後、1937年に別の科学者らによって初めて人工的に合成された元素となり、「テクネチウム(Tc)」と名付けられた。

マリー・キュリーが、独立した1人の研究者として認められ、夫ピエールの死後にパリ大学(フランス)で彼の職を引き継いだのとは対照的に、イーダ・ノダックは、その研究人生のほぼ全てを夫の研究室で客員として過ごした。彼女が1934年に原子核が分裂する可能性を示唆した時、まともに取り合ってもらえなかったのはこれが理由でもあった。

1932年に中性子が発見され、1934年に誘導放射能が発見されたのを機に、「原子に粒子を衝突させて研究室で元素を合成する」という新しい研究分野が幕を開ける。1934年、ローマ大学(イタリア)の物理学者エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)らは、ウランに中性子を衝突させることにより93番元素と94番元素を合成したと発表した。これに対しイーダ・ノダックは、Angewandte Chemieに掲載された論文10で、フェルミらの結果は、ウランより軽い元素など、他の元素が生成した可能性を排除できていないと指摘。「原子核がいくつかの大きな分裂片に分かれることはあり得る」とし、フェルミの実験結果は核融合反応ではなく核分裂反応の証拠を示していると主張した。だが、フェルミらはその指摘を無視した。

ところが1938年、フェルミの実験を再現していたハーンは、中性子を衝突させたウランの試料中に、衝突前は存在しなかったバリウムが含まれていることに気付く。第二次大戦直前であった当時、ユダヤ人のマイトナーは、母国オーストリアがドイツに併合されたことを受けてスウェーデンへと逃れていたが、彼女はそこでハーンの実験結果を検討し、ウランの原子核が中性子衝突によって原子量が半分程度のバリウムに分裂したことを計算で裏付けた(図4参照)。終戦直後の1945年、ハーンは原子核分裂を発見した功績で1944年度のノーベル化学賞を受賞したが、その際マイトナーの貢献については一切触れなかったという。

図4 ウランの核分裂反応
92番元素のウラン(U;質量数235)に中性子(n)を衝突させると、核分裂が起こり、56番元素のバリウム(Ba;質量数144)と36番元素のクリプトン(Kr;質量数89)が生じる。 | 拡大する

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これらの先駆的な女性科学者たちの多くは、男性科学者たちと共同で研究を行っていたため、貢献の度合いを分けて考えることは容易ではない11。そういった意味では、1939年に単独で87番元素フランシウムを発見したフランスの物理学者マルグリット・ペレー(Marguerite Perey)は、例外といえる12。彼女は、19歳で実験助手としてパリのキュリー研究所に入り、1934年のマリー・キュリーの死後は、キュリー夫妻の娘であるイレーヌ・ジョリオ=キュリー(Iréne Joliot-Curie)とアンドレ=ルイ・ドビエルヌ(André-Louis Debierne)の2人に指導を受けていた。入所以来5年にわたって放射性元素アクチニウムの精製を担当していたペレーは、当時すでにかなりの技術を身に付けていたという。その腕を見込まれ、2人の指導者から別々にアクチニウムの同位体227Acの半減期の正確な値を出すよう依頼された彼女は、その過程で、放射性壊変により生じたとみられる新元素を特定する。この驚きの発見に、ジョリオ=キュリーとドビエルヌはペレーが誰の下で研究を進めていたかについて折り合いをつけることができず、結局いずれの名前もこの重要な論文に共著者として載ることはなかった。この元素はその後、ペレーの母国フランスにちなんで「フランシウム(Fr)」と名付けられた。彼女は1946年にパリ大学で博士号を取得、1949年にはストラスブール大学(フランス)の核化学科を率いるようになり、1962年、フランス科学アカデミーの通信会員として選ばれた初の女性となった(女性の入会に反対する規定はなかったものの、女性の正会員が初めて選出されたのは1979年になってからである)。

このフランシウムはまた、自然界で発見された最後の元素となった。現在、新元素の発見には、大規模なチームと粒子加速器と莫大な予算が必要である。「化学元素」の意味合いも、メンデレーエフ時代の「安定で不変な物質」という概念から、「わずか数ミリ秒しか存在できない同位体種の集まり」へと変化した13

米国の化学者ダーリーン・ホフマン(Darleane Hoffman)は1970年代初め、半減期の極めて短い超重元素の性質を調べる研究によってこの分野に比類なき飛躍をもたらした。フェルミウムの同位体257Fmの核分裂が、中性子との衝突後だけでなく、自発的にも起こり得ることを示したのである。彼女はまた、自然界に存在しないと考えられていたプルトニウムの同位体244Puが、ごく微量ながら自然界に存在することを発見したことでも知られる。1979年、ホフマンはロスアラモス国立研究所(米国ニューメキシコ州)の科学部門を率いる初の女性となり、その後1984年にカリフォルニア大学バークレー校(米国)に移った。彼女は長年にわたり女性科学者の養成に力を注ぎ、教え子の1人には、ローレンス・リバモア国立研究所(米国カリフォルニア州)において重元素研究をはじめ複数のプロジェクトで主任研究者を務めるドーン・ショーネシー(Dawn Shaughnessy)がいる。ショーネシー率いるチームはこれまでに、113番から118番までの6つの新元素の発見に貢献している。

元素を使って

一方、既知の元素の理解を深めるのに貢献した女性科学者は、さらに多い。1886年にフランスの化学者アンリ・モアッサン(Henri Moissan)がフッ素を単離した後、スペインの化学者ホセ・カサーレス・ギル(José Casares Gil)は1920年代から1930年代初めにかけて、マドリード大学(スペイン)の彼の研究室に所属する女性研究者たち(Carmen Brugger RomaníおよびTrinidad Salinas Ferrer他)と共に、フッ素の健康への影響や鉱水に含まれるフッ素の量について調べた。ところが1936~1939年にスペインで内戦が勃発し、女性たちが研究を諦めざるを得なくなると、彼女たちの役割は男性たちに取って代わられ、研究成果はカサーレスの文献目録に収められたという。

米国の化学者リーサ・クラーク・キング(Reatha Clark King)は、米国立基準局(ワシントンD.C.)に勤務した初のアフリカ系アメリカ人女性である14。 彼女は1960年代、フッ素と酸素と水素の気体混合物の燃焼について研究した。フッ素は反応性が高く、ロケットの推進剤に応用される可能性があったが、中には爆発性が高過ぎて特殊な装置や技術を要する混合物もあった。キングはそうした装置や技術を考案し、それらはNASAの宇宙開発において欠かせないものとなった。

1910年代、米国の医師で研究者のアリス・ハミルトン(Alice Hamilton)は、鉛の毒性を証明し、この重金属が一般市民や鉛を扱う労働者の健康に及ぼす影響について明らかにしたことで知られる15。彼女は、保険会社や製造業者に対して安全対策と被害者への補償を強く働き掛け、さらには、水銀などの重金属を扱う労働者の業務上疾病(労働災害)を認めるよう呼び掛ける社会活動を行った。1919年、ハミルトンはハーバード大学(米国マサチューセッツ州ケンブリッジ)の教員に就任した初の女性となり、ガソリンへの鉛の添加が始まってわずか数年後の1925年という早い時期に、すでに批判の声を上げていた。

日系アメリカ人のトシコ・「トッシュ」・マエダ(Toshiko ‘Tosh’ Mayeda)は、1950年代にシカゴ大学(米国イリノイ州)のハロルド・C・ユーリーの研究室で実験助手となり、以来50年以上にわたって酸素同位体の測定や質量分析を行い、数多くの研究に貢献した16。彼女は、貝殻の化石の酸素同位体比を測定して先史時代の海水温の推定に尽力し、その方法を隕石にまで発展させた。

他の全ての日系アメリカ人がそうであったように、マエダもまた、1941年12月の日本軍による真珠湾攻撃の後、強制収容所に送られ、差別を経験した。彼女は化学の学士号しか持っていなかったため、ともすれば、重要な貢献をしながらも日の目を見ない多くの女性実験助手の1人となっていた可能性があった。だが、幸いマエダは上司に恵まれ続け、彼女の名前は多くの論文で博士号取得者や教授らの共著者として掲載された。

より明確になった全体像

女性科学者たちが成し遂げた数々の業績と同様に、今回、彼女たちの物語に光を当てるにはチームワークが欠かせなかった。協力者には、Gisela Boeck、John Hudson、Claire Murray、Jessica Wade、Mary Mark Ockerbloom、Marelene Rayner-Canham、Geoffrey Rayner-Canham、Xavier Roqué、Matt Shindell、Ignacio Suay-Matallanaが含まれる。

こうして、化学史の中に女性科学者たちの足跡をたどることで、無給の研究協力者や実験助手から偉大な研究室の主宰者まで、科学的発見に携わった全ての人々の状況がより明確になってくる。国際周期表年という記念すべきこの年に、周期表というものが、一人一人の努力と幅広い連携によってどのように構築されてきたのか、そして今なお形作られ続けているのかを認識することは、極めて重要である。

(翻訳:藤野正美)

Brigitte Van Tiggelenは、科学史研究所(米国ペンシルベニア州フィラデルフィア)に所属する化学史学者。 Annette Lykknesは、ノルウェー科学技術大学(トロンヘイム)に所属する化学教育学の教授。化学史学者。

参考文献

  1. Quinn, S. Marie Curie: A Life (Perseus, 1995).
  2. Rayner-Canham, M. F. & Rayner-Canham, G. W. Women in Chemistry 61–63 (American Chemical Society & Chemical Heritage Foundation, 2001).
  3. Rentetzi, M. Trafficking Materials and Gendered Experimental Practices (Columbia Univ. Press, 2009).
  4. Rayner-Canham, M. F. & Rayner-Canham, G. W. Harriet Brooks: Pioneer Nuclear Scientist (McGill–Queen’s Univ. Press, 1992).
  5. Ramsay, W. Nature 76, 269 (1907).
  6. Rutherford, E. & Brooks, H. T. Trans. R. Soc. Can. (Ser. 2, Sec. III) 7, 21–25 (1901).
  7. Rutherford, E. Nature 64, 157–158 (1901).
  8. Sime, R. L. Lise Meitner. A Life in Physics (Univ. California Press, 1996).
  9. Van Tiggelen, B. in Chemical Sciences in the 20th Century: Bridging Boundaries (ed. Reinhardt, C.) 131–145 (Wiley, 2001).
  10. Noddack, I. Angew. Chem. 47, 653–656 (1934).
  11. Lykknes, A., Opitz, D. & Van Tiggelen, B. (eds) For Better or For Worse? Collaborative Couples in the Sciences (Springer, 2012).
  12. Adloff, J.-P. & Kauffman, G. B. Chem. Educ. 10, 378–386 (2005).
  13. Hoffman, D. C., Ghiorso, A. & Seaborg, G. T. The Transuranium People (Imperial Coll. Press, 2000).
  14. Brown, J. E. African American Women Chemists 115–123 (Oxford Univ. Press, 2012).
  15. Hamilton, A. Exploring the Dangerous Trades: The Autobiography of Alice Hamilton, M.D. (Northeastern Univ. Press, 1943).
  16. Shindell, M. The Life and Science of Harold C. Urey (Univ. Chicago Press, in the press).

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Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

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